四話
赤鹿警兵の名前はユミトで、彼は私を連れてシン・ナガエのお屋敷へ。彼は今日非番で、手習先の剣術道場へ行って稽古。その剣術道場はルーベル副隊長が通っているところで、ユリアもたまに顔を出すという。私と会ったのはその帰り道だそうだ。
私服だと赤鹿屋と誤解されて、人や荷物を運んでと依頼されるから、非番の日も大体制服らしい。
崖にある松林の手前、大きな楠に囲まれていて、庭とは呼べない草が伸び放題の敷地内に建てられている、一階建ての平家がシン・ナガエのお屋敷だった。
門は開け放たれていて、玄関まで誰でも素通り出来る。泥棒どうぞといわんばかりの無防備さ。門から玄関までは雑草も乏しいくらい整備されているし、石造りの灯篭には苔が無い。
誰も住んでいないようなお屋敷に見えて、どうぞ入って下さいというような雰囲気が醸し出されているから不思議。
このお屋敷には何かが出そう、何か奇妙なものが住んでいるかもしれない、そのように感じて幽霊屋敷と呼ばれるような奇妙さがある。
ユミトは門前で私を赤鹿から降ろして玄関まで進み、玄関に下げてある予備鐘を鳴らした。ガラゴロン、ガラゴロンと錆びた銅が鈍い音を響かせる。
「ギイチさん。ユミトです。こんにちは。起きていますか?」
ユミトは世捨て人にして引きこもりのギイチの担当らしい。ギイチはとにかく人嫌い。仕事は不明で身分証明書の提示を拒否していて、昼夜問わずほとんど姿を見せないという。
この街の治安維持は地区兵官と警兵の合同だ。兵官達の中には福祉班というものがあり、怪しい人の監視や、生活が大変そうな人達の支援を役人とする者達がいるという。
ギイチは不審者だと兵官が勝手に福祉班で登録。悪いことをしていないかどうかとか、この屋敷で人が腐って骨になっていないかの確認に来て、何人もの兵官が追い払われた。
定期的にこのお屋敷には不法侵入が現れ、ギイチが姿を隠して彼らを脅す。
兵官に幽霊か鬼がいると通報する者達が現れるようになり、兵官はギイチに防犯対策をしなさいとか、人をおどかして楽しむのは危ないから辞めなさいと忠告しようにもロクに話をしてもらえなかった。
しかし、ユミトはわりと気に入られた。彼は一昨年
、ギイチがそこそこ売れている小説家だという情報を入手。
それでギイチの監視登録の格は少し下がり、ユミトが彼の筆頭担当へ。
出版社が身元を把握していて、生活に困らないくらい稼いでいて、犯罪の気配はなくて、出掛けないから何もしなそうな男性は捜査や監査対象外。強制的に身分を確認する程でもない。
しかし、ユミトは個人的にシンが気になるから来訪しているそうだ。若い男が世捨て人のようなのは心配だと、福祉班として支援しようと職場で訴えたけど、他が先だと言われたから、主に私的時間を利用しているという。
ガラゴロン。ガラゴロン。ユミトがかなりうるさく鐘を鳴らしても、叫んでも、シンは現れない。
「おかしいな。いつもならアザミさんが出迎えてくれるのに」
アザミはこのお屋敷の使用人かつ小説家ギイチの弟子かつ編集者との仲介人だとユミトに教わった。同居人がいるなんて両親も私も聞いていない。
本屋を何軒か回ったけれど、彼の書いた小説は海辺街の本屋にしか売っていないのか見当たらなかったし、シン・ナガエという人物は色々と謎。
父の調査によればナガエ財閥本家の四男シンは、幼少時から病弱なので田舎でずっと療養生活。学校に通うことは出来ない体なので家庭教師がつけられた。
成長しても体が丈夫にならないので、家業に関わることは難しい。だから簡単な仕事を与えられて、健康第一の療養中心の日々。
それが小説家で、実家からの支援金にしてはおかしい金額である大型金貨五枚をぽんっと出せるお金持ちで、こんなオンボロ幽霊屋敷で暮らしているなんて不思議。
