第九十六話【変わるということ】
どうやら私は、知らない場所に来たことに浮かれているらしい。
ユーゴにそんな気付きを与えられて、なんとなく気恥ずかしさを覚えてしまった。
女王だ。女王なのだ、私は。
それが……まるで子供のような呑気さではないだろうか。
ユーゴにもそう言われてしまったし、私自身もそれを未熟の証だと思ってしまっていた。
けれど、部屋から出た直後に、それは違うのだと思い知らされた。
「……楽しそうだね、ふたりとも。そういう顔してくれると、俺達としても戦ってた甲斐があったってもんだよ」
「はい、凄く……凄く楽しいです。凄く嬉しいです」
「心から感謝いたします、ジャンセンさん、マリアノさん」
「おふたりの……いえ。皆さんのおかげで、この景色があるのですよね」
賑わう市場を目にして。
人々の生活の音と匂いを感じて。
そして、彼らが皆、ジャンセンさんとマリアノさんに敬意を表しているのだと実感して。
私の中に、強い感情が芽生えたのが分かった。
そしてそれが、先ほどまでの未知の感覚に近いもの――けれど、理解出来るものだったから。
私の中にあったのは安堵だった。
知らない場所にも知っているものがある。
その事実が、私の浮足立った心をようやく落ち着けてくれた。
それこそが、私を納得させた要因だった。
「俺もこっちに来るのは久しぶりだからね。もうちょっと街の様子を見たら外に出るから、その間はしっかり楽しんでってよ」
「お言葉に甘えさせていただきます」
この場所も他の街と変わらないのだ。
魔獣に脅かされ、しかしそれに抗って生きる人々の力がある。
国からの保護などあっても無くても、人々は必死に生きようとしている。
それが分かったから……少しだけ申し訳無い気持ちも強くなったけれど、それ以上に希望が生まれたのだ。
この場所は、私が目指した結果をそのまま映してくれている。
「……こう出来るといいですね、全ての街を」
「恐怖を全て取り除けなくとも、明確な希望によって人々が前を向いて生きていける」
「これまでに訪れた街も、これから訪れる街も、全てがそうなると良いです」
ここではジャンセンさんが――彼らの活動が人々の希望になっているのだ。
それは、私が示そうとしたものとよく似ている。
ユーゴの活躍も、きっとこういう結果をもたらしてくれる。
いいや、きっとではない。これは確信だ。
彼ならば、彼とならば――
それからしばらく街を練り歩き、私達はそのまま街の外へと連れ出された。
私とユーゴと、ジャンセンさんとマリアノさんと、その配下の若者が五名。
危険な場所へ向かうのだと思えば、少し人数が心許ないような気もした。
けれど、ユーゴとマリアノさんの特別さが、それを可能にしているのだろうとも思った。
「それじゃ、こっからはちゃんと警戒してってね。特にユーゴ、お前の鼻には期待してるからな」
「ニオイで分かってるわけじゃない、犬か俺は」
似たようなもんだろ。と、ジャンセンさんが茶化すから、警戒心を高めろと言われたばかりなのに、ユーゴも他の皆も少しだけ気が緩んでしまっていた。
しかし、そんな中でもピリピリとした空気を纏ってくれるマリアのさんがいて、本当にこのふたりはちょうどいい具合に噛み合うのだなと感心する。
「……魔獣の気配は全く無い。ここが言ってたとこか」
「そ、ここから先には魔獣なんて存在しない。でも、それがなんでかが分からない」
「それを調査する……為に、ちょっとだけ準備をする。本格的な調査はまだ出来ない……って言うか、やろうにも、ね」
私達の活動にはまだ制限が付いている。
そんなものは無視して動き回っても……と、そうしたいのはやまやまだが、それで議会からの承認が得られず、組織の発足が流れてしまったらコトだ。
機嫌を窺っているようで良い気分ではないけれど、あまり議員たちの反感を買うような真似はしないでおこう。
