一話
シン・ナガエは中規模商家の四男に生まれたのだが、母親の命と引き換えに生まれた醜い赤ん坊だった。なにせ、左手が少々短くて指が四本しかないのである。
父親を含めた一族にこのような忌み子を人前には出さないと言われた結果、シンは座敷牢のような蔵で育てられた。さらにその間に左目周りから額の左側にかけて赤いあざができたので尚更不気味がられた。
学校に通うことは無かったけれど、規定の家庭教師がつけられたのでそれは学歴相当だと認められている。
十六才元服、成人となる前には家から追い出されて、小さな屋敷と生活費を与えられた。
三人の兄に「母親を殺した妖の化身」と罵られて、父親に無視されて育ち、ロクに味方のいない幼少期を過ごした彼は当然のように捻じ曲り、すっかり人嫌いの世捨て人。
親が世間の目を気にして用意した使用人と顔を合わせずに、だらだらと何もせずに過ごし、酒を飲んだり花街で遊んだり。
そのうち、屋敷の備品は彼の財産だから女性に貢ぐのはやめるべき、と至極真っ当な忠告をしてくれる使用人を追い出した。
シンにとって、この心優しい初老の使用人は、単に自分を最初から捨てている父親の手先でしかないので、信用することも頼ることもなく。
元服頃に花街の遊女に初恋をして、彼女の為に稼ごうと働いたけれど、遊女はそれが仕事なので当たり前のようにお金をむしり取られ、彼目線では裏切られた。その結果、シンの人嫌いは悪化。
やがて彼はそういう人生の鬱憤や怨念に色欲を絡めて紙にぶつけるようになった。愉快になってきたので書いて、書いて、書いて、書いて、書いて作品を積み上げた。
女は嫌いでも女の体は好むので、定期的に花街通い。それで作った作品を嫌がらせのように相手に読ませた。
その結果、とある出版社が彼の才能を発見。遊女が自分の他の客にシンの作品の内容を話したので作品を読まれ、自作本が出版社の人間の手に渡ったのだ。
シンはその出版社の者に、この作品を世間に売らないかと言われたので承諾。
どこにも居場所のなかった、何者でもなかった彼がこの世界に認められた瞬間である。
彼が書いた作品はどれも男や女が色春で痛い目に合うようなものばかりで、あれこれ生々しい描写を入れているので分類は艶本や春本。
編集者と打ち合わせを重ねて作られた最初の本はそこそこ売れて、次作は更に売れた。その次は更にである。このようにして特定界隈では人気作家の「偽異魑」が誕生。
彼はなぜ自分の作品が一部の世間に受け入れられたのか理解出来ていない。
ただ、仕事と金と世間での居場所を手に入れられた事は少しばかり彼の空虚な心を満たした。
しかし、その心は黒く澱んだままで、まだまだ満たされない。疑心暗鬼なので他人に対して嫌味を返したり、攻撃的になったり。
シン・ナガエは名声を手に入れても、相変わらず引きこもり気味の世捨て人。幾人かの者達が掌を返したので余計に人の性悪さを感じて、人間という生物への嫌悪感は増すばかり。
年末少し前に、ギイチの専属編集者であるアザミが彼にこう告げた。
「ギイチ先生。次は純愛物の艶本をお願いしたいです。それで艶部分を抜いた表文学も作って売りましょう」
「純愛物? それに表文学? はぁ? 俺にそんなものが書けるか」
「書けます! 先生はとにかく表現と生々しさが良いんです。生き生きとした人物描写や現実感のある心理描写を俗物小説だけに使うのは勿体無いです」
「表現はともかく生々しさって、わりと実体験ばかりを書いているからかと」
「殺人鬼や異端人などは想像ですよね?」
これも、これも、これも、これも、これも想像ですよね? とアザミはギイチの作品を出して、頁をめくって指摘。
アザミはギイチの作品が好きすぎて書生になりたいと押しかけてきて、無理矢理弟子入りした男だ。
