二話
欲望でたぎるものをしごいて吐き出して、筆を取って文字を綴り……を繰り返したシンは、一睡もせずに朝を迎えた。一晩で五回も自らを慰めるなんて初めてだと頭を抱える。
一晩で書いた二つの短編はアザミと打ち合わせしている次回作ではなくて、単に己の欲望をぶつけたような落書きだ。
男の素肌を少し見ただけで、きゃあきゃあ照れ照れしていたマリに手を出したらどんなことになると妄想した結果の産物。
「寝よう……」
ギイチは万年床になっている布団に潜り込んで目を閉じた。
『兎さんの名前は定番ですが、イノハにします』
目を閉じた瞬間、マリの可愛らしい笑顔と声がぽわぽわと浮かんできたので、ギイチはまたしても頭を抱えて布団の中を転げ回った。
「うおおおおおお。なんでこんなことに……」
金で買った女なので期限付き。十一月に祝言で初夜で処女を手に入れて、そこから三ヶ月間性的な玩具にして資料にする。
それまでの今月五月から十一月までの六ヶ月間は、理不尽な理由で幽霊屋敷に住み込むことになったマリを観察しつつ、徐々に色春知識を与えて触って、その反応全てを資料とする。
それなのに——……とギイチは呻いた。
「俺はあのおバカで幼い偽善者女を口説くのか? いいや、口説かない。これは気迷いだ。あれは資料。資料、資料、資料、資料……」
「シンさん」
「うおわっ!」
突然マリの声がしたのでシンは飛び起きた。襖は閉まっていて室内は暗い。
「お昼まで眠っているかと思いましたが、起きていらしたのですね。朝餉の準備が出来ました」
「……」
ギイチはゆっくりと立ち上がり、襖に近寄って、立ったまま襖を勢い良く開いた。廊下に昨日とは異なる着物姿のマリがちょこんと座っている。
頭には手拭いを巻いていて庶民っぽさが醸し出されているが、正座しているだけなのに実に上品な姿勢や手の位置である。
「おはようございます」
マリに見上げられてニコリと笑いかけられたギイチは、ピシャッと襖を閉めた。両手を側頭部に当てて、へなへな座り込んで俯く。
「ご気分が悪くなりました? 大丈夫ですか?」
「うるさい! 朝から甲高い声で話しかけるな。頭が痛くなる」
「このくらい低くしたら平気でしょうか?」
「ぶほっ」
マリが変な低い声になったのでギイチは吹き出した。
「か、可愛くないからやめろ!」
「資料として愛くるしい方が良いのですね。頭が痛くならない愛くるしい声ですか。難しいですね。えーっと……。ご気分はいかがですか?」
「普通にしろと言っているんだ!」
ギイチは叫びながら襖を勢い良く開いた。元々丸くて大きめの目をさらに見開いたマリが彼を見上げる。
「えーっと、声の質が問題なのではなくて、話しかけるなということですか?」
「その上目遣いをやめろ」
可愛すぎて胸が痛くて死ぬ、とは言えず。シンは大きなため息を吐いて、再び頭を抱えてしゃがんだ。
「下から見上げるのは失礼なのですね。上から見下ろす方が失礼かと思っておりました。それでは立ちますね」
スッと立ち上がったマリを見上げて、その流れるような所作にしばし見惚れたギイチは若干の目眩を感じた。
「飯なら……。こんな話をしている場合ではない。俺は調査をしたいんだった。親が押し付けてきた嫁に勝手にしろと言ったら、勝手に朝飯を作って起こしにきた。男は君と食べると思うか?」
惚れてしまったので食べたいと考えている自分がいる。それでは創造した人物の心情とはかけ離れてしまう。
とても今の心理状態では客観視や、創造人物になって妄想は不可能なので、仕方なくマリに問いかけた。
「うーん……。その男性はどのような方なのですか?」
「家に疎まれて田舎で一人で暮らしている、女を知らない生息子だ」
「つまりシンさんのような方ですか?」
「俺は女を知っているし金もある。そいつは生活に必要な金と通いの初老の男性使用人しか有していない」
「……シンさんには、こひ人がいらしたことがあるのですね」