「また木を切るのか? なんか小屋建てるんだったよな、ヨロクの林には」
「あっちはそうだな、なんにも無かったからそこからやる必要があった」
「でも、こっちにはもう多少の備えが出来てるからね。もうそんなことはしなくてもいい」
それに、そんな用事に姉さんを連れて来るわけにもいかないしね。と、ジャンセンさんはそう言って、そしてゆっくりと緊張感を身体に纏わせ始めた。
それまで緩んでいた若者達も、ユーゴも、それに私も。彼に釣られて少しだけ背筋を伸ばした。
「魔獣がいない……なら、それに越したことは無いんだ。下手なことはしたくない」
「でも、どこまでが安全なのかをしっかり調べる必要はある」
「今回は、魔獣がいない範囲を、より正確に調査する」
「お前と姉さんの感覚が頼りだ、しっかり頼むぜ」
「……俺が戦いたいが為に嘘ついたらどうするつもりだ?」
ユーゴの言葉に、ジャンセンさんは小さく笑った。
そんなことはしないと分かっている。その点については信用している。
そう言いたいのだろうか。それとも……
「……姉さんだけだとそういうことしそうだから、お前も連れて来てるんだよ」
「なんだよ、お前もかよ。なんだってふたり揃ってそう危険思考なんだ」
「戦うな、逃げろ。普通に考えたら危ないんだから」
お願いだから周りの安全を考えてくれ。
そんなジャンセンさんの言葉には、心の底からの祈りが込められている気がした。
そうか……マリアノさんも戦うのが楽しい、それが好ましいという性格なのか。
ユーゴのそれが本心ではないとまだどこかで信じてはいるが……そうか……
「うるせえ。殺せるときに殺しとかねえと、減るもんも減らねえだろ」
「それはそうだけど、順序ってものを考えて」
「まあ、そう言いながらも俺達がいる時には守ること優先してくれるって知ってるけどね」
「そこだけはマジで信頼してるから、変に裏切らないでよ? ムカつくこと言われたとかで暴れないでね⁈」
うるせえ。と、そう言うのが先か、それともジャンセンさんの背中を蹴飛ばすのが先か。
さっき引き締まったと思った空気は、また少しだけ緩んでしまった。
もしかしたらジャンセンさんは、こう振る舞うことで皆の精神状態を微調整しているのかもしれない。
「いってて……ほら、ちゃんと緊張して。お前ら、何笑ってんだ。気合い入れろ、気合い」
「なんもねえ前提で出発する以上、なんかある時には相応に非常事態になる。安全だからこそ注意深く振舞え」
「もし魔獣なんかと遭遇したら、それは姉さんですら手に負えないものの可能性が高いんだからな」
「ねえよ、ンなもん。魔獣程度に後れは取らねえ。叩き潰すぞ、このボケ」
マリアノさんですら対処出来ない魔獣という言葉には、少しだけ胸がざわついた。
それがそうそうあることではないと頭では分かっているが、しかし……
ヨロクの街を襲った魔獣の大群、そしてその中にいたタヌキのような魔獣。
あれにはユーゴもマリアノさんも揃って苦戦していたのだ。
つまり、非常時には彼らとて慌てる――本来の力を発揮しきれない、対処がどうしても後手になってしまう可能性がある。
彼が言いたいことがその件かどうかは別としても、私が緊張するには十分な言葉だった。
「フィリア。お前は無駄に固くならない方がいい。いざという時、足動かなくなるぞ」
「ユーゴ……心配してくださるのですね。ありがとうございます」
うるさい。と、ユーゴは相変わらずそっけない返事をする。
私はあまり緊張しない方がいい……とは、これまでの私の様子を見て、彼なりに助言をしてくれたのだろうか。
例えば……緊張状態にある私が、普段よりもずっとずっと状況判断能力が落ちてしまうところを見た……とか。
或いは、普段ののんびりした私が、彼にとっては最も守りやすい相手なのか。
なんにせよ、守って貰う立場にある以上は従おう。