花街で出会った日も、契約関係で会った日も、とても元気そうに見えた。貧乏下町男性みたいな格好と、顔が半分見えないボサボサ頭は不健康ではなくて不潔の分類。煙草とお酒の匂いもしたし。
「ギイチさ——……」
「朝からやかましい!」
勢いよく玄関扉が開いて、前回会った時と同じような見た目と服装のシン・ナガエが登場。相変わらず目の周りは、分厚くて長い髪で隠れている。
「朝ではなくてもう昼過ぎです。なんなら間も無く夕方ですよ」
「ふわぁ。ユミトか。ん? おい、隣の女はなんだ」
あくびをした後にシン・ナガエは私を発見。
「ギイチさんは彼女と知り合いですか?」
「俺は君にこの女はなんだと尋ねたんだ。先に答えろ、この無礼者。あることないこと言いつけて正官になれないようにするぞ」
過去二回、会った日よりもシン・ナガエは不躾で横柄な物言い。
「ギイチさん一人の口コミで正官になれなくなるような勤務態度や成績ではありません。家出人を保護したら、ここに嫁ぐと言われたので、一先ず連れてきました」
「ああ、父上が勝手に借金泥沼の家に金を積んだ。アザミ君しかいないむさ苦しい生活もうんざりだからそれで良いかと。三つも年下の初々しい女学生って最高だろう?」
「……」
ユミトが気の毒そうな顔で私を見据えたけれど、私はそれよりもシン・ナガエの年齢に驚愕。そういえば彼の年齢を知らなかった。
「シンさんって私と三つしか違わないのですか?」
てっきり、若くても二十代後半かと思っていた。まさか、たった三才しか差がないとは。
「身分証明書を見せただろう」
「拝見しましたが、ぼんやりしていまして」
「その顔。俺が中年男性に見えたってことだな。ユミト、上がっていけ。疑われて張り付かれるのは御免だから結納契約書の正写と提出予定の婚姻契約書を見せる」
こうして私は幽霊屋敷と呼ばれているらしいシン・ナガエのお屋敷に足を踏み入れた。通された部屋は本で埋もれた小部屋で布団が敷きっぱなし。それも綺麗に敷いてあるのではなくて、掛け布団が今起きましたというような形。
酒瓶が転がっていて、煙管用の小さな火鉢が燃えていて、そこに置いてある煙管から煙が上がっている。
雨戸が閉められているので部屋は暗く、小さな光苔の灯りが室内をほんのり青白く照らす程度。ここはまるで夜の世界。
「お嬢さんというかお嫁さんが来たのに応接間ではなくて、いつものこの部屋なんですか」
「そりゃあ、書類がこの部屋にあるからだ」
シン・ナガエはユミトに書類を見せて、よくよく見ろと告げた。ユミトはしばらく書類を読み込んで、私にもう一度身分証明書を提示するように言って確認。
「確かに同居結納するんですね」
「叩いても埃は出ないぜ」
「親も君もなんていう契約を結んだんですか。破格の結納金で驚愕しかないけど、君側からの訴えで離縁禁止。暴力、暴言、その他どんな扱いも許すなんて」
「俺に女を痛ぶる趣味はないから平気、平気。薄くても華族の血を引く上流層に片足を突っ込んでいる美少女。しかも国立女学生。こんなに素晴らしい玩具にはそりゃあ金を積む。息子の嫁を痛ぶりたいとは父上は崇高な趣味をお待ちだ」
こう言われると、私は彼の父親にも使われるのではないかと非常に不安になる。契約書の内容を思い出しながら、大丈夫だったかと思案。
「ギイチさん。人間は物ではありません。お父上にそのような考えがありそうなら守ってあげて下さい。彼女は貴方のお嫁さんになってくれるのです。一生に一人しかいない、大事な女性です」
「この世に存在しない、机上の正論を振りかざしても心に響くか、大バカ野郎。金で買えるんだから物だ物」
「机上の正論とはどういう意味ですか」
