エリザベス
「どうして、こんなことに……」
私室のベッドに横たわったまま、エリザベスは骨の浮きかけた手で顔を覆った。
夕刻にさしかかり、部屋の中は薄暗い。いつもならメイドがランプの灯りをともしに来るころだが、誰も訪れる気配はなかった。
男爵邸襲撃事件……エリザベスは断じて認めたくないが、世間ではそう呼ばれている……以来、使用人が次々と辞めていってしまったせいで、侯爵邸は人手不足に陥っていた。
残りの使用人だけで邸を切り盛りしていかなければならず、いつも通りとはいかないのだとジェナは言っていた。エリザベスのそばを離れなかった彼女も、今はメイドに交じって働いている。
エリザベスが喉が渇いたら自分で水差しから水を汲まなければならないのも、眠れない時に好きな詩を朗読してもらえないのもそのせいだ。
「どうしてこんなことに……」
詮ないこととわかっていても、呟かずにはいられない。
エリザベスはどうしても受け入れられなかった。兄が咎人として王宮に留められていることも、自分を救うために起こした行動が罪とされてしまったことも……自分が先天性魔力枯渇症だということも。
貴族とは魔力を持つ者だ。魔術師と名乗れるほどの者はまれにしか生まれないが、それでも貴族ならある程度の魔力を持っているのが普通であり、誇りだった。
先天性魔力枯渇症は、その誇りを根底からくつがえす病である。
嘘だと思いたかった。エリザベスは確かに身体が弱く、学院にも通えなかったが、邸で静かにしていれば普通にすごせるのだ。時おり寝込んでも、数日後には起き上がれた。
(先天性魔力枯渇症ならベッドから離れられないはずだわ。いいえ、そもそもこの歳まで生きられるかどうかも怪しいもの)
だが兄だけを王宮に残し、自邸に帰るのを許されてからたった一週間で、エリザベスは今まで経験したことのないめまいに襲われた。
翌日には歩けなくなり、二日後には立っていられなくなり、三日目にはベッドから起き上がれなくなり……崖を転がり落ちるように、エリザベスの身体はむしばまれていった。
『残念ですが、先天性魔力枯渇症には魔力ポーションを与える以外の治療法がありません』
往診した医師はそう宣告したきり、何の治療もせず帰っていった。エリザベスもさすがに悟ったのだ。伯父は嘘などついていない。この身体は悪くなっているのではなく、……もとに戻っているだけなのだと。薬だと知らずに飲んでいた、あの毎晩のお茶を飲まなくなったせいで。
『ああエリザベス、なんて哀れな』
共に王宮から帰宅した母グロリアは嘆き、ほうぼう手を尽くして魔力ポーションを購入してくれた。
だが手に入ったのはたったの三本。サムズ男爵家に支払う賠償金が幾らになるかわからないからと、それ以上はベネディクトが許してくれなかったのだ。兄がいない間の家政は王命によってベネディクトに委任されており、グロリアさえ逆らえなかった。
(なんて冷たいのかしら。きっと跡継ぎでもない私なんて死んでもかまわないと思っているのだわ)
今は手に入った三本を少しずつ薄めて飲み、どうにかもたせているけれど、一ヶ月もすれば飲みきってしまうだろう。エリザベスにできるのは一日も早く裁定が下り、兄が戻ってきてくれるよう祈ることだけだ。
兄ならきっとエリザベスのために魔力ポーションを買ってくれる。それでひとまず命をつないでおけば、いずれルーファスが用意していたのと同じ特製ポーションも手に入れてくれるはずだ。
(杖の魔術師の弟子だったということには驚いたけれど、庶子であることに変わりはないもの。あの方に入手できるのなら、侯爵になられたお兄様にできないはずがないわ)
エリザベスにとってルーファスは『母の不誠実な夫』でしかなかった。実父は生まれてすぐ亡くなってしまったから、ルーファスが父親らしくふるまってくれれば慕えたかもしれないが、あの男はろくに声をかけたりもしなかった。
もと王女にして侯爵夫人の母にも敬意をはらうどころか、夜会にも連れてゆかず、卑しい平民の女をはべらせる。
幼いころは父親を求めていたエリザベスも、可愛がってくれる兄がルーファスを悪し様にののしるのを見るうちに、だんだん自分を納得させていった。ルーファスはしょせん卑しい庶子だから、純血の貴族である自分たちとはわかりあえないのだと。
そのルーファスに命を救われていたのは屈辱だが、ルーファスしか中継ぎの侯爵になれなかったのだから仕方がない。晴れて兄が侯爵を継いだなら、兄に特製ポーションを購ってもらえばいいだけのことである。
