四話
ギイチは玄関でマリにアザミを紹介して、出掛けるのは嫌だとゴネて、二人で買い出しに行けと命令。
しかし、アザミは「出勤するので」と逃げるように去った。アザミはそうしないと、引きこもりのギイチが家から出ないと考えたし、現段階ではマリに酷いことはしないと判断して。
「よし、マリ。一人で行け」
「シンさんの着物も買いませんか? その服装だと昨夜のように私となんたら、とどなたかに言われます」
「家から出なければ良い話だ」
「街には情報が溢れていますよ。お嬢様が主役か主要人物の表文学も書く予定だと申していたではありませんか。新しい発見があって、きっと創作の役に立ちます」
この女は調子に乗っている、とギイチは彼女を睨みつけた。しかし、マリからすると彼の目は分厚くて長い前髪で隠れているので睨まれた事実に気が付かず。
マリの素直な感想は、ギイチの中で「世間知らずの引きこもりには新作は書けない」という嫌味に変換されたので、売り言葉に買い言葉を発した。
「仕方がないから一緒に行ってやる。君はそこらで犬のうんこを踏んだり、転んで泥だらけになりそうだからな。見張ってやる」
「道案内して下さるのですね。ありがとうございます」
そうして二人は家を出て、しばらく道を歩いていたら、街中に出る前に中年火消しに声を掛けられた。未成年に見える若い火消し三人を連れている。おそらくこの三人は見習いだろう。
「おい、お前。人身売買の特別許可証は持っているんだよな?」
また人買いに間違えられたとギイチはため息。
「俺は彼女の婚約者で人買いじゃない。防所に苦情を入れるぞ」
「婚約者? まさか。この別嬪さんと、小汚い男が婚約者なんて嘘だろう。身分証明書を見せろ」
「何もしていないのに見せるか。結納契約書の凖写しなら見せてやる。マリ、君は身分証明書を見せろ」
「はい」
ギイチは、兵官や火消しなら身分証明書から読み取れるナガエ財閥の四男という肩書きを見せたくない。
家に籍を残してあるのは父親や兄がその辺りに手を入れないので、父親が亡くなった際の財産分与時に口を出す為。
病気療養しているということにされた分、それを理由に離籍させるのは人でなし。世間の評価が下がるだけではなくて、裁判官が許可しないだろう。父親や兄達はおそらく苦々しく思っている。それはギイチにとって痛快なことだ。
彼は昨夜懲りたので懐に入れた結納契約書の凖写し、マリは身分証明書を取り出して火消しへ提示。火消しはゆっくりとそれらを確認して、後輩達を試したり説明。
後輩指導を聞きながら、ギイチはこれも資料だなと心の中で口角を上げた。彼は家から出たくない男ではあるが、知的好奇心は旺盛なので、大岩のように重たい腰を上げて外出すると、なんでも楽しめる性格。
「お嬢さんはなんで彼とお見合いというか結納したんだ? 人を見かけで判断するなっていうけど、身なりから推測しろとも言う」
「お姉様が多額の借金をこさえて逃げました。ほとんど返済しなかったので、返済するという信用の為に初回にかなりの額を払いなさいと、お姉様がお金を借りたお店から請求されてしまいまして」
「ん? それがなんで結納……。ああ、お嬢さんの父親が彼の父親に金を借りをしたのか。娘を借金取りに奪われて売られるなら、四方八方に土下座以上のことをする」
「シンさんはそれなりの家の方で闘病中です。お父上が、息子は不憫なので良いお嫁さんをと考えましたが、良家のお嬢さんは条件の良い方と縁結びします」
「そりゃあ、そうだ。借金返済代を肩代わりしてやるから、代わりに娘さんを息子の嫁にってことだな。たまに聞く話だ」
世間はこのように推測して勝手に騙されるのだなぁとギイチは熱心に先輩の台詞を聞いている後輩火消し達を観察。腕章をしていて「習」と買いてあるからやはり見習いなのだろう。
「この格好の男は商家のお坊ちゃんには見えん。病気で体温調節が不可能だとしてもこの暴れ組の下っ端みたいな格好はちょっと。病気の息子は役に立たないって金をくれないのか?」
中年火消しがギイチを見たので肩をすくめる。
同じ治安維持を担うというのに、兵官と火消しでは言葉遣いや雰囲気が大分異なる。よくよく考えたら、火消しとの個人的な会話はこれが初だとギイチは口を開いた。
「楽しみもないから軽い博打や花街遊びで浪費した。怒った父上が生活費を絞って、女なら用意したから花街に行くなと。本来、こんなロクデナシの息子には無理なお嬢さんを金で買うように奪ってきた」
