五話
それにしてもここはかなり大きなお屋敷だ。ただ、使われていなさそうな埃だらけの部屋や廊下ばかり。
土間は渡り廊下の向こうで、火事の延焼防止なのか渡り廊下は石造り。土間にあるかまどは埃をかぶっていなくて、米も野菜もある。調味料は味噌と醤油くらいだけど、出汁用なのか昆布あり。
シン・ナガエは自炊しているようだと考えて、そういえば同居人にアザミという人物がいると思い出す。
しかし、アザミという人物も全然見当たらない。中性的な名前なので男なのか女なのかも不明。
とりあえず寝る部屋を決めようと考えて、ここは場所的にも広さ的にも住み込み使用人の部屋と感じたところを住居に決定。土間に近くて、呼び鈴があるから、きっとここは使用人部屋。
大きなお屋敷に嫁入りに来て、使用人が居なくて、予算を渡されたのなら嫁の仕事は家守りのはず。私が選んだ部屋は家守りに相応しい位置だろう。
荷物を置いて、襖の中を確認したら空っぽ。寝具探しだとまたお屋敷中を探索して埃やカビ臭い、ぺちゃんこ布団を獲得。
今から洗って干しても乾かないけれど、少しだけでも太陽の光に晒して叩いたら埃やカビの臭いがマシになるかもしれないのでそうした。
続けて古典文学に出てくるように、畳の上で着物を掛け布団にして寝るのもありだと気がついて部屋の掃除。お屋敷中を探検したので、掃除道具も入手出来たから掃除だ掃除。
アザミという人物は掃除をしないのだろうか。シンの部屋はあの惨劇で、土間と二部屋と、お屋敷の中心にある中庭に面している廊下くらいしか綺麗ではなかった。
明日から計画的に屋敷中を掃除していきたいけれど、明日までに自室の掃除が終わると思え無い。
自室の掃除に夢中になって、寝るだけならどうにかなりそうなので、今日はここまでと終了。
生活費を数えたら銀貨三十枚。一日一枚は使える計算になる。これは我が家の生活費よりも多い。中規模商家の生活は質素倹約で、空いた分は事業費用や今後もお家を存続させるために教育資金などに使う。
今日は夕食だけ……と思案して、シンの食事はどうしようと悩んだ。あとお風呂屋の場所を知りたい。
私のような者は、日暮れ以降はかなり危険。懐刀を持ち歩いていても一人で歩くなんて言語道断。食事とお風呂問題は本人に質問しないと解決しないので、私はシンの名前を叫びながらお屋敷中を歩き回った。
「そんなにずっとなんだ。耳に穴があく」
振り返ったら廊下の曲がり角からシンが登場。
「耳には最初から穴があいています」
「二つに増えるって意味だ」
「お夕食はどうされますか?」
「どうするってなんだ。金は渡したんだから勝手にしろ」」
「掃除に夢中になってしまったせいで、これから夕食の支度なので遅くなりますがよろしいですか? という意味です」
「……はぁ? 君は俺に夕食を作る気なのか?」
「同居結納とは花嫁修行ですのでそのつもりでしたが作らない方が良いのですか? それなら銀貨三十枚は多過ぎます。二人分の生活費でも多そうですけれど」
「……」
返事がないけれどどうしたのだろうか。髪の毛の向こう側にある黒目が私を見据えている。
「あの、どうされました?」
「勝手にしろ。俺は君がどういう行動をするのかを知りたい」
「それではお夕食は作りますね。あとお風呂屋さんへ行きたいので、付き添いして欲しいです」
「風呂屋へ付き添い? なんでだ」
「日が落ちてからは危ないので一人で歩きません。お風呂屋の場所も分かりませんので、一緒に行きたいです」
「そういえば散々屋敷の中を歩き回っていたのに風呂には辿り着いていなかったな。ついてこい」
「はい」
屋根や壁が半分朽ち果てている廊下の先は行かない方が良いと思っていたのだが、その先の扉の向こうには綺麗な廊下があり、さらに進むと脱衣所で、その奥にはかなり大きなお風呂があった。