伯父だって、祖父と一緒にお願いすればきっと購入代金を負担してくれるはずだ。
(私は王家の血筋の娘なのだもの。大切にされなければならない存在なのよ)
伯父と王妃の間には三人の王子がいるが、王女は生まれなかった。妙齢の令嬢でもっとも王家の血を濃く引くのはエリザベスだ。つまりこの先王家がどこかに王女を嫁がせたい時は、エリザベスに頼るしかないのである。
……なのになぜ王家は、特製ポーションの件があったとはいえ、エリザベスとサムズ男爵との結婚を認めたのか。本当に大切にされているのなら男爵との結婚自体許されなかったはずなのだが、邸を出たことのないエリザベスにはわからないし、指摘する者もいない。
(男爵との結婚も破談になったし、お兄様さえお戻りになれば全部うまくいくわ。ああ、早く帰ってきて、お兄様……)
エリザベスの願いが叶ったのは、忌まわしい『事件』から一ヶ月後のことであった。レイモンドは帰宅してすぐにエリザベスの寝室を見舞ってくれた。
「エリザベス……」
「お兄様……」
兄の変容に驚き、次の言葉が出てこない。実の両親の良いところだけを受け継ぎ、黄金の貴公子と謳われた面影はどこにもなかった。
たったの一ヶ月でげっそりと痩せ衰え、やつれた顔は眼窩が落ちくぼみ、まるで病人のようだ。レイモンドに熱を上げていた令嬢たちも一目散に逃げ出すだろう。
驚いているのは、レイモンドも同じだ。
「……本当に、エリザベスなのか……?」
唇を震わせながら指差されても、無礼だとは思わなかった。薄めて飲むポーションはエリザベスを死神の鎌から救ってはくれたけれど、若い娘らしいみずみずしさまでは保ってくれなかった。
今や自力では寝返りすら打てないエリザベスはこの世にうっかり迷い出た幽鬼のようで、若いメイドたちは気味悪がって近づこうともしない有り様だ。
「はい、お兄様。……お待ちしておりました」
ジェナの手を借りて上体を起こし、背中にクッションを当ててもらう。それだけの動作にも強い疲労を覚えたが、エリザベスの胸は期待に弾んでいた。
兄が帰ったのなら、この苦しみともお別れだ。特製ポーションを飲めば身体は回復する。あんな形で破談になった以上、しばらく新たな縁談は持ち込まれないだろう。侯爵令嬢として、いつも通り何の憂いもない暮らしが始まる……そう思っていたのに。
「……え? アスクウィス家が、伯爵家に降格?」
兄の話は完全に予想外だった。
「母上から聞いていないのか? お前にも伝えておいて欲しいと、手紙を送っておいたのだが」
「いえ……、いいえ。お母様からは何も伺っておりませんわ」
グロリアは毎日エリザベスを見舞ってくれるが、そんな話は聞かされていない。伯爵家に降格だなんてアスクウィス家を揺るがす一大事だと、箱入り娘のエリザベスにもわかるのに。
「……そうか。病身のお前に負担をかけるのはしのびないと思われたのかもしれないな。こんなことになって、母上ご自身もお疲れであろうし」
「……ええ、きっと……」
頷きつつも、エリザベスは棘をくるんだ真綿のような違和感を覚えた。
確かに母は心身共に参っているだろう。もと王女にして、内証豊かな侯爵家の夫人。
かつての母にはおこぼれにあずかりたい人々がすり寄り、毎日のようにお茶会だの慈善活動だのに出かけていた。それがレイモンドの事件が公になったとたん、母へのお誘いはぴたりとなくなった。
外出する場所などないはずなのに、グロリアは時おり目だたない馬車を仕立ててどこかへ出かけていくのだとジェナが言っていた。ジェナには友人の家に行くと言い繕ったそうだが、ならばわざわざ人目をはばかる必要はない。
(お母様は、いったいどちらへ……)
「……う、……げほ、げほっ」
「お嬢様!」
考えていると胸が苦しくなり、咳き込んでしまう。ジェナがあわてて背中をさすってくれるが、なかなか楽になってくれない。
「エリザベス、大丈夫か?」
兄もぎこちない手つきながら背中を撫でてくれる。そのおかげかほんのすこしだけ胸を突き刺すような痛みがやわらいだ。
「……え、え。だいじょう……、っ……」
エリザベスは絶句した。口元を覆っていたてのひらに、べっとりと赤黒い血が付着していたのだ。病はとうとう身体の内側までもむしばみ始めたのである。
「エリザベス、それは……」
「……お願い、お兄様」