「シンさんは照れ屋さんなんですよ。文句を言いつつ、これから着物を買ってくれるのです。私もシンさんも、身分はあるけどお金が無いので安いお店を知りたいです。ご存知ですか?」
それから魚屋や八百屋も知りたい、とマリは続ける。
嫁が来たなら使用人はもう要らないだろうと言われて、まだ結納なのに自分達は二人暮らし。引きこもりの婚約者と、引っ越してきたばかりの自分という組み合わせなので、どちらも街のことを全然知らない。
マリはそう告げて、火消しさんに助けて欲しいですと満面の笑顔。シンはそんな彼女の隣で「誰が照れ屋だ、このほら吹き女」と拳を握り締めた。しかし、暴言を吐いて、火消しに怪しまれるのは困るので耐える。
「この辺りのことならメ組に任せろ! お前ら、今日の仕事はこの二人に生活圏内の案内だ。三人で色々案内して、帰ってきたら報告書」
「はい!」
「しっかり案内します!」
「分かりました!」
「坊ちゃんとお嬢さんも帰りにメ組に寄って、こいつらがきちんと働いたか知らせてくれ。坊ちゃん、かわゆい嫁が来てくれたんだから健康第一だぞ。前髪くらい切れ」
瞬間、ギイチが拒む前に中年火消しの手が彼の前髪を上へ持ち上げた。
「さ、触……」
「鶏冠病じゃねぇか! お前の祖先は人殺しか。本人に罪はないのに龍神王様は時に残酷だ。幼少期に、小さいうちに焼いちまえばここまでにはならなかったのに、知らない医者か薬師に当たったんだな」
「俺の祖先は人殺し? そうなのか?」
「鶏冠病はそう言われている。目にこの量の髪の毛先が入ると炎症を起こすことがあるし、最悪失明するぞ」
応急措置、と言いながら火消しはあっという間にギイチの前髪を切った。予想外かつあまりにも速い動きにギイチは茫然。
「鶏冠病持ちなのに稀目持ちって、罰を与えられた人生なのか、加護のある人生なのか分からん。金持ちは使えない息子は捨てるように扱うっていうけどお前もそれだな。もう大丈夫だ」
鶏冠病や稀目という名称は初耳で、それにはこの国の信仰と結びつけた逸話があるようだと、ギイチは前髪を切られたことよりも、そのことに意識を持っていかれた。
ぼんやりしている間に、中年火消しの手でギイチに捻られた手拭いが巻かれた。今の髪型だと変だということで。
中年火消しは「お嫁さんが出来るようだし、俺らメ組も今後気にしてやるからな」と告げると、ギイチに「整師代」と言って、ギイチに一大銅貨を渡して去っていった。
あっという間に、無理矢理右手に握らされた一大銅貨を眺めてギイチは唖然。
「……」
「お嬢さんは最近引っ越してきたんですか?」と見習い火消しがマリに話しかけた。
「昨日、引っ越してきました」
「へぇ。借金返済でお金が無いなら嫁入り道具もあまりですか?」
「そうなのです。それなのに、ドジで二着しかない着物を泥々にしてしまいました。それでシンさんが買って下さると。そろそろ暑くなってきたそうなので、シンさんの着物も買いたいです」
「安い店ならこっちです」
稀に一人で歩いても何も起こらないのに、マリと歩くと珍事ばかり。子ども三人に囲まれて前を歩くマリの背後を歩きながら、確かに外出は情報の宝庫だなと通り過ぎる者達の視線を観察。
彼らは以前のようにギイチを見てギョッとした顔をするし、前髪で自ら周りの世界を隠していた時とは異なり、視界が広いからそれがよく見える。
ただ、なぜか以前よりは苦痛では無かった。
★
このままの服装だと、見回り火消しや兵官が二人を気にかけて声を掛けまくるだろう、ということで最初は古物屋へ。
「お嬢さんには似つかわしくない物しかないだろうけどここは安いぜ。それなのにわりとええ物がある」
「花姉ちゃん達が贔屓にしてる」
「女って売ったり買ったり忙しいよな」
花姉ちゃんとは何かとマリに質問させたら、メ組の火消しの娘達のことで、彼らの義理の姉達だった。彼らは「組」という単位で家族を形成しているから、同じ組に属する全ての未婚独身女性が花組。
ギイチは、火消し見習い三人を、こいつらはあっという間に敬語をやめて馴れ馴れしくなったなと少し離れた位置から観察継続。
彼らは外で待っていると言うので、ギイチは古物屋内でマリと二人きりになった。
店内に入るとマリは「どれもこれも安いです」と大はしゃぎ。
「シンさん、シンさん。こちらは兎柄ですよ」