彼の脚は引っ張らないようにしないと。
徒歩で街を出た私達は、そのまま林道へと入った。
ジャンセンさんが言っていた通り、ここはある程度整備されているらしい。
このまま真っ直ぐに抜ければ、海岸に着くのだったな。
そして、その間には魔獣の気配は一切無い……と。
「……気持ち悪いな、ここ。魔獣はいないけど……魔獣がいない理由になりそうなものも感じない。ヨロクの時には明確にヤバい空気があったのに」
「お前でもまだ分かんないか。ってなると……考えられるのはふたつ、か」
ひとつは、この海岸を北方と南方から挟むように脅威が存在して、それに阻まれる形で魔獣が侵入してこないというもの。
もうひとつは、海の中にその脅威が存在するというもの。
ジャンセンさんはそう言って指を二本立てた。
だが……後者については、私もマリアノさんも懐疑的な目を向けざるを得なかった。
「そんな顔しないの、姉さんもフィリアちゃんも」
「そうだね、まあなかなか……考えたくない話ではある。魔王は死んだ……って聞いてる。なら、魔獣の進化は止まってる……筈」
「だったら、水棲の魔獣なんてのは出てきちゃいけない」
「あれはまだそこには適応していない……筈、って」
「……そう……です。魔獣はまだ、水中には適応していない。少なくとも、これまでに遭遇した魔獣の全てが肺呼吸でした」
「泳ぐ能力についても、秀でたものは存在せず、海や川での被害も基本的には報告されていない。だから……」
魔獣は水の中には生きられない。
それが、現時点での私達の認識だ。
そしてそれは、間違っているものとは思わない。
魔獣とは獣が変異したものだ。
変異はマナの影響で――自然に存在する魔力の影響で起こっている。のならば……
「フィリアちゃんは魔術も齧ってるんだったよね。そこからの見識はどうなの?」
「俺達的には、とりあえず見たことないからいないもんだと思ってる……程度の話なんだけど」
「……その、証明は不可能ですので、納得していただけるかは分かりませんが……」
早い話が、水中の生物が食物連鎖の下部に位置するから……だろうと思われている。
これまでに確認されていない以上、発端が魚である可能性は低い。
ならば、やはり最初の魔獣は狼か熊かは分からないが、陸上にすむ獣だったのだろう。
「変異した獣を食って――或いは、その腐肉を食って。もしくは、そのフンを食って。他の獣、虫が変質したのだと思われます」
「それだけとは思いませんが、直接取り込むことが最大の原因と考えるべきでしょう」
「それで……魚は陸に上がって肉を食ったりしないから、中々その機会が無い……と」
「水辺に来る虫くらいは食べるだろうけど、確かにその循環の中では食われる可能性の方が高いか」
元は泳げたのであろうと思われる、カエルやトカゲに似た魔獣は確認されているから、きっとそれで間違いないと思う。
水の中にいれば安全なのではなくて、水の中にいては変質したものを食う機会がなかなか訪れないのだ、と。
変質し終えた魔虫では、かえって食われてしまいかねないのだし。
「なるほど……やっぱり専門的な知識ってのは重要だね。ものごとの認知がだいぶ変わってくる」
「そうなると……魔獣はあんまり食わない方が良いのかもね、人間も。いつか魔人間ってのも生まれちゃうかも」
「いえ、その……私も生態系について詳しいわけではないので、憶測でしかないのですが……すみません……」
でも、俺達はそういう考えすら持てなかった。
ジャンセンさんはそう言って、そして何やら真剣に考えこみ始める。
私の言葉を彼なりに解きほぐして、また新たな疑問や解を導くのだろう。
そんなやりとりがしばらく続いて、私達は林道を抜けてひらけた砂地へと出た。
このまま真っ直ぐで海岸に到着するだろう。
そう思わせる潮の匂いが、そこには既に満ちていた。




