第八十一話【傷を持つ者】
翌日の朝早く、私はまたユーゴの声で目を覚ました。
いつもより更に忙しなく、けれど慌てていたり焦っていたりするわけではない声色だった。
起きろ。いつまで寝てるんだ。早くしろ。
そればかりを繰り返す彼に、私は少しの安堵を覚えた。
「おはようございます、ユーゴ。すっかり元気になりましたね」
「ずっと元気だ、俺は」
昨日はあんなに塞ぎ込んでいたというのに、いつもの強がりも見栄っ張りも元通りだ。
部屋に招き入れた彼の顔には、もう怯えによる蒼白さや、焦りによる赤らみは見当たらない。
安堵も安堵、心の底から安心した。
昨日少しだけ話が出来て、立ち直りつつあるのだなとは分かっていたけれど。
それでも、あの様子は尋常ではなかったから。
「フィリア。先に一個確認したいことがある。どうせ暇だろ? ちょっと付き合って欲しい」
「どうして貴方は一度私を乏しめなければ話が出来ないのですか……もう……」
やることが無いわけではないのだけど。
しかし、彼が――彼から私に話があるというのは珍しい。
決して仕事を後回しにする言い訳が見つかったなどとは思っていないが、今日はユーゴの為に時間を使おう。
彼の心のケアは、何よりも重要な仕事のひとつなのだし。
「これから……アイツらと協力出来るって決まったけど、これからどうするつもりだ」
「もっと遠いとこへ行って、もっと強い魔獣と戦うのか」
「それとも、北に行ってまた別の組織ってやつと戦うのか」
「これから……ですか。そうですね……そればかりは、私の一存で決めるわけには……」
フィリアは何を優先したいと思ってる。
ユーゴはそう言って私の前に――まだベッドの上にいる私の足下に座り込んだ。
その目は凄くまっすぐで、気合が入っている……というよりも、やや険しいものに思えた。
「……私は……私は、最も近い道を――この国が救われる、大勢の民が護られる最も早い選択をしたいです」
「けれど、それには情報も足りていないし、きっと人も資金も資材も何もかもが足りていない」
「ならば、最も無駄の無い道を――実現可能な範囲の最短を目指したい」
まず、北の組織を解決する。
短気な考えかもしれないが、現状一番大きな問題はそこだ。
ならば、それをなんとかするのが至上命題。
ただ、その上で準備が必要ならば――北部以外の砦や街の解放が必要ならば、それを先に回すことも考えはする。
だが、最優先は北。
他の全ては、その一点を解決する為の足掛かりに過ぎない。
「ジャンセンさん達は既にその組織と接触している。それに、バスカーク伯爵もまた更に情報を仕入れてくれているかもしれない」
「ここのところの私達は、過去最も効率的に物ごとを進められています。この勢いは失いたくありません」
しかし……
その為に、ユーゴに負担を強いてしまうのは良くない。
彼に何かあれば、全ての計画が停止してしまう。
何もかもを彼ありきで考えているという意味ではなくて。
最重要局面において、彼の不在は考えられない。
魔獣も、その北の組織も、どちらも敵対し、交戦することとなるのなら、彼の力はどうやっても欠かせない。
ならば、そんな彼の不調は、他の全てを停止してでも取り除きにかからねばならない障害だ。
「……じゃあ、その為には何から手を付けるべきだと思ってるんだ?」
「ヨロクの北の林……その奥のヤバいやつ、調べに行くか。それとも……」
「……そこは……まだ、何も。候補を考えようにも、ジャンセンさん達から得る筈だった情報の大部分がまだ欠如していますから」
「そこを補ってから、何が最も危険かを考えるつもりです」
そっか。と、ユーゴはやっと眉間のしわを緩めてそう言った。
ジャンセンさんの名を出しても、彼は機嫌を損ねたり不安を感じたりはしていなさそうだった。
気を遣ってそこを誤魔化したら、きっと噛み付かれるだろうな、と。