「一生にお互いだけなんて者は居ないってことだ。親の許可があればもう祝言出来るけど、父上と異なり俺にはかろうじて人の心があるから年明けまで時間を設けた。彼女が人生を諦める時間だ」
「お嬢さん。今日は嫁入り日ではなくて、同居結納開始日だったんですね」
ふぅ、と少し長めに息を吐いた後に、ユミトに軽く睨まれてしまった。
「同居結納は嫁入りと同意義です」
「父上やこの女の父親、事業提携関係で色々あるんだ。それにお嬢さんは自由にプラプラ歩きたいとかなんとか。兵官が首を突っ込む領域じゃない」
帰った、帰ったとギイチはユミトを部屋から追い出した。それで私と向かい合う位置に着席して、あぐらの足に右肘をつくという、とても行儀の悪い格好で私を下から見上げた。
唇はそこまで厚くないけれど、じゃがいもを切らずに口に入れられそうな大きな口をしっかり結んで、新月近い三日月のように、にんまりさせた。
「今日からよろしくどうぞ、お嬢様」
「短い間ですがお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
私はしっかり真のお辞儀をした。
「まずは道中話を教えてもらおう。長時間歩くことのないようなお嬢様が延々と歩いて疲れ切った顔で、怯えながら登場と思っていたのに、警兵に連れてこられるとは」
「不審者、家出人ではないかと指摘されました」
「俺が話せと言ったことは必ず話せ。それも詳細にだ。今のように軽く話されては役に立たない。質問にも絶対に答えろ。それが君の仕事だ」
「はい。かしこまりました」
私はギイチに「要らない」と言われるか、裏契約内の期間は彼の奴隷のようなもの。ユミトが心配してくれた通り、暴力、暴言など理不尽な目に遭っても私からは離縁を申し入れても却下。
代わりに大型金貨五枚は決して彼に返却しない契約になっている。
「あの」
「なんだ?」
「契約は交わしましたが……痛いこととかは普通に怖いので……なんでもお手柔らかにお願いします。無理はさせないと言って下さっていましたが……」
「さぁな。俺の気分次第だ。今は道中、何があったのか話せと言ったんだ。話題を逸らすな」
「すみません」
目が怖いと感じたユミトは、陽だまりのような雰囲気だった。気鬱そうな私を気遣って色々話してくれて楽しかったけど、今は恐怖と不安が私を包んでいる。
怒らせたら恐ろしいことが起こりそうなので、泣いたり震え声を出さないようにしたいのに、自然とそうなってしまう。せめて泣かないようにと必死に目に力を入れる。
「ふむ。ユミトはなんで平家奉公人ではなくて家出お嬢様だと感じたんだ? 帰すんじゃなかった。しかし、これこそ求めている現実感。冒頭は全て変更だ」
シン・ナガエは体を起こして肘掛けにもたれかかり、煙管を手にして煙を吸った。
「そうかそうか。何かしらの理由でお嬢様らしさが隠れていない女が、一人で田舎へ向かっていると兵官に保護されるんだな」
「今の話は作品作りの役に立ちますか?」
「ああ、勿論だとも。弟子や編集がやかましくて。頭が割れそうになる程次の作品はこれまでとは変えてくれ、あーしろ、こーしろと騒ぐ。それで生きた資料が欲しかった」
彼はふーっと私に煙を吹きかけた。我慢してみたけど、ゲホゲホとむせてしまう。
「お嬢様が選んだ最低限の荷物はなんだ? 見せて説明しろ」
「はい」
風呂敷の中身は着物一着と寝る為の浴衣二着。右手のカゴの中身は化粧品など身支度に使う物に飾り物と家族の絵と手紙。
右手のカゴの中身は、これからの生活で役立ちそうな家守り仕事についてまとめた筆記帳や料理本と包丁。
「その着物とこの着物が家にあった私物のうち一番安い着物かぁ」
横柄ではあるけれど、今のところシン・ナガエは怖くないので安堵。
