もしも秋の歴史2022のテーマが「ぬいぐるみ」だったら 【題名】:子供たちにはただ最高のものがあれば充分
う~む。
歴史というよりも、「世界偉人伝」みたいになっちゃいました。
もしも秋の歴史2022のテーマが「ぬいぐるみ」だったら
【題名】:子供たちにはただ最高のものがあれば充分
Margarete Steiff ,,Wer an sich selbst glaubt, ist frei''
マルガレーテ・シュタイフ「自分自身を信じる者は、誰でも自由である」
1
1902年。ドイツ帝国を構成するヴュルテンベルク王国にある街、ギーンゲン・アン・デァ・ブレンツ(Giengen an der Brenz、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州、 ハイデンハイム郡にある市)の工房で、ある若者が興奮してスケッチを50代半ばの女性に見せていた。
「マルガレーテ伯母さん。このクマのスケッチを見て下さい! 私はこれで稼働できるぬいぐるみを作りたいと思います!」
興奮して発案した若者はリヒャルト・シュタイフ(Richard Steiff)。
問われたのは、この工房の経営者である、リヒャルトの伯母のマルガレーテ・シュタイフ。
この年の初めにリヒャルトは自身のスケッチを再発見して、可動式ぬいぐるみの作成を思いついたのだ。
工房の名前は、,,Margarete Steiff, Filzspielwarenfabrik Giengen/Brenz'' (マルガレーテ・シュタイフ、フェルトおもちゃ工房、ギーンゲン/ブレンツ)である。
マルガレーテは経営者だが、ほぼ現場に居て、他の従業員たちと一緒に縫物をしていた。
彼女は作業机から甥で従業員でもあるリヒャルトに向き直る。
「面白そうですね。やってみなさい。リヒャルト」
車輪がついた椅子が動く。そう車椅子だ。
マルガレーテは身体が不自由で、歩行は困難だったのだ。
2
アポロニーア・マルガレーテ(Apollonia Margarete)は、フリードリヒ(Friedrich、1816年生まれ)とマリーア・マルガレーテ(Maria Margarete、旧姓ヘーンレ(Hähnle)、1815年生まれ)のシュタイフ夫妻の4姉弟の3番目として、1847年7月24日に、ギーンゲン・アン・デァ・ブレンツ(以下ギーンゲンと略す)で生まれる。
上には姉が2人。下には弟のフリッツ(Fritz)。そして、この弟の息子がリヒャルト(1877年生まれ)である。
父のフリードリヒはギーンゲンで有名な建築士。母のマリーアは専業主婦。
マルガレーテが1歳半の時に、彼女はポリオ(急性灰白髄炎)を患い、その結果手足に障害が残る。
家族のショックは想像に難くないが、マルガレーテは前向きに明るく育つ。
マルガレーテは一時期家族から離れ、著名な小児科医のアウグスト・ヘルマン・ヴェルナー(August Hermann Werner 、1808年生まれ)の診療所のあるルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡にある市)へと治療のために滞在していた。
1856年の夏からで、結局快癒には至らず、ギーンゲンに同年の11月には戻る。
ヴェルナー医師は、治療する子供たちや周囲に、いつもこう言っていた。
「私は子供たちに最高のものを与えたい」
この言葉はマルガレーテの幼い心に深く刻まれる。
そして、この幼い頃に家族から一時期離れていた経験は、彼女を精神的に更に逞しくし、周囲の助けを借りながら学校へと通い、成績もよく、休み時間には様々な遊びのアイデアを出したりして、逆に周囲の同級生たちを楽しませていた。
両足が不自由で歩行が困難。手は右手に障害が残ったが、彼女は細かい作業を好んだ。
それは裁縫とツィター(Zither)の演奏である。
ツィターとは箏に似た楽器で、机の上に乗せて弾く弦楽器である。(映画「第三の男」のテーマソングで有名)
そして、17歳になる頃には、自身の病気が治らない事を受け入れ、裁縫への道を選択する。
それから彼女は、他の家に赴き、裁縫用トルソーを使い服を縫っていたが、父フリードリヒは歩行が困難なマルガレーテのため自宅を改装し、一階を娘の仕事場とした。
1874年。マルガレーテは姉のマリーエ(Marie)とパウリーネ(Pauline)と共に本格的な裁縫の仕事を始める。
但し、マリーエは1873年、パウリーネは1870年に結婚していたので、彼女たちはそれぞれの家事が空いた時に、実家に戻り妹と仕事していたので、実質的にはマルガレーテ1人の仕事だ。