そう考えて言葉を濁したりはしなかったが、どうやら私の取り越し苦労だったらしい。
「なら、行こう。さっさと行って話を付けて、北でも南でもなんでもいいから」
「それはいいのですけど……今朝はまた随分と急かしますね。その……無茶をしたりしてはいけませんよ」
お前がのんびりし過ぎなんだよ。なんてユーゴはちょっとだけむっとした顔でそう言ったが、しかし珍しく怒ってどこかへ行ってしまうことは無かった。
まだ、真面目な顔で――真っ直ぐな目で、私を見ていた。
「ムカつくんだよ、なんか」
「色んな敵があって、それぞれに注意しなきゃいけなくて、だからやりたいようにやれなくて振り回されて、って」
「イライラする。全部さっさと倒して終わりにしたい」
イライラする……か。
もしやなんて言葉は必要無い。間違いなく、昨日の一件を言っているのだろうな。
北で感じた脅威が三つ。
素性の知れない組織、林の奥にある何か、そして突如現れた巨大な魔獣の謎。
それらを解決する為にとカンビレッジまでやって来たのに、そこで盗賊の――ジャンセンさん達の問題が再発したように思えた――あの時はそう感じられた。
きっと、これからも同じようなことがあるだろう。
彼はそれを危惧してくれているのだ。
多くの問題に囲まれたままでは、また身動きが取れなくなってしまいかねない、と。
「そうですね。すぐにでも参りましょう」
「貴方がそれを望むなら――貴方の中にある何かを乗り越えようと考えているのなら、なおさら」
「そういうのじゃない、うるさい。いいから早く支度しろ、外で待ってるからな」
うるさいうるさいとユーゴは誤魔化すけれど、去り際のその目には強い決意が見えた。
大丈夫……と、また私は彼に勝手な期待をするしか出来ないけれど。
でも、今回の件はある意味では朗報だった。
もしもダメな場合は――彼が挫けてしまう時には、きちんと目で見て分かる形で音を上げてくれるのだな、と。
気付けないうちに心が蝕まれてしまって、取り返しのつかない事態になってしまうというのは少なそうだ。
そんなユーゴに急かされ、引っ張られ、私はまた街をこっそりと抜け出した。
もしかしたら、とっくにバレている上で放任されているのかもしれない。
とは、林に差し掛かった辺りでのユーゴの言。
呆れられて、諦められて、下手に逆らえないから見て見ぬフリをされているのだ、と。
少しばかり嫌な可能性に気付いてくれたものだ……
「……着きましたね。ユーゴ、大丈夫ですか。どこか痛んだり、苦しかったりは……」
「無い。いいから入るぞ」
そして到着した砦跡――彼らの拠点に、ユーゴはノックも挨拶も無しに乗り込んだ。
こ、こら。挨拶はしてください。
これからは協力していかなければならないのだから、礼儀はしっかりしなければ。
「――来たぞ――出て来い、ジャンセン。マリアノ」
「こら、ユーゴ。す、すみません。ごめんください」
絶対そっちの方がおかしい。と、ユーゴは渋い顔で私を睨むが、しかし他所のうちに上がり込むのに、挨拶も無しという方が……
……なんて、口論をしている暇は無かった。
声を聞いてからか、それともやはり見張りがいて私達の到着は知られていたのか。
理由はどちらでも良い。
ジャンセンさんとマリアノさんの姿がすぐに現れた。
「よっ。大丈夫……そうだな、ユーゴ。フィリアちゃんも、よく来たね」
「ありがとう。また――いんや。まだ、俺達を信じてくれる気になったんだね」
「当然です」
「私達はこれから共に戦っていく、その為に貴方達が確認しなければならないことがあった」
「昨日の一件は、ただそれだけのことですから」
寛大なご処置に感謝いたします。と、ジャンセンさんは真っ直ぐに私を見つめたままそう言って、そして深く深く頭を下げた。
マリアノさんは何も言わなかったけれど、それでももう攻撃的な姿勢は見せない。
ジャンセンさんより歳が上……とのことだったから、こうして穏やかにしている方が