渋々受け入れたギイチと出版者を仲介するうちに、ギイチ専属編集者として採用されたという経歴を持つ行動派。
編集者としてはまだまだなので、ギイチの作品に手を入れるのは彼の上司達だが、現在ギイチと会える編集者はこの住み込み弟子くらい。
「純愛物で悲劇で終わる、紅葉草子のような傑作を!」
「古典文学を引っ張り出すな。俺は俗物作家だぞ。紅葉草子崩れと笑われるだけだ」
「古典文学風の艶本は売れますって。華族のお嬢様がこっそり読んでポポポッと頬を染めて、あそこを濡らして、私もいつかこのようにあれこれされるのだわなんてええ。萌える。可憐なお嬢様達に売りつけたい」
「君の性癖に付き合う気はない」
「嫌だぁ。書いて下さい。純真無垢なお嬢様の心をドロドロにしたい。表文学で舞台化もしたい。陽舞妓や歌劇で扱われるには世間受けやお嬢様受け! そこからこれまでの作品も舞台化ですよ!」
「うるさいなぁ。俺は好きに書いているんだ」
「でも、金に魂を売って、売れるように変更してくれるじゃないですか」
「そりゃあ、崇高な目標があって書いている訳ではないからな」
アザミはギイチにこう告げた。とにかく純愛物で、色春艶本の定番である遊女や人妻が主要登場人物ではなくて、庶民か庶民寄りのお嬢さんが主役か主要人物の作品。
清楚可憐な純情女と金持ち色男の組み合わせだとギャンギャン言われて、庶民女は金持ち色男に抱かれたがるとギャーギャー言われ、この金持ち色男は性格良しでないといけないなどと毎日、毎日、毎日、毎日、毎日言われて、ギイチはアザミの要求を受け入れた。
しかし、仕方なく書いたというのに「こんな乙女はいません!」と突っ返されるという。
「なんですかこれ。俺は男向けの艶本ではなくて女向けの純愛艶本を求めているんです。結構沢山いる庶民の純情乙女や良い家柄に生まれた箱入りお嬢さんやお嬢様達向け。なのになんでいきなり抱かれてあんあんよがっているんですか」
「はあ?」
「金持ちで優しい色男だからって、いきなりこんな事をしたら強姦魔って言われて泣かれます。下手したら死罪に持ち込まれますよ」
「はぁ? 結婚して初夜なんだからこのくらいするだろう。どこが強姦魔だ」
「いいえ。これはドン引きです。そもそも、いきなりこんな技術が出てくるなんておかしいです。仕込まないと。調教していないのに、なんで乙女がこんな技を出来るんですか。せめて閨本で勉強したとか出して下さい」
「閨本ってなんだ。お嬢様達は床入り用の本を持っているのか? 知らん」
「やっぱりお嬢様がええです。お嬢様があーん、恥ずかしいけどどんどん読んでしまうわって作品は、自己投影する為にもお嬢様が主役!」
お嬢様や清楚可憐な乙女について勉強しろと怒られて、純愛物を読んだことがないからだと指摘されて図星。
ギイチは仕方ないと読書期間に入った。小説を書いてそれが売れる、評価されるという事は彼の唯一の拠り所。その為、執筆に関しては彼は真面目で誠実である。
ギイチは年始の約三週間の大半の時間を読書に費やして憔悴。元々不健康気味な肌の色をしているのに、更に青白くなった顔でアザミにこう告げた。
「読めと言われた作品は大体読んだけど、全然そういう場面がないから分からない。寝る描写が飛ばされているじゃないか。キスさえサラッと終わり」
「そりゃあ、表文学でお嬢様達の教養の根源である古典文学ですからね」
「閨本も出てこない」
「それは入手してきました」
「他にお嬢さんやお嬢様の資料は?」
「あります」
提示された資料に目を通したギイチは、これだけでは分からないと返答。
「君が言う分類の女性数名に破瓜の感想を聞き取り出来るように手配してくれ。あと実際にヤッて反応を確認したい。俺が抱く処女を探してきてくれ」