「温泉地の大浴場のようです」
かなり高い屋根の下にある浴槽は石造りで既にお湯が張られていて湯気が出ている。
「これはその温泉だ。ここは老朽化に加えて温泉が枯れたから潰れた宿なんだが二年前に急に湧いてきた」
手招きされて、広い浴室にある扉の先へ進んだら、そこにも石造りの浴槽があってお湯が張られていた。浴槽のすぐ近くは岩だらけで、小さな滝から湯気が立っていて、浴槽に流れ込んでいる。
そしてここは暗闇ではなくて、光苔の灯りがいくつもあってかなり明るい。おまけに自然に生えているような光苔もある。
「向こうは下から湧いてきていて、位置的に下のこちら側へ溢れる。それに加えて、見ての通りそこの岩の間からも温泉が流れている」
「こちらの庭は手入れされているのですね」
しっかりと形を整えてある植垣や手入れされているような木々に竹が数本あり、散りかけの桜の木もあってなんとも風情。
「部屋と風呂の往復が多いからまぁな。人にさせている」
「うわぁ。うわぁ! シンさん。案内して下さったということは、こちらに入って良いということですよね?」
「庶民のように風呂屋になんて行きたくないからそうしてくれ」
「日が落ちる前に一人で行けと言わないで、このように素晴らしいお風呂を使わせて下さるなんて、シンさんは親切ですね」
「……」
返事がないので彼を見つめて待ってみたけど無言が続く。かなり強い風が吹き抜けて、彼の髪を揺らしたので初めて彼の目元を知った。
瞳はこの国の大勢の者と同じく黒檀色なのだけど、瞳が猫のように形をしている。それで左目周りからこめかみにかけて赤い盛り上がったあざがあった。
「そのような、そのような皮膚の病なのに前髪が長いと悪化します! 人目が気になるのは当たり前ですが、家の中ではきっと髪を上げておくべきです。痛くないですか? 辛くないですか?」
私は思わず掃除時に使っていたタスキを彼に差し出していた。
「……この紐はなんだ」
「はちまきの代わりになるかと」
「……はぁ?」
「あの、何かございますか? あっ。もしやその目は光に弱くて髪で隠して守っているということですか? ユミトさんに世捨て人のようだと聞きましたがお医者さんには診てもらっていますか?」
「いや。瞳は生来のもので、皮膚は生後徐々に妖に取り憑かれたらしく、俺が物心ついた時にはこうだった。見た目が悪い以外は何もない」
「人の目が気になってお辛いでしょうけど、痛みなどの体の苦痛が無いのは幸いです。でも髪はチクチクしますので、皮膚に悪くないか心配になります」
「気がついたらこうで、良くも悪くもなってない」
「今後は分からないではないですか。つい見てしまっても皆さん心配するだけです。前髪を切って、皮膚に優しくした方が良いと思いますよ」
ニキビとは比べ物にならない皮膚病。流行りだからと前髪を作った結果おでこにニキビが沢山出来たことがあるので心配だ。
「……風呂」
「はい。ここはお風呂ですね」
「風呂に入れ。今日は遅いから食事は外に食べに行く。風呂に入って支度をしたら部屋に来い。いや、逆か。まず食事に行くぞ」
「それはありがとうございます」
やはり彼は横柄なようで気遣い屋のようだ。支度なんていらないだろう、腹が減ったから行く、金は払うから何も持ってこなくて良いと言われたので、それなら何もしないで出掛けられると返答。
お屋敷を出てシンと並んで歩いていると、通り過ぎる者達がこちらを見ながら連れとヒソヒソ話をする。
「可哀想に、人買いに売られたのね」
「ええとこのお嬢さんに見えるのに気の毒」
耳に入った台詞に対して、そのように見られたのだなと少し胸を痛める。シンは人買いではないけど、私を買った人なのでほとんど正解。
