三話
ギイチが使わないからと放置していた、埃だらけだった居間がそこそこ綺麗になっていて、火を入れていない囲炉裏の近くにお膳がある。マリは居間で朝食中だったようだ。
お待ち下さいと言われて、素直に腰を下ろしたギイチは、ハッと我に返った。味噌汁の味に釣られて、敵であるマリに従うとは、これは騙される第一歩だと慄く。
しかし、味噌汁が飲みたくてギイチは動かず。味噌汁を飲むだけなら騙されることはない、と自分に言い聞かせる。
マリはお膳を運んできて、それをシンの前に置いて「せっかくなので、まだ残っていたご飯もお待ちしました」と柔らかく微笑んだ。
「残っていたって、君は大食いなんだな」
「昼食を焼きおにぎりにしようと思いまして、多めに炊きました」
「焼きおにぎり? なんだそれは」
「おにぎりを焼いたものです」
「そのままだな。なぜ焼く必要がある」
「美味しいからです」
「本当か? 資料になるかもしれないから作れ」
「はい。お任せ下さい」
ギイチは味噌汁腕を手にして口に運びながら、これはなんだ、なぜ彼女とこんな会話をしていると自問自答。
しかし、これこそが自分に足りない資料であり、有益な時間だと考えたので、お膳を持って部屋に戻ることはやめた。
自分は目の前の女に惚れていない、大金を使って仕入れた資料だから、使いまくらないと勿体ないと味噌汁に舌鼓。
彼が買ったことのある遊女は安い女から高級店の部屋待ち手前くらいまで。
そうしないと、接客能力が高くてまた騙されて金をむしり取られるからだ。大人気遊女には近寄らないようにしている。
故に、ギイチが接したことのある遊女程度だと、出自が隠しきれていない。
基本は隔離されて育ち、家関係の行事には少ししか参加させてもらえずに隠されていたギイチは、自分の本来の身分と同格の者達との接点が薄い。
男性の所作に関しては、おざなりでも家庭教師に叩き込まれたし、父親や兄達の動きを知っている。しかし、女性となるとサッパリである。
本物の高級女の食事の所作はこれか、とギイチはマリの姿をじっくり観察。
凛と伸びた背筋、箸や器の持ち方、食べ物の口に仕方、ちょっとした事でも実に品の良い動きだ。
「そんなに見られると、穴が空いてしまいそうです」
「うるさい。君は高額資料なんだから、俺は君の毛の一本まで観察する」
「それはそうなのですが……。あっ」
何度か扱ってから、箸をお膳の上に置いたマリが何かを思い出したというように目を見開いた。
「なんだ。どうした?」
「シンさんはお嬢さんについて色々知りたいのですよね?」
「そうだ」
「私の友人がここへ遊びに来て、あの立派な茶室でお茶会をするのは役に立ちますか?」
「茶会? あー、茶道か。茶道というものもイマイチ知らないから、それはそうだな」
「怪しまれたり、心配されない為には友人を招く方が良いです。その際に両親と会えたら嬉しいです」
さっそく脅迫してきた、とギイチは身構えた。彼はマリがメソメソ泣いて、家族が恋しいと嘆いたら、それもそれで資料だと考えているので、彼女に親と連絡を取るな、面会禁止と告げてある。
「却下。君の友人が訪ねて来たいと言った場合は考えるが逆は無しだ。誘うな。家族や契約時に伝えたように禁止」
「友人が来たいと言ってくれた場合は良いのですね」
「断って怪しまれて、暴力男だなんだと兵官が乗り込んでくるのは最悪だ。契約書には記載してあっても、難癖つけられるかもしれない」
「それではシンさん。あの立派な茶室でお茶を振る舞います。道具も揃っているようで、我が家には茶室も道具もないのでワクワクしました。掃除が終わったらお誘いしますね」
ね、という語尾がやたら甘ったるく感じて、ギイチは舌打ちしながら顔を背けた。
「点数稼ぎをしたって、俺は君への待遇を変えないからな」
「多少そういう気持ちもありますが、せっかく夫婦になるのですもの。期限付きでも親しくなりたいです。人生は楽しい方が良いに決まっています」