「そんなの無理です。花街へ行って掘り出し物を探して下さい。稀に初物、初売りがいるんで」
「それをするのが君の仕事だろう」
「俺の仕事は家事と先生の作品がより良くなるように文句を言う事です。その文句は時に編集の代弁ですけど」
「今度こそ追い出すぞ」
「家からなるべく出たくない、なるべく人と喋りたくない先生は便利な俺を追い出せませーん」
アザミの勝ち誇った様子にギイチはこめかみを指で揉んだ。
「……あっ。君達夫婦の初夜を聞かせろ。元既婚者なんだから」
「それは絶対に有り得ません! 大型金貨を山程積まれても御免です。亡き妻に祟られます」
「それなら君が書け。俺は別作品を書く」
「俺は艶本が書けません。恥ずかし過ぎて無理。それに先生の描写や感性で書くからこそ良いのです。表文学も無理です。せっかく弟子にしてもらいましたが、才能ゼロです」
「それなら出版社全員の初夜や初体験話を持って来い!」
「そんなの誰も話しませんよ! 特に女は! それに自分が聞いてきてまとめても先生の役には立ちません! 素晴らしい感性と文才の先生とは違い、自分は凡々ボンクラなんですから!」
酔っ払いの下街男性なら話しそうだから聞き取り調査をしてこい。街中の女や恋人や夫婦を観察したり、花街で掘り出し物探しをして来いと言われて、押しに弱めのギイチは、年上弟子のアザミに屋敷から追い出されて街を散策。
滅多に屋敷外に出ないというのに、特に昼間は活動しないことが多いのに、と溜め息。
処女を無理矢理手ごめにしてヤリ捨てる作品ではなくて、初心な新妻を育ててエロくするみたいな作品かつ女性が喜ぶ作品を要求されていて、土台はなんとか作ってある。問題なのは現実感。
そこにお嬢様を主役にしろとか、お嬢様視点だなんだと言われたのでまた一から作り直し。古典文学をなぞって春描写を出したら模倣だなんだとコケ下ろされるのは明白。
初夜から徐々に女性がエロくなるまで、夫婦の生活感……と頭を悩ませるギイチは思いついた。
借金などの理由で嫌々春売りを始めようとしているそれなりの家柄の女を探して、借金返済分くらいの高額で買う。代わりに昼も夜も好き勝手して、家のこともさせる。
処女をどうにか一人買って生きた資料にする。自分はこれまで商売女くらいとしか接点がなかった。
都合の良い女を買うことが出来れば、一作品だけではなくて他の作品、他の系統の女性描写にも大いに役立つだろう。
住み込み中のアザミとつがいにさせて観察しようにも全力で拒否されそうなので、自分が玩具にしても良さそうな女を発掘、獲得だと意気込んだ。
そうして、まるで執筆に使いなさいと言わんばかりの女がギイチの前に現れた。
上玉が集まる天下の一区花街なら、そのうち特別競りがあるかもと足を運んだその日に、華族の血を少し引くという中規模商家のお嬢様、それも現役女学生が売られていた。
中規模商家のお嬢様なら、普通は私立女学校に通うが三女なら教育費が無くなるので国立女学生でも納得。
国立女学校には、背伸びをした庶民のお嬢さんも通っているから、彼女を通して下街お嬢さん達についても知ることが出来るので更に都合が良い。
ギイチは金と身分でマリ・フユツキを購入。花街で高級遊楼に売られれば、大勢の男の相手をすることになるが自分なら一人だけで、それも期限付きで解放する。
それは甘い誘惑となり、マリや両親の苦心に響いて、契約はギイチの思い通りになった。
さて、世の中とは想像通りにはいかないものである。
『そのような、そのような皮膚の病なのに前髪が長いと悪化します! 人目が気になるのは当たり前ですが、家の中ではきっと髪を上げておくべきです。痛くないですか? 辛くないですか?』