「あの、シンさん」
「なんだ?」
「ユミトさんにアザミさんという同居人がいると聞きました」
「調査の邪魔になるからアザミ君は追い出した。近くの長屋に引っ越したけど、彼は使用人だし編集との仲介者だから明日には会うだろう」
「これまではアザミさんが身の回りのお世話や炊事に洗濯など、家守りをしてくれていたのですね」
「アザミ君は家事が苦手だから彼に洗濯屋へ行けとか、飯を買ってこさせている。味噌汁とご飯と香物を切っただけという朝食くらいは作っていたけど、他は全て店屋物だ」
「明日からは私が家守りとして励みます。何かあればお申し付け下さい」
返事がないので待ってみる。シンは時折長々と思考する性格のようだ。
「勝手にしろと言ったのは俺だから、思ったように過ごせ」
「分かりました。それが資料になるということですね」
「そうだ」
もっと悲壮感の溢れた生活が始まると思っていたけど幸先良さそう。シンの性根は悪くなさそうなので、怖い目に遭う可能性は低いだろう。
すっかり暗くなった夜空には星々が輝いていて、半月が海を照らしている。雲一つない空から落ちる光がおどろおどろしい海を照らして美しくしていて、月明かりが海に作る道はなんだか歩けそう。
「私、夜の海を見るのは初めてです。美しいですね」
「三区六番地暮らしだと、ここまで遠くないから、海自体は初めてではないか?」
「はい。昼間に家族友人と来たことがあります」
「……そうか。初めて海を見た者について知ることが出来ないな」
今の発言は独り言のようだった。
「今度、立ち乗り馬車の降車場でそういう方を探しますか? お弁当を持って海観光がてら。朝はきっと観光客が来ますよ」
「はぁ?」
「初めて海を見た者という資料が欲しいのですよね?」
「俺は朝とか昼が嫌いだ。君だけ観察に行って感想を書いてみろ。アザミ君は役に立たない。君の感想文もそうかもな」
「感想文ですか。かしこまりました」
「お嬢様の感性や文も気になるから一週間くらいこの街の観察日記を書いてくれ」
「はい。シンさんは本当に小説を書くことを好まれているのですね」
彼からふんっ、と不機嫌そうな鼻を鳴らす音がした。
「まさか。暇つぶしに書いているだけだ。金が入るから売れるようなものを書いている。売れるにはある程度の現実感が必要だ」
「シンさんはどのような小説を書いているのですか? 近くの本屋にはギイチさんという作家さんの本は見当たらなくて、この街でなら買えますか?」
「売れてないのだろうっていう嫌味か? 俺の本が売っているのは花街。春本や艶本という分類だからな」
「……」
キスしたり体をまさぐるような描写が生々しく書かれているのが春本や艶本という本らしいことは、兄弟がいる同級生から教わった。
それらの本は春画の仲間なのだが、この世に存在するということは、作り手がいるということに今更気がつく。
「……」
「なんだその蹴られそうになった鳩みたいな顔は。君の親は俺について調べなかったのか?」
「調べましたが……本は見つけられずです。春や艶話を書く方が存在していることに気がついていませんでした……」
「君の頭は弱いのか? 作り手が居ないなんてあり得ないだろう。箱入りお嬢様も春本や艶本の存在を知っているんだな」
「兄弟のいる同級生が自宅で発見して、あまりにも破廉恥でとても内容を言えないと……」
「その話は良い資料になりそうだ。帰宅したら話してもらう」
「は、はい……」
幸先良しと考えていたけれど、私は秋になったら彼と夫婦になってキスなどをするんだったと考えて少し体が震えてきた。この震えは夜風はまだまだ冷えるからではない。
私が生きた資料なら彼の本の中に私のような者が登場する。それを理解したことで、羞恥心は増した。