この詐欺師! と叫びそうになったギイチの舌に、目の前にある美味な味噌汁の味が蘇ったので、黙って食事を継続。
「シンさん、夕食のご要望はありますか?」
「別に」
ギイチはマリが何を作るのか気になるので、こう言っておいた。焼きおにぎりのように、知らない食べ物が出てくるかもしれないので。
「近くの八百屋や魚屋をご存知ですか?」
「知らん」
「八百屋や魚屋は未調査ですか?」
「いや、少し眺めたことくらいはある」
「それはどちらでした?」
「さぁ。ぷらぷら歩いていただけだから知らん」
普通に会話すると、また心惹かれるのではないかと身構えているギイチは、食事が終わると即座に居間から去った。
騙されるか、と心の中で呟きながら、つまりそれは気持ちを揺り動かされていることと同意義だと項垂れる。
歯磨きをして寝ようと考えて、使用人の一日を観察するのも資料作りの一つだったと思い出し、眠くなったら眠れば良いかと、歯を綺麗にした後にこっそりマリを覗き見。
彼女は鼻歌まじりで台所で洗い物をしていて、その歌が何の歌なのか分からず。ギイチは万年筆を使って、筆記帳に「鼻歌、要確認」と書き付け。
台所仕事の後、マリはギイチの部屋に来て声を掛けた。三回読んで、返事がないので諦めたような顔で廊下を進んでいく。
「洗濯物について、お昼に質問しないと」
使用人として働け、とまだ命じていなくて「勝手にしろ」という設定を与えたのに洗濯をするようだ。
屋敷外周の庭は草が伸び過ぎていて、洗濯をしても干すところがない。
井戸があるし、景色が見たいので定期的に庭師を呼んでいるから中庭は少しマシ。マリはそれに気がついたようで洗濯用の道具を中庭へ運んだ。
ギイチは彼女を観察可能で、向こうからは見えなそうな位置に腰を下ろして筆記帳と万年筆を取り出した。障子の隙間からマリを眺める。
「問題はどこに干すかですね。洗濯道具が少ないのでそれも考えないと」
キョロキョロ周りを見渡したマリは、着物の裾をまくって、たすきを使って袖を縛った。それから水汲みを開始したけれど、よろよろ、よたよた実に危なげな動き。
昨夜、彼女が捕まえた白兎が草むらから出て来て彼女の足元に近寄った。
「あら、懐いてくれるのですか?」
マリは桶を地面に置いて、白兎を撫で始めた。しばらく眺めていても彼女はニコニコ笑いながら白兎を眺めている。
「あっ。洗濯」
この小娘はいつ洗濯を始めるのかと考えていたら、マリが動き出した。再びよろよろしながら桶で水を運んで、かなり老朽化しているタライに水を注ぎ、水が漏れると慌てふためいている。
これを作品に投影するかと言われるとしなそうだけど、書いたら書いたで説得力が増すのか? と思案。答えは出ない。
押しかけ弟子のアザミはほとんど家事をしないし、実家暮らしの時はほとんど蔵の中での生活で、このような光景を見るのは初。
「ひゃっ!」
マリはおんぼろタライの隙間から漏れた水が作った水溜りで転んだ。尻もちをついたので着物がどろどろ。
「二着しかないのに!」
そこに白兎が来て、泥の上でごろごろし始めた。
「イノハ。汚れてしまいますよ」
マリは白兎にイノハという名前をつけたらしい。この命名がイノハの白兎という古典文学からなのは明らか。
「ギイチ先生、なんですかあれ」
突然、背後からアザミの声がしたのでギイチは振り返って上を見た。
「ああ、アザミ君。来たのか」
昨日の朝、家から出て行って家を探せと追い出したけれど、鍵は返してもらっていないので、図々しい彼はそのうち戻ってくる気はしていた。
「先生の朝食と思って。少し寝坊しました。台所を使った形跡があったので先に先生を探しました。あちらはどなたですか?」
「父上が寄越した嫁だ」
「……えっ?」
アザミの糸のような細目が少し開いた。