全く向けられたことのない慈しみに溢れた眼差しで、非常に可愛らしい困り笑いの上目遣いでそう告げられた瞬間、ギイチの脳天から足に向かって落雷したような衝撃が走った。彼はしばらく茫然自失。
これは彼のあらゆる人間に対する拒絶という分厚い壁にヒビを入れた。
『行きましょうシンさん。化物とはむやみやたらに他人を呪う者のことです。怯えてついつい周りに当たり散らしたシンさんも悪いですが、妖や化物、兵官に退治させろなんてあまりにも非道です』
呪いの手、妖の手、母親を殺した忌み手などなど、罵詈雑言を吐き捨てられたり、蔑みや怯えや悍ましいというような目を向けられたり、触れられたら気持ちが悪いと避けられてきた四本指で奇形の手を、マリが躊躇いなく握った瞬間、ギイチの脳天から足に向かって落雷したような衝撃が再び走った。彼はしばらく茫然自失。
遊女が金の為に褒めたり舐めたりした手や指だが、その瞳はいつも曇っていたというのに、マリという女の目は万華鏡のように輝いていた。
マリという女を買って、新しい生活が始まってたった数時間だというのに、既に唖然とするような言動や物事は彼の両手の指の数を超えた。
お嬢様という存在はここまで目立つもので、このように珍事件を巻き起こすなんて。大金を払って買った価値があるとギイチは大笑い。彼がこのように腹を抱えて笑うのは人生初だ。
「……あははははは! 散々だ! 飯を食いに行くだけでなぜこうなる! 一晩牢屋だと覚悟したのにかわゆい婚約者なんだからしっかり守りなさいってなんだ。あははははは!」
「ふふっ。本当に、お夕食の為に出掛けたのに散々でしたね。あっ、シンさん、シンさん。カナミさんが個室でゆっくりすると良いと美味しい海鮮丼のお店を教えて下さいました。二人で銀貨一枚で足りるお店です」
「カナミさんとは誰だ」
「女性兵官さんです。私の担当になるのでお屋敷をたまに訪問するそうなので、明日から大掃除します!」
「げっ。監視兵官が減ったのに、君のせいで増えたのか」
「悪い事をしていなければ何も問題ありませんので、おしどり婚約者だと伝われば大丈夫です。……兎! シンさん、兎です! 街中なのに兎さんがいるなんて!」
街中ってここは雑木林だぞ、とギイチは心の中で突っ込んだ。
「兎さん、お待ちになって!」
可憐に走り出したマリを「バカ女」と眺めたものの、ギイチの脳天から足に向かって落雷したような衝撃が再び走った。彼はしばらく茫然自失。
お待ちになってとは可愛らしいなと、あそこが少し持ち上がる。
「ん?」
想像よりも幼稚な女が来て、主役というよりは妹や姪の資料だなと考えていたのに体が反応。
「人懐こいです。シンさん! こちらの兎さんを飼っても良いですか?」
兎を抱きしめて振り返ったマリは満面の笑顔。そのあまりに可憐な姿にギイチの息子は天を目指した。
「……」
何かがおかしいとギイチは走り出した。褞袍の前を合わせて下半身をしっかり隠して、マリと共にこのような体で歩いていたら、見回り兵官に「強姦魔」と難癖を受けられて下手すると死罪になる。
「えっ? シンさん? 置いていかないで下さい! 兎さんがお嫌いですか? シンさん、お待ちになって!」
ギイチが少し振り返ったら、マリはのたのた、のそのそ追いかけてきていた。体の動かし方が男や粗暴な女とは全く異なる。ギイチはまるで見たことのない女の動きだ。
「お待ちになって!」
やはりマリは可愛い上に光苔並みに光って見えるのでギイチは目を擦った。しかしその輝きは消えず。
「兎は飼って良いから来るな! ち、近寄るな! いや、前を歩け! 俺を抜かして前を歩け!」
厭世主義者ギイチはこのようにして恋穴落ちをした。何度も衝撃を受けたし、この体なので自覚もする。
ギイチ、人生二度目の恋である。