憂いを帯びた瞳で、困り笑いを浮かべたマリに動揺したギイチは立ち上がって首の後ろに手を当てた。
「それならどうした。前妻のような者がいて悔しいとかか?」
「いえ。三つしか違わないのに大人なのだなぁと。その方では資料にならないのですか? ならないというかしませんね。大切な人との思い出を、大衆の見せ物にはしたくないですもの」
「……」
この女は自分を拐かして、愛おしい女性は資料になんてしないし、まだ相愛ではないのだから無体を働かないで下さい、などとと自分を脅迫するつもりだ。
ギイチはマリの発言をこう解釈して、立ち上がって後退り。
「失恋は胸がはち切れそうですので、このように引きこもりになってしまったとしても理解出来ます。しかし、こんなに暗い家では元気が出ません。今日からうんと綺麗にしますね」
「……。飯を持ってこい! 誰が君と食べるか。食い物を粗末にすると呪われるから食うけど、君の顔を見ながらだと不味くなる」
「左様でございますか。辛い時は他者の存在が疎ましいですよね。すぐにお持ち致します」
「廊下に置いておけ」
「はい」
本当に調子が狂うとギイチは襖を閉めてこめかみを指で揉んだ。
「だがしかし、これぞ生物、本物だ。現実感はここから生まれる」
室内をうろうろしながら、唇の端を持ち上げる。
「御託を並べて騙そうとしても、必ず組み敷いてぶちこんでやる。俺はお嬢様の武器には絶対に屈しない。ふふふ、あはははは!」
マリは単に感想を述べただけで彼を拐かしたり、良心に訴えて己有利になろうとはする気はないという発想は彼には無い。
ギイチは上辺だけの言葉を数多受けて育ち、感受性豊かで観察眼も鋭いが故に相手の本心を見抜いてきた。
それ故に捻くれているし、自尊心はあまりにも低い。駆け引き無し、損得関係無し、ただただ素直な気持ちで相手と接するようなマリのそのままを受け止められない。
「破瓜したらその前には戻れない。順序立てて使わないといけないし、現時点の知識なども調べないと」
そうなると会話が必要だとギイチは結局マリと朝食を摂ることにした。台所へ顔を出して「調査しないとならないから、苦痛だけど食事を共にしてやる」とかなり嫌な言い方で話しかけた。
「それはありがとうございます。昨夜のように、一人よりも二人の方がきっと楽しいですよ」
嫌味なシンに対して、マリはにこやな笑顔を返した。
「……」
昨夜、マリは良く食べた。親子丼の意味が鮭といくらは親子だから、ということにとても興奮していたし、拾った兎を膝に乗せて撫でながら実に幸せそうな姿である。
それを思い出しただけなのに、ギイチのあそこがむくっと起きた。
「やっぱりいい。部屋に持ってこい」
「勇気を出したのでしたら、このまま励みましょう。人嫌いを克服する決意をしたとは素晴らしい前向きさです」
俺は小説を書く資料としてこの女を買ったのに、この女の頭の中では何がどう変化してこうなったとギイチは唖然。
「君は何か勘違いしていないか?」
「勘違いですか?」
「俺は君を色春込みの資料として買ったんだ。人嫌いどうこうは関係無い。そもそも、なんで克服しないとならない。化物達と仲良くするなんて御免蒙る」
「そうなのですか……」
ギイチは憐憫や蔑みとは異なる悲しげなマリの眼差しから顔を背けた。
「シンさんの周りにはたまたまそういう方が多かったのでしょうけど、昨夜のような方しか居ないわけではありません。少なくとも私はシンさんに親切な心があると存じ上げています」
「……」
「だからきっと、親しくなれると思いますし、そのうち私は化物の仲間ではないと知っていただけると思うのです。それにはお話ししたりしないとなりません」
「俺は、俺は騙されないからな! この口から出まかせ女!」
走り出したギイチは自室へ一目散。布団に入って丸々と「あの女に屈してなるものか」と歯ぎしり。