「いきなり入籍は世間体が悪いからとりあえず婚約。事業提携関係だそうだ。俺は認めていないし、あの女は父上に金で買われた」
「事業提携……お金でって……」
「こんなに汚れたら洗濯屋に頼まないとダメかしら」
ギイチは立ち上がり、困ったという顔をしているマリの方に背を向けてアザミを手招きした。それで自室へ行き、創作縁談話を説明。
「ギイチ先生ってそれなりの家の御曹司なんですよね。なにせこのボロいけど広いお屋敷の所有者です。忘れていました」
「担当責任者にしか教えていないけど、勝手に話すと思っていたが、アザミ君はまだ俺の実家がどんな家か知らないんだな」
「ええ。うぉほん、アザミ君。ギイチ先生は気難しい。金の成る木に逃げられたら最悪だ。他社に取られたらもっと最悪。だから直接本人に聞きなさい、と言われます」
声真似をする必要は無いのに、とギイチはアザミの物真似に呆れ顔。なにせ似ていない。たぬき顔でたぬきのような体の中年男性が、キツネのような顔をした細身の初老の男の真似をしても、何にも楽しくない。
「新作の件だが、あのようにわりと丁度良い資料が来たから書けるかもしれない。箱入りお嬢様から聞き取りしたり、手を出せば色々分かるだろう」
アザミが頬を引きつらせた。
「なんだ、その顔は」
「自分は何も悪くないのに、自堕落姉のせいで金の為に政略結婚ですよ。それなのに資料にしようだなんて可哀想です」
心優しいアザミならそう言いそうだなとギイチは肩をすくめた。
「さっきのは半分嘘で、父上ではなくて俺が買ってきた」
「……えっ?」
「大型金貨五枚で資料になれ、と言って買ってきた」
「……お、お、大型、大型金貨五枚⁈」
「特に使わないから貯まって、書いたらまた儲かるから使った」
「先生が、先生が買ってきたって、資料になれって、どういうことですか!」
「生娘かどうか身体検査させようと考えていたけど、そもそも知識が不足していたから体を確認しなくても生娘だと丸分かりだそうだ。女学生同士で少しずつ知るはずなのに、と母親が驚いていた」
「そ、そういう意味ではなくて! いや、そういう意味ってことですね!」
うわぁ、とアザミは両手で顔を覆った。
「アザミ君。どのくらい知識がないのか、それはなぜなのか、知識を与えたらどういう反応をするか、触ったらどうなのか、ぶちこんだらどんな反応か、いつエロくなるのかなどなどが分かる極上の標本を手に入れたんだ!」
「……」
「契約してくれないと困るから、他人とはさせないってことになっているから君には貸せない。君が口説いて使う分には良いけど。一回くらい見せろ」
「……あんな、あんな息子と変わらない年の女に手を出しません! 女学生さんに手を出すか!」
「中年オヤジの大好物だろう」
「返してきなさい!」
「返したらあの女は花街で特別競りをして、どこかの高級遊楼で奉公だ。皆、買いたいだろうなぁ。役に立たない女に大型金貨五枚を渡す程お人好しではない。そこまでの金持ちでもない。大型金貨五枚を君が払うか?」
「……」
アザミは両手を下へずらして面の皮を引っ張った。
「払えません……」
「これはほぼ買売春だ。外街で買売春は死罪。知られたら俺とあの女の首が刎ねられる。兵官に密告したら君が望む新作は出来ないし俺は死ぬ。出版社の今後の儲けも減る」
「……ですよね」
「既にユミトに目をつけられている。女性兵官まで増えた。だから半年間は変な使い方はしないし、父上が家や事業のために寄越したということにしてある。殴ってみるとか、縛ってみるとか、そういうのは最後だ。入籍後三ヶ月で返品する」
「軽く縛るのは良いけど暴力反対!」
「金さえ払えば遊女に何をしても合法だ。あの女は俺専属の遊女になったから、資料になりそうなことはなんでもする」
そのはずだったのに、どうやら惚れてしまったようなので難しそう。そんなこと、口が裂けても言いたくないからギイチは余裕たっぷりだと伝わるような態度を取った。