昨夜といい、今朝といい、この女は兎好きかとギイチは右から左へ聞き流し。
「小型金貨一枚以内でおさめろ」
「……こ、小型金貨一枚⁈」
素っ頓狂な声を出したのは店員の一人で、ふくよかな中年女性。
「シンさん。古い仕立て済みの着物が一枚二大銅貨から売っています」
なお、ギイチが口にした予算はマリの耳には届いていない。
「……はぁああああ⁈」
一大銅貨が三枚集まると一銀貨。三十銀貨で一小型金貨だ。仕立て済みの単衣の着物は安くて三銀貨くらいなのに、とギイチはマリへ近寄った。
それでマリが眺めたり、少し触っていた着物のある棚の中で、最安値二大銅貨という紙が貼ってある棚を確認。
「安いけどシミだらけ……っていうかこれは男ものではないか」
「シンさんに似合うと思います。兎柄では可愛すぎますか? 結納の日にイノハの白兎に出会えたのですから、験担ぎになると思いまして」
マリが少しだけ手にしているのは五大銅貨、ほぼ新品と買いてある棚のもの。
「験担ぎ? どういう意味だ?」
「どんな理由でもせっかく夫婦になるのですから、お互いに良いことがありますように、仲良くいられますようにという意味です」
「……」
どこからか矢が降ってきて、ギイチの胸を強襲したというように、彼に衝撃が走った。昨日から数えて四度目の衝撃である。
マリがあまりにも可憐に、親しげな笑みを浮かべたので。ギイチは最悪だ、と心の中で嘆いて項垂れた。
「少々荒々しいシンさんには荒磯柄でしょうか。出世しますようにと言いますので、新作が売れますようにと願いを込めて」
「……」
「こちらは竹笹柄ですね。これからの人生が伸びていきますようにとは、これも縁起の良い着物です」
ギイチがマリに惚けている間に、マリは次々と着物を彼に合わせた。身なりは普通なのに珍しい上客疑惑だと近寄ってマリに話しかけた中年女性店員が、マリと大盛り上がり。
買い物はまだ終わらないのかと火消し見習い達が店内に入ってきて、ギイチに声を掛けたので、彼は我に返った。マリは最終的に、兎柄と浮雲柄と荒磯柄で迷っている。
「マリ。いっそ全部買え」
「シンさんがご自分のお金でご自分の物を買うのですから、そう致しましょうか。全て気に入られたのですね」
「お客様、お買い上げありがとうございます」
「俺は他人が着た物は嫌だから呉服屋に行くぞ。同じ柄の反物か仕立て済みの着物があるだろう」
「えっ? そんなぁ。お客さん、そう言わずに節約しなって」
ギイチはマリを連れて店を出て、火消し見習い達に「近くの平均的な呉服屋を教えろ。新品を買える所」と命令。
「新品でええんですか?」
「節約しないと」
「そうですよ」
「二人で着物を数枚、小型金貨一枚以内でおさめるんだから節約だ」
「……小型金貨一枚⁈」
先輩や自分達の予想とは異なる金持ちだぞ、とヒソヒソ話が始まった。
「かなり金持ちから下街世界へ没落気味。だから節約する。何が金持ちだ。話した通り、俺は療養中でろくに稼げないし、マリは金で自分を売ったようなものだ」
「俺らとは節約の基準が違います」
「それなりの店へ行くなら、俺らと別れた後にして下さい」
「メ組の支援は必要なさそうですね」
「帰りにメ組に来なくて良いと思います」
金持ちと知ったら敬語に戻るのか、とギイチは心の中で突っ込んだ。
見習い火消し達はギイチとマリを連れて街を案内。魚屋、八百屋、風呂屋、小屯所、病院、庶民を相手にしてくれる薬師所、日用品店、洗濯屋、安い料理屋などなどを案内されて、最後は呉服屋へ。
その間、ギイチはほとんど喋らずに、時折りマリに対して「これを質問しろ」と囁き声で命令したくらい。
「多分ここなら予算内で買えるはずです」
「困ったらメ組に来て下さい」
「マリさん、メ組に遊びに来てええですからね」
三人に手を振られたマリが「ありがとうございました」と上品な動きで手を振りかえす。お嬢様は片手で袖がまくれないようにするようだ。
カンカンカン、と時を告げる鐘の音が鳴り響く。
反射的に、ぐぅぅぅぅぅぅぅう、とギイチの腹が鳴った。
「大変です、シンさん。焼きおにぎりの時間です。帰りましょう」
「ああ、そういえばそうだったな」
早く早く、そのお腹の虫を放置したら体に悪いと言われて、ギイチは小走りのマリに着いていった。着物は? と思いつつ、彼女が後でどう慌てるか見たくて指摘せず。