このマルガレーテだけの裁縫の仕事が、後々に世界的な大きな成功を納めるとは、誰も思わなかっただろう。
3
マルガレーテの仕事は服の裁縫だが、彼女は子供服の作成を特に好んだ。
評判も上々で、ミシンも購入する事が出来た。
右手が不自由なマルガレーテは、当時の車輪の付いたミシンを左手で回す等の操作を行い、辛うじて動く右手で生地を動かし、縫い合わせていた。
1877年。ギーンゲンでフェルトの製造会社を経営していた、ヴィルヘルム・アードルフ・グラッツ(Wilhelm Adolf Glatz、1841年生まれ)により、マルガレーテはフェルトを扱った製品を作って欲しいと頼まれる。
アードルフの妻はマルガレーテの母マリーアの実家のヘーンレ家の娘で、2人はいわば義理の従兄妹の関係に当たる。
だが、常に前向きなマルガレーテも、最初は自信がなかった。
「私は周囲から手助けを受けて来た身。あなたのように大規模な事業をする事は難しい……」
アードルフはこう励まし、マルガレーテに本格的な事業を行なう事を勧める。
「君のその体験こそが、経営には役に立つ、と私は思うがね」
フェルトを使った、女性用アンダーウェア(ドレスのスカート部をふんわり広くさせるペティコート)や、子供用のコートや、テーブルクロスなどが作られ、その質の高さから、たちまちに評判になり、人気店へと成長して行く。
従業員も雇い、ほぼ会社への体裁が整う。
1880年。この年は転機の年である。「分水嶺」とも呼ぶべきか。
ある日、マルガレーテは雑誌に載っていたゾウに見入る。幼い頃から、豊富なアイデアを持つ彼女に、何かが閃いた。
「このゾウをフェルトで作りましょう。大人には針刺しとして。子供にはおもちゃとして」
フェルトで作られた小さなゾウの針刺しは、クリスマスに彼女の姪や甥たちにプレゼントしたが、これが評判となり、マルガレーテの元に注文が殺到する。
これが世界で初のぬいぐるみとされている。
更にネコやイヌやブタなどをデザインした、ぬいぐるみの注文まで来るようになった。
最早、自宅の一階だけでは、これらは捌き切れない。
1888年。父フリードリヒの後を継いで建築士となった弟のフリッツが、姉のために新しい居住場所兼工房を完成させた。
ギーンゲン内のミュールシュトラーセ(Mühlstraße)で、二階のマルガレーテの部屋からは、この通りがよく見える。(※注)
そして、一階の一角にはフェルト製品を売る売店を設置した。
フェルトのおもちゃは、ゾウを初め、ネコ、イヌ、ブタ、サル、ネズミ、ウサギ、ロバ、ウマ、キリンと何とも賑やかだ。
1893年に、先に上げた、「マルガレーテ・シュタイフ、フェルトおもちゃ工房、ギーンゲン/ブレンツ」が商業登記される。
※注:現在の「マルガレーテ・シュタイフ通り」です。
4
弟のフリッツは子沢山で、リヒャルトを初め6人の男子に恵まれた。
そして、5名がマルガレーテの会社に入社する。
フリッツの次男のリヒャルトは、特に伯母のマルガレーテに可愛がられ、彼はシュトゥットガルトの美術工芸学校に通い、その後イギリスに留学し、1897年に入社する。
彼の会社での役割はデザイナーだ。
また、多くの動物のスケッチを好み、クマのスケッチが多く残されている。
こうしてリヒャルト主導による、可動式のクマのぬいぐるみの開発が始まった。
この商品名は、,,Bär 55 PB''(クマ、55(センチ)、Plüsch「ぬいぐるみ」、Beweglich「可動な」)である。
モヘア生地で作られ、顔にはガラスの黒い両目が取り付けられている。
そして、両の手足は内部で太い麻紐で繋ぎ合わされてた可動式で、立ち上がらせると55センチの高さ。
その誕生は、1902年の秋である。
1903年。ライプツィヒ見本市。
展示した,,Bär 55 PB''は、誰からも見向きもされず、全くの失敗に終わってしまった。
だが、展示品を全て元に梱包しようとする最終日。
あるアメリカ人のバイヤーが、全ての買い取りを行ない、更に3000体もの追加注文をする。
1904年。セントルイス万国博覧会。
リヒャルトは更に改良を重ね、より軽く小型で、金属製のジョイントを取り入れた、手足や頭部が動かし易い、,,Bär 35 PB''と,,Bär 28 PB''を開発し、この博覧会では、12000体ものクマが売れ、見事にグランプリを獲得した。
この頃、同種の製品との差別化をするため、リヒャルトの兄弟であるフランツ(Franz)が、クマの左耳にボタンを付けることを発案する。
当初はマルガレーテが最初に作ったぬいぐるみである、ゾウが刻印されたボタンであった。