「専属の遊女ではなくて伴侶になるんですよね? 書類上はそうですよね? それならギイチ先生が暴力を使ったら、ちょっと間に入りますよ」
「結納契約書と婚姻契約書にいかなる暴力、暴言も許すと書かせて捺印させた。両親、本人全員の直筆記名と捺印がある。裁判になっても負けない」
「……な、なんで、なんでそんな契約をしたんですか!」
「相手のことか? 殺さないで返す契約で、九ヶ月の苦労の果てに帰宅出来るからだろう。遊女だと両手の数以上の男に暴力込みで色々される。俺だと一人だ」
アザミは深いため息を吐いてしばらく沈黙。
「シンさん」
「ぉわっ!」
煙管の煙草に火をつけて吸おうとしていたギイチは、突然したマリの声に動揺して素っ頓狂な声を出した。
「なんだ」
「扉は開けずにこのままでお願いします。着物がありません。助けて下さい」
「はぁ? どういうことだ」
マリはこう話した。洗濯をしようとしたら、タライが古くて水が漏れて、おろおろしていたら濡れた地面で転んだ。
着物が泥々なのでその場で脱いで、部屋に戻って着替えようとしたけど、もう一着は洗濯中だと気がついたという。
昨夜、イノハと同じ部屋で寝たら糞尿をされて昨日着ていた着物が汚れて、今朝お風呂に入った時に汚れたところを洗って干した。
「その、つまり二着とも濡れています」
「君は朝から風呂に入ったのか……」
朝から頭や手足に兎のうんこをつけていたとは。この女はびっくり箱だな、とシンは腹を震わせた。
「温泉は便利ですね」
「早朝に風呂に入って着物を洗ったなら少しは乾いたんじゃないか?」
「そう思って見に行ったら、物干し竿代わりに使った木の枝が折れていて汚れていました……」
この女は運が悪いとギイチは額に手を当てた。
「なんで肌着は風呂で洗わずに中庭で洗おうとしたんだ? どっちにしても汚していたようだが」
「……なぜでしょう。まぁ、どちらにせよ汚していました」
ギイチは立ち上がり、何か言いたげなアザミを無視して襖を開いた。驚愕したというようなマリが、みるみる顔を真っ赤にさせていく。
今、彼女はどのような格好なのか確認する為の行動だったのだが、マリは脱兎の如く逃げ出して廊下の角から顔の半分くらいだけ出した。
一瞬見えたマリの衣服は白い長襦袢に足袋という姿。つまり、ギイチからするとここまで慌てなくてもというような格好である。
「兎のうんこ臭さを漂わせてうろつかれたり、飯を作られたらたまったものじゃない。あの泥だらけの着物が綺麗になるとも思えない。二着とも捨てろ。着物を買いに行くぞ」
「……あの泥だらけ? 見ていました?」
「覗き見する時もあるって言っただろう」
「もうっ、私のドジを陰で笑っていらしたのですね。買って下さるのは嬉しいですが、外に出る服がありません」
「浴衣でも着て行け。寝巻きの浴衣を持ってきていただろう」
「浴衣で出掛けるなんてはしたな……長襦袢の上からなら着物のように見えますよね? その手がありました! 浴衣を着ていって、洗濯屋さんに洗濯を頼みます。捨てるのは勿体無いですし、お話ししたように思い出の品です」
玄関で待っているからあまり待たせるな、と告げるとギイチはマリを手で追い払った。
「ありがとうございます」
半分だけだった顔を、ひょこっと全て出したマリはギイチに嬉しそうな笑顔を見せて、その顔を引っ込めた。
「……なんで俺があの女に貢がなければならない! くそっ! 運が悪過ぎて同情してしまった。なんなんだあの女は!」
壁を軽く蹴ったギイチはそう叫んだ。まだマリに紹介されていないアザミは今の会話もギイチの様子も全てこそこそ隠れて確認していた。
着物を買いに行くぞ、と発した時のギイチの唇の形が優しい微笑みで、それはアザミは殆ど見たことのないものだったので、マリという女性は彼に良い影響かもしれないと胸の中で一人ごちる。
なお、ギイチはしばらく地団駄を踏んでいた。