「自意識過剰だ! あの女は奇形に生まれた俺を哀れんでいるだけだ。暴力を振るわれたくないからだ。畜生! これでは本来の目的が果たせない」
うぎゃぁぁぁあ、としばし転がっている間にも、マリの優しげな微笑みが彼を強襲したので朝から彼の下半身は血気旺盛である。
このままなのもあれだ、抜いてしまえば冷静になれるとギイチは体を起こして自身を手慰み。一回抜いても、珍しいことにすぐに復活したので二回目に突入。
「……はぁ。マ……」
「シンさん。お食事を置いておきますね」
「……おぅわぁあああ!」
マリの名前を呼ぼうとしたことにも、その名前の主が襖越しに声を掛けてきたことにも動揺したギイチの口から心臓が飛び出しそうになり、彼はかなりの絶叫を響かせた。
「ゴキリですか⁈ 毒蜘蛛ですか⁈ ご無事ですか⁈」
スッと襖が開いた瞬間、ギイチは慌てて掛け布団を下半身に乗せた。それはもうかなり素早く。
「私も退治は難しい……もう退治しました? 変な匂いがします。すぐに掃除しないと。潰れた虫がいるなんて気持ち悪いですよね?」
何を考えているのか、マリは両手で扇子を持って刀のように構えている。扇子は短くてどう考えても虫退治には使えないような代物。
「……変な匂いとはどういう匂いだ? 俺は鼻が詰まっているから具体的に、想像出来るように教えてくれ」
「えっと……。夏に飲み忘れたお味噌汁が腐ったような匂いのもっと匂わない香りです。ニラ卵ではなくて、しじみのお味噌汁の時の方が似ています」
「それは大変だ。ここは俺の部屋で色々大事なものもあるから自分で掃除する。何があろうと入ってくるな。あとここにある本も読むなよ」
「かしこまりました」
マリが去ると、ギイチはへなへなと掛け布団に覆い被さった。
「嗅いだことがないから分からない……と。腐った味噌汁の匂いって、女はそんな匂いで興奮するのか? いや……」
興奮するというのは、遊女の嘘だ!
誰も信じないと決意しているのに……とギイチはしばらく、なんだかんだ遊女達の手練手管に騙されていたと気落ち。
そうして新たな疑問が湧いてくる。
あんなに眉根を寄せて臭いという顔をするというのに、夫に頼まれたら咥えたり舐めたり飲んだりするのか?
妻はしてくれないことだから、男は金で遊女を買って、己の欲望を遠慮せずにぶつけるように遊ぶのか? という疑問。
疲れる気配がするけれど、生物資料のおかげであらゆる価値観や知識が破壊されていく感覚がすると、ギイチはほくそ笑んだ。
下半身を整えて、そうっと廊下を覗いたらお盆に乗せられた朝餉あり。
炊き立てご飯に大根と菜葉のお味噌汁と、変な形のきゅうりとぬか漬けらしき人参。そこに小さな紙が添えられていて「棒手売りは来ないようなので、今日からしっかり買い物に行きます」と書いてあった。
「言わなくても匙や楊枝……。別に人前でなければ左手も使うんだけどな」
箸もあるけど、使いにくいならどうぞというように匙と楊枝が添えられている。それでいて書き付けに「用意しました」とはわざわざ書いていない。
二年程、なぜか家事が苦手なのに朝食を作ってくれるアザミのものとは全く異なる、五臓六腑に染みるような美味しい味噌汁に感激。
彼は完食後にあまり深く考えず、衝動に任せてマリを探してこう告げた。
「君は料理人なのか? あんなに美味い味噌汁を家で作れるなんて。アザミ君の味噌汁とはまるで違う」
これに対してマリはポカンと間の抜けた表情を返した。
「なんだその顔」
「褒められて嬉しいのですが、同じ昆布と同じお味噌ですから、味の濃淡くらいの違いだと思います」
「まさか。全然違う」
マリは腑に落ちないというような顔をしている。
「学校の実習くらいでしか作ったことがなくて、三人一組が多かったので、つい多く作ってしまいました。おかわりはいかがですか?」
「いる」
こうして、ギイチは食欲に釣られて「騙されるか」と警戒しているマリと、あっさり一緒に朝食の続きを開始した。