5
さて、1902年11月12日のアメリカ合衆国。
当時の第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは趣味の熊の狩猟に出かけるも、一頭も仕留める事が出来ず、同行したハンターが自分が追い詰めた熊を撃つように頼んだ。
「そんな熊を撃つのは、スポーツマン精神に反するので出来ない」
そう言って射殺を拒んだ記事が挿絵付きで、ワシントン・ポスト紙に16日に掲載される。(一説には、射殺を断っているルーズベルトの図には、,,Drawing the line in Mississippi''と書かれてあるので、ルイジアナ州とミシシッピ州の州境論争を解決するポーズだともされている)
挿絵を描いたのは、クリフォード・K・ベリーマン。この熊の画はベリーマンベアと呼ばれる。
この挿絵に注目した、ニューヨーク市ブリックリン区の事業家であるモリス・ミクトムは、アイデアル・ノヴェルティ・アンド・トイ・カンパニー(Ideal Novelty and Toy Company)を1903年に設立し、熊のぬいぐるみを作成して、ルーズベルトのあだ名の「テディ」に因んで、「テディベア(Teddy bear)」として売り出す。
つまり、ルーズベルトの熊の挿絵に関係なく、たまたま同時期にリヒャルトたちはクマのぬいぐるみを作っていて、それがテディベアブームに沸く、アメリカでヒットしたのだ。
1906年にマルガレーテの会社は、,,Margarete Steiff GmbH''(※注)と名称を変え、同時にクマのぬいぐるみの正式名称も「テディベァ(Teddybär)」とする。
※注:「ゲー・エム・ベー・ハー」。Gesellschaft mit beschränkter Haftung(ゲゼルシャフト・ミット・ベシュレンクター・ハフトゥング「有限責任会社」の略語)
6
1907年にはシュタイフ社は約974000個ものテディベアを製造していた。
それが可能だったのは、1903年に建てられた新しい工場ビルに因る。
全面ガラス張りの、モダニズムな二階建ての巨大な建物で、二階へのアクセスが可能なスロープがついている。
これは車椅子のマルガレーテが上階や下階に行くための通路だ。
マルガレーテは精力的にビル内の各部署を見て回り、製品のチェックをしたり、従業員の健康を気に掛けたり、励ましたりする。
幼い子供がいる従業員には、会社内へ子供を連れて行き、仕事をしながら、面倒を見る事さえ、許可をしていた。
義理の従兄のアードルフが見抜いたように、マルガレーテは卓絶した経営者となった。
だが、次第に疲労からか、彼女は静かに社内を見守るだけになって行く。
自身の命が、もう残り少ない事も感じ始めたようだ。
1909年5月9日。マルガレーテ・シュタイフは、家族に看取られ61歳で亡くなる。
会社はリヒャルトたちを初め、マルガレーテの意志を継いだ者たちが経営して行く。
7
最初のゾウのフェルトのぬいぐるみから、常に安全で最高品質の物が使われていた。
中の詰め物は、当初は羊の毛。後に木毛。
マルガレーテの時代のぬいぐるみのカタログから、既に「詰め物は、軽く、柔らかく、純粋(おがくず、動物の毛、コルクくずが入っていない)」と記載されている。
現在のシュタイフ社でも、子供が口に含んでも問題ない素材と染料を使用し、テディベアを初めとするぬいぐるみが手作りされ、子供用の服も作成されている。
マルガレーテは常に子供のことを第一に考えていた。
幼少期に自身を懸命に治療してくれた、ヴェルナー医師のあの言葉をずっと大切にしていたのだ。
それが現在でも受け継がれている。
Das Motto von Margarete Steiff: Für Kinder ist nur das Beste gut genug.
マルガレーテ・シュタイフのモットー:子供たちにはただ最高のものがあれば充分。
もしも秋の歴史2022のテーマが「ぬいぐるみ」だったら
【題名】:子供たちにはただ最高のものがあれば充分 了
……そして、物語はテディベアをプレゼントされた子供の喜びへと続く。
■反省点
これって、「分水嶺」の箇所を強調したら、今年の「秋の歴史2024」に出せるのは、と思っています。
■注
こんな感じでテディベアは作られています!(シュタイフ公式ホームページより、1分ほどの動画)
https://www.steiff.co.jp/fascination/quality.html
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