「どちらも学校の裁縫の授業で作ったもので、今着ているのは春夏用で、こちらは秋冬用です」
「売り物以外の女の化粧品や身支度用品を見るのは初だ。このようにしまったり運ぶのだな」
「資料としてしっかり役に立てるようで良かったです」
「荷物は少ない。その中にこれらをわざわざ選んだ理由があれば教えてくれ。特別ならなぜ特別なのかだ。特別ではなくてこれしか持っていないでも良い」
「かしこまりました」
あれこれ説明したら、彼は筆記帳を手にして開いて片足で頁を押さえた。それで片手に豪華な鉛筆というような棒でサラサラと文字を綴っていく。
右手は袖をまくって使っているのに、左手は長い袖に隠れて見えない。以前会った時もそうだった。
「読んで良い手紙はあるか?」
「全て読ませろではないのですね。それならむしろどうぞ」
気遣ってくれたので、それならお礼に情報提供する。初恋の君からの文通お申し込み書の返事だけが辛いけど仕方がない。
「君は家族にも友人にも愛おしまれて生きてきたんだな。想像通りで実に良い。この手紙の内容は俺のような者の妄想では書けない」
彼は順番に手紙を読んで、最後に初恋の君からの文を手にした。
「恋人がいたのか? いや、それならこの内容はおかしいか……」
「初こひの君に文通お申込をしましてその返事です。どこのどなたか知る事が出来ましたが、今このようにここにいますので、文通することは無理でした」
「……」
シン・ナガエは私を見上げてしばらく何も言わずにただジッと私を見つめ続けた。
「一往復でも文を交わしていればまた違う表情を知れたのだろう。惜しいことをした」
「本当はこひ人がいたのだろうと、疑わないのですね」
「嘘つきは目を見れば分かる。今から交流しろだと欲しい情報とは変わってしまう。命令して密通だと無意味だし……。来年、実家に帰ったら素知らぬ顔で縁結びしろ。地獄の果てに天の原なら励めるだろう?」
これは目から鱗というか確かに。私の初恋は終わったのではなくて一時中断かもしれない。初恋の君が離縁された女性でも構わない、と言ってくれれば文通してもらえる。私の初婚が政略結婚なのは周知の事実になる訳だし。
彼は背筋を伸ばして筆記帳を閉じて、懐に手を入れて巾着袋を取り出し、私の前に無造作に放り投げた。
「一月分の生活費だ。これでどうにかしろ。俺はしばらく君を、父親が突然寄越した新しい使用人代わりの嫁として扱う。その中で君がどう動いたり、何を言うのか知りたいからだ」
「そのような設定の小説を書くのですか?」
「まだ定まっていないから案の一つというだけだ。遠路はるばる田舎から来て家には上げてもらえたのに、金だけ渡されて好きに暮らせと放置される。お互いの事は空気、居ないと思って過ごせ。そう言い放たれて放置された。とりあえずそれで」
そういう訳でとシン・ナガエは私を連れて部屋を出て玄関まで戻り、さっきの設定でここで解散と宣言。
「じゃあ、また違うことを知りたくなったら命令するから好きにしてくれ。気が付かれないように覗き見するけど、気が付いても話しかけてくるなよ」
私は手に持つ袋の中身を確認。廊下も暗くて全然見えないけど硬貨が沢山。
お嫁に来たはずがお金を渡されて好きに暮らせと言われて放置って、今まさにそれだ。
彼が考えている案の中のお嬢さんは「帰りたい」とならないのだろうか。帰ろうとしないのだろうか。
恐らく今の私と同じように帰れない事情があるだろう。そうでなければ今の私は生きた資料にはならない。帰宅不可能でここで暮らしていかなければならないのなら、私はこれからどうしよう。
暗い屋敷内を歩いてシンを探し回ったけど見つからない。彼が私を陰から観察しているから会えないのだろう。