レイモンド1
前作『子どもに罪はない? そんなわけないだろう?』と同じ世界のお話です。
学院から帰宅すると、当主の部屋から何人もの女の嬌声が聞こえてきて、レイモンドは眉をひそめた。
「……またか」
曲がりなりにも名門アスクウィス侯爵家の当主が、昼間から何と破廉恥な。
分厚い扉を殴りつけてやりたい衝動をこらえ、自室に向かおうとすると、地味なドレスをまとった女が周囲を気にしながら話しかけてきた。
「レイモンド様」
「ジェナか。どうした」
ジェナは、三歳年下の妹エリザベスの侍女だ。元々は母が輿入れに際し実家から伴ってきた側仕えだったのだが、エリザベスの誕生後は乳母となり、今は侍女として仕えてくれている。母は社交で家を空けることが多いから、エリザベスにとっては実母以上の存在だろう。
「エリザベスお嬢様が、兄上様にお目にかかりたいと」
「……まさか、また具合が悪くなったのか?」
エリザベスは生来病弱で、幼いころは一日のほとんどをベッドの中で過ごしていた。十五歳になった今はだいぶ改善されたが、ちょっとした暑さ寒さで体調を崩しては寝込んでしまう。そのため貴族の子女なら必ず通う王立学院にも通えず、屋敷に家庭教師を呼んでいるのだ。
「いえ、そうではありません。……実は、ご当主様が……」
ジェナがひそめた声で告げたのは、にわかには信じがたいことだった。
(いや……、いくらあの男でもそこまでは……)
だが、ジェナが自分に嘘をつくわけがない。他の裏切り者と違い、彼女は自分たち兄妹の味方だ。
「エリザベス……!」
紛れもない事実なのだと理解した瞬間、レイモンドは妹の部屋に駆け込んだ。
ソファで悄然とうつむいていた少女がはっと顔を上げる。レイモンドと同じ銀の髪に淡いブルーの瞳の、妖精のようにはかなげな美少女だ。白くなめらかな頬は涙に濡れており、レイモンドの胸をずきりと痛ませた。
「お兄様、私、私……」
「いい。何も言うな。話はジェナから聞いた。お前を色ぼけ爺の後妻になどさせるものか」
「お兄様……!」
レイモンドは妹の隣に腰を下ろし、痩せた体をそっと抱きしめた。震える背中を撫でてやるうちに、ふつふつと怒りが湧いてくる。
(ルーファスめ。か弱いエリザベスに、何と無体な仕打ちを……!)
ジェナは言ったのだ。レイモンドが学院から帰るほんの一時間ほど前、ルーファスは……アスクウィス侯爵家の当主を名乗るあの下衆はエリザベスを呼び出し、サムズ男爵に嫁ぐよう命じたのだと。かわいそうにエリザベスはその場で倒れ、部屋に運び込まれてからはずっと泣いているという。
当たり前だ。サムズ男爵は魔鉱事業で莫大な財を成し、爵位を買った、貴族とは名ばかりのもと平民である。本妻は子がないままずいぶん前に亡くなったが、金に明かせて囲った妾たちに何人もの庶子を生ませている。孫もいるはずだ。
社交界の鼻つまみ者、祖父と孫ほど年の離れたあの漁色家と、かわいいエリザベスを結婚させるだと?
(天地がひっくり返ろうと、ありえない)
十五歳の侯爵令嬢と成り上がりの老男爵の結婚じたい言語道断だが、エリザベスには想う相手がいる。ダルトン伯爵家の嫡男フェリックスだ。
兄妹の幼馴染みであり、エリザベスを今でもたびたび見舞ってくれる彼になら、大切な妹を任せられる。身分的にも問題はない。ルーファスさえ反対しなかったら、二人はとうに婚約していただろうに。
(……婚約に反対していたのは、このためだったのか)
貴族にあるまじきことに、ルーファスは自ら事業を手がけている。高貴な令嬢を成り上がりに差し出すことで、何らかの便宜をはからせるつもりなのだろう。義理とはいえ、エリザベスは娘なのに……血のつながった姪だというのに、よくもこんなむごい仕打ちができるものだ。
(やはり、あの男を迎え入れるべきではなかったのだ)
十五年前のあの日に戻れるのなら、刺し違えてでも殺してやるのに。
レイモンドはぎりりと歯をきしませた。