エリザベスは血に怯え、後ずさる兄のシャツをつかんだ。白いシャツが赤黒い血に染まり、兄が『ひっ』と小さく悲鳴を上げるが、構ってなどいられない。
「特製ポーションを買って、私を助けて」
「……無茶を言うな」
こころよく引き受けてくれるはずの兄は、エリザベスから目を逸らした。
「無茶……? 何が無茶なんですの?」
「お前も聞いただろう。アスクウィス家は伯爵家に降格され、あの男との契約違反で領地も失った。これからは今までよりはるかに少ない収入でやっていかなければならないんだ」
アスクウィス家の主な収入は北の領地から上がるもろもろの税収と地代だった。だがそれらは契約違反によりルーファスの手に渡ってしまい、今のアスクウィス家に残されたのは王都に所有するタウンハウスと別邸、いくつかの不動産、先祖伝来の芸術品やわずかな宝石類くらい。
別邸や不動産を売ればある程度の現金を得られるが、アスクウィス家がレイモンドの起こした『襲撃事件』によって窮地におちいっているのは周知の事実。足元を見られ、安値で買い叩かれるのが落ちだろう。
アスクウィス家を立て直すには、何か新たな収入源を得なければならない。レイモンドもさすがにそれはわかっていたが、簡単なことではなかった。
降格したとはいえレイモンドは伯爵家の当主。誰かに雇われて働くには身分もプライドも高すぎる。レイモンドが雇われて周囲から白い目で見られずに済むのは、少なくとも公爵家以上……あるいは王家くらいだ。
その観点から見れば王宮の文官や騎士も王家に雇われている身である。しかし伯爵家当主が平の文官や騎士になれるはずもなく、なるとしたら彼らを統率する役職……文官であれば宰相かその側近、武官なら将軍あるいは近衛各騎士団の団長クラスだろう。
打診してみるつもりだが、伯父王も祖母の王太后もどうやら母グロリアをよく思ってはいないようだ。厳格な祖父がグロリアにだけは甘いので、ひがんでいるのだろう。
特に祖母はこう言ってはなんだが、女性らしい可愛げや愛嬌というものが皆無で、男を立てるということも知らず、まともな男なら妻に迎えたいとは思えない人だ。
そんな祖母に育てられた伯父も、母には冷たい。母の息子であるレイモンドは、今回の一件もあり、当分の間伯父や祖母からの援助は受けられないと思うべきだろう。
つまり当面、アスクウィス家の収入増加は期待できず、可能な限り支出を減らすしかない。特製ポーションなど言語道断。
今あるポーションをさらに薄めて、それでも足りなくなったら伯父王や祖父に泣きつき、魔力ポーションを融通してもらえばいい。命がかかっているとなれば、いくら冷酷な伯父でも拒まないはずだ。
その間にレイモンドはエリザベスの新たな嫁ぎ先を見つけておく。貴族を諦めれば……爵位を買う前のサムズ男爵のような富豪の商人なら、先天性魔力枯渇症の令嬢でも欲しがるかもしれない……。
(この男、何を言っているの?)
とうとうとレイモンドが語る内容は、エリザベスには理解不能なことばかりだった。
エリザベスは特製ポーションを飲み、もとの健康な身体を取り戻したいだけなのだ。素直に特製ポーションをくれればいいだけなのに、何故この男はわけのわからないことばかり並べ立てるのか。
(この口がいけないのかしら)
じっとレイモンドの唇を見つめる。
血の通ったみずみずしい唇は、かさかさにひび割れたエリザベスのそれとはまるで違う。当たり前だ。レイモンドは若く、健康そのものなのだから。……同じ両親から生まれたのに。
(何故、私だけ?)
胸に芽生えた不満は苦痛を糧に、みるみる成長していく。
理不尽だ。不公平だ。同じ両親から生まれたのに、エリザベスだけがこんなにも苦しむなんて。
レイモンドだって……いや、みんな苦しむべきだ。そうすればエリザベスがどんなにつらく苦しい思いをしているのか、わかってくれるはず。
身体の内側を食い荒らす、この、狂おしいまでの衝動も。
「……エリザベス? 聞いているのか?」
眉をひそめたレイモンドが覗き込んでくる。間近で見た唇が、若々しい肌が……その下に流れる血が、おいしそうだと思ってしまった。
それが始まりで、終わりだった。
未知の衝動に突き動かされるがまま、エリザベスはレイモンドの喉笛にかぶりつく。
「ぎゃああああああっ!」
撒き散らされる鮮血に、レイモンドの絶叫が混じった。
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