六話
外食先は男性ばかりが溢れる小さな料理屋で、私とシンの席は屋外にある丸太と切り株という非常に荒々しいもの。
「シンさん、シンさん。丸太に座るのは初めてです。ゴツゴツしていて少し痛いですが楽しいですね。こちらの切り株は立派な木ですよ。年輪がこんなに幾重にも」
お客に女性が一人だからかジロジロ見られていて恥ずかしいので扇子を出して顔を隠すことにした。お品書きを眺めて、知らない名前ばかりで更に楽しくなる。
「シンさん。エイヒレとはなんですか?」
「エイヒレはエイヒレだ」
「たらことはなんですか?」
「たらこはたらこだ」
「わかめ鍋とはわかめの鍋ですか? わかめのお味噌汁とは違うのですか?」
「わかめ鍋はわかめ鍋だ」
「海の親子丼とはなんですか?」
「君はなんというか……自由だな。それに肝が据わっている」
「人見知りはあまりしない方です。あっ、図々しいという意味ですか?」
「そうだとして、そうだ、君は図々しいと面と向かって言う者がいるか?」
「それでは私は図々しいのですね。人懐こいとか、気さくとも言えます。私、友人作りは得意なのできっとシンさんとも仲良くなれると思いますよ」
店員が来てお茶を出してくれたので、湯呑みを受け取ってシンに差し出したけど受け取ってもらえず。それどころか彼はその湯呑みを右手で払った。飛ばされた湯呑みが地面に落下して無惨に割れる。
「仲良くなれる? 俺は君——……」
「火傷していないですか⁈」
世捨て人なら人間嫌い。人間嫌いはすぐには心を開かない。捨て犬や捨て猫が荒んだ目をしていて、拾って飼い主を探そうとして歩み寄れば威嚇されるのと同じ。
私が距離感を間違えたせいで、彼に不快な思いをさせて、熱いお茶を手にかけてしまった。
「すみません。熱かったですよね? あの、桶に水をお願いします。湯呑みは弁償しますので」
「痴話喧嘩なら他所でやってくれ。今くらいの量なら水で冷やさなくても平気だろう。ボロ湯呑みだから今回は目をつむるとして、また騒ぐなら追い出すからな。注文が決まったら呼んでくれ」
店員の中年男性はそう告げると私達を軽く睨んで遠ざかっていった。湯呑みは拾わないようだ。
「まぁ。安いお店だとこのように言われてしまうのですね。騒いだのは私達が悪いとしても怪我人ですのに。シンさん、大丈夫ですか?」
「別に」
「見せて下さい」
「触るな!」
低い声で威圧された。多分睨まれたけど彼の前髪が長くて目が隠れているからよく分からず。私は席を外して、割れた湯呑みを拾って手拭いの上に集めた。
人が通りそうなところなので、誰かが踏んづけたら怪我をしてしまう。
「いよぉう、お嬢ちゃん。あんたの連れは飲んだくれの兄か? 兄妹にしては服装が違い過ぎる」
顔を上げたら熊みたいな体格で髭も髪ももじゃもじゃな男性が私を見下ろしていた。少し屈んで前のめり気味。
「……き、きゃあ! はし、はしたないですよ! そのように肌があらわなんて!」
下街を通るとたまに見かける、片腕を袖から出して上半身がかなり露わという格好。俯いたら着物の裾が短くて足の肌もかなり見えている。なんと、脛の毛までわんさか生えている。
「ヤイチ、はしたないって言われた」
「あはは。それなら俺もはしたないぞ。お嬢ちゃん。いや、お嬢様か? 俺もはしたないですかー?」
揶揄われていると丸分かりかのでそうっと立ち上がって、彼らと目を合わせないようにして、店員のところへ行って「騒いですみませんでした」と割れた湯呑みを包んだ手拭いを差し出した。
「見ていたけど掃除してくれたんだな。あんな風情の男と小綺麗なお嬢さんってどういう組み合わせだ?」
「どのような組み合わせとはなんですか?」
「人買いと売られたお嬢さんにしてはこう、お嬢さんは平和な雰囲気だ。商品と共にのんびり食事っていうのも変だし」
「私達は婚約者です。お元気そうですが、シンさんは体が弱いのでお世話の為にもうほぼ夫婦で、共に暮らしています」
「……はぁ? はああああああ⁈」
凄く叫ばれてしまった。
「なんであんなのと、貧乏そうで見た目もアレで暴力男みたいだったのに婚約者⁈ 出来の悪い兄と妹でも変だと思ったのに婚約者⁈」
「シンさんは人がお嫌いのようです。なのに親しくなりたいからと一気に距離をつめようとした私が悪うございます」
「なんであんなのを選んだ!」
「お家の為に互いの親が決めました。夫婦になると決まったのですから、親しくなりたいのですが難しいです」
多分、これが私達の創作婚約話に沿っている、簡潔明瞭な説明だと思う。
「世の中狂ってる。こんな美少女がアレと婚約者……。なんでだ。俺だって婚約したいというか結婚したい!」
これがキッカケで、あのチグハグ男女は婚約者同士らしいぞという会話が飛び交い、私の周りもシンの周りにも人だかり。
あんな乱暴そうな男はやめておけ、殴られていないか? と心配してもらえるのはありがたい。
「心配はありがたいですが、よく知らない方に対して失礼ですよ。シンさんは親切にして下さっています。それに、彼の格好は楽だからで貧乏だからではありません」
「この下級民ども! 俺に話しかけるな! 近寄るな! 飯を食いにきただけなのになぜこうなる! おいこらマリ、帰るぞ! こんな店では食わん!」
下級民なんて言葉遣いはいかがなものか。勢い良く立ち上がったシンに対して「喧嘩を売っているのか!」と客が怒鳴り返したのは当然だろう。
「皆さん、不快な思いをさせてすみません。それから心配して下さりありがとうございました。どうか楽しくお過ごし下さい」
シンのところへ行って、歩き出した彼の後ろをついて行こうとしたら、熊男が「待てこら!」とシンの腕を掴んだ。
「そのお嬢さんは置いていけ。兵官を呼んで家に帰す。親が何を考えているか知らないが、お前みたいな男と結婚なんて、こーんな綺麗な気立のええお嬢さんが不幸になる」
「そうだそうだ! ええ女は幸せになるべきだ!」
「俺の嫁より上玉なお嬢さんがこーんな男となんて不公平だから許さん!」
「政略結婚反対!」
「ここらに住んでいるなら、俺らや俺らの嫁が世話してやるから、この優しいお嬢さんは家に返せ!」
「離せ!」
身を捩ってもシンの腕から熊男の手は外れず。
「皆さん、誤解しています。シンさんは優しくしてくれています。どうかその手を離して下さいませ」
「いーや。兵官に仲立ちさせる。それか火消しだ。誰か呼んで来い!」
「離せと言っているんだ!」
シンが左腕を思いっきり上げたけど熊男の手はまだ離れていない。しかし、熊男の手がゆっくりとシンの腕から離れた。
「なんだ……その手……」
私の目にも飛び込んできたので、熊男の驚きは分かる。シンは腕を上げたので袖がまくれて、袖が長くて隠れていた手が全て露わになっている。
筆を動かしたり、湯呑みを払った右手の太さよりも細く、掌は小さく、指が四本しかない。
「化物……。化物だ! お前は妖でお嬢さんを術で惑わして、食い殺そうとしているところだったのか!」
「誰かすぐ兵官を呼べ!」
「緊急の鐘を鳴らしてくる!」
「これは生まれつきで俺は人だ!」
シンの絶叫が夜を切り裂く。シン・ナガエは引きこもりの世捨て人。病気がちだから実家から離れて田舎で療養中。父が調べたり、ユミトから聞いた話が繋がっていく。
「おや、おやめ下さい! 死の数字は幸せと表裏一体で、四つの指は龍神王様と同じ数です! 化物ではなくて副神様です。この手は多くの方を楽しませる文学を生み出しています」
口から出まかせだけど、この騒動だけでシンという男性がなぜ人間嫌いの引きこもりになったのか理解出来たので胸が痛くてならない。
十八才は一般的な下町男性なら世帯を持つような年齢だけど、中流層以上の男性はまだまだ親の庇護下にいて、仕事に打ち込むような年頃。
それなのにナガエ財閥の御曹司シン・ナガエにはあの大きな屋敷を掃除してくれたり、三食を用意したりしてくれる使用人はいない。両親がそこを怪しんでいて、私も気になっていた。
彼はおそらく、実の家族にさえ疎まれて捨てられたのだ。奇形は縁起が悪いなどと家業から遠ざけられることが多い。
「行きましょうシンさん。化物とはむやみやたらに他人を呪う者のことです。怯えてついつい周りに当たり散らしたシンさんも悪いですが、妖や化物、兵官に退治させろなんてあまりにも非道です」
私は彼の四本指の手を掴んで歩き出し、追いかけられたら怖いと走り出した。涙が溢れてきて止まらない。
人に疎まれ、嫌われることは辛くて苦しくて悲しいことだ。私は少しだけ知っている。女学校に入学してしばらくして、質屋や金貸しの家とは卑しい偽物お嬢さんだといびられた。
凛と毅然とした態度で助けてくれたのはユリア・ルーベルで、だから私は彼女に憧れている。それで髪型や飾りものや、華族のお嬢様みたいな話し方や所作などを真似した。
長年ずぅと同じ教室になれなくて残念で、思慕を伝えたくて時折り手紙を書いていた。今年になって、突然料理会に入ってきてお近づきになれて嬉しかった。
彼女はいつも誰かを助けたり、優しくしたりしているので私もそうしたい。それは中々難しいことで、あまり出来ていない。今もシンの手を握る手が震えてならない。足もガクガクするので転ぶかも。
シンの気持ちを理解出来るはずなのに、今の私は「男性客達が追いかけてくるかも」という恐ろしさ、己可愛さで泣いている。
「き、きゃっ!」
懸念通り転びそうになったけど、私の体は地面にぶつからなかった。腕を掴まれて引っ張られたからだ。
体がぶつかったので顔を見上げるとシンと目が合った。前髪が少し流れているので確かに彼と目が合っている。
「そんなに震えて泣いて、何を考えている」
「何を?」
「何が副神だ。この口から出まかせ女。あの場で共に退治されたくなかったということだろう?」
「……」
「君みたいな者には反吐が出る。俺の手がそんなに恐ろしいのにあのように聖人君子みたいに振る舞って。この見た目なら天女だ聖女だと褒められるからなぁ!」
顔を彼の右手に掴まれた。頬を潰されて顔をグッと上げさせられた。猫のような鋭い瞳が私を射抜くように爛々としている。
「……。何を……。怖かったです……。侮辱するなと怒られるのでは、追いかけられるのではと……」
「……」
「褒められ……たいです。憧れの人のように……優しくなりたいです……。なのに傷つけて……すみません……」
助けたつもりが傷つけたのは明白。同情なんてされたくなかったのだろう。それなら私はあの場でなんと言えば彼の苦痛を和らげてあげられたのか。
誰かに優しくするというのは、あまりにも難しいことである。気さくに接すれば図々しいになり、一人は寂しいだろうと話しかけると余計なお世話だったり。
「う……うえええええん! うわあああああああん!」
「お、おいっ! やめろ! 俺と君が一緒にいて、そんな風に泣くと俺が不審者や暴漢と間違えられる!」
「うええええええ……ずみばぜん……。ごわぐでなみだがどまりばぜん……」
「あんな店に連れて行って悪かった。おどおど、キョロキョロすると思っていたのに、なんでこんなことに……」
ほら行くぞ、と私は彼の四本指の手に引かれて歩き出した。
「ずみません……」
「っというか、ここはどこだ。君に連れてこられるままだったから分からん。来た道を戻れば……。追手はいなそうだけど怖いんだよな? 歩いていたら見回り兵官に会うか……」
「シン……さんは……恐ろしくないですか?」
「人は誰しも醜悪で恐ろしい化物だ。もう慣れているから別に誰も怖くない」
「……っ。うえええええええん」
そんなの悲し過ぎると、嗚咽が漏れてしまった。泣きたいのは彼の方だけど、彼は感覚が麻痺してしまっているようで、それが尚更悲しくてならない。
やがて見回り兵官が駆け寄ってきて、シンの懸念通り彼が責められた。私は兵官に「もう大丈夫です」と保護されるという。なぜかシンは何も説明しないで両手をあげて沈黙。
「違っ、違います。あの、違います。私達は婚約者で食事から帰る途中です」
「お嬢さん。何か脅されたんですね。大丈夫ですよ」
「こちらが証明書です。彼の身分証明書にも同じものが記載してあるはずです」
シンが説明しないので、身分証明書を見せつつ何があったのか一生懸命説明。いくら兵官相手とはいえ、勝手に話されるなんて嫌だろうからシンの体のことは教えないで、誤解されて心配されたと話すことにする。
「もっと穏便にしたかったのに、怒鳴ったり罵倒してしまいました。怒った方々に追いかけられるのではないかと考えたら怖くて大泣きしてしまいまして……」
「うーん。思ったのと違うようですが、暗くて見えないものもあるので小屯所までお願いします」
こうして私とシンは地区兵官に連れられて小屯所へ。夜は基本的に活動しない女性兵官まで呼ばれたので、そんな風にシンだけではなくて兵官にもかなり迷惑をかけるという。
「ナガエ財閥本家四男さんとお嬢さんでしたら釣り合いもまぁ、取れていますし身分証明書はどれもこれも偽造ではありません。明日、結納契約書が提出されているのか役所に問い合わせます」
「よろしくお願いします」
「一先ず、しっかり確認出来ない今夜は保護所で過ごしてもらいます」
「かしこまりました……。お手数をお掛けしてすみません。あの。明日の朝食の準備があります。私の花嫁修行の為にシンさんは使用人にいとまを出していますので作らないと。いえ、作りたいです」
彼は朝食を作るな、と言わずに勝手にしろと言ったから炊事をするお嬢様という資料が欲しいだろう。
明日でなくても良いのだろうけど、これまでは起きたらご飯とお味噌汁があったのに、それが無いのは悲しいと思う。
「……うーん。言動的に心配なさそうなので帰すか悩みます。本当に大丈夫ですか?」
「はい! 親切にしていただいています」
「どうしても帰ると言うのなら、体をあらためさせていただきます」
「どうぞ。暴力跡などはありません」
女性でも肌を見せるのは恥ずかしいけれどシンの無実を証明する為だ。こうして私は解放されて、シンも同じくで、私達は帰路についた。
彼は「これまで身分証明書の提示を拒否していたのに、こんな形で兵官に見せるはめになるとは」と深いため息。
「……あははははは! 散々だ! 飯を食いに行くだけでなぜこうなる!」
ため息から一転、シンは大声で笑い始めた。
「一晩牢屋だと覚悟したのに、かわゆい婚約者なんだからしっかり守りなさいってなんだ。あははははは!」
歩き始めたらシンは大笑い。私もつられてクスクス笑い。確かに、ご飯を食べに行っただけなのに珍事件だ。
☆
私はこのようにしてシン・ナガエと知り合い、新しい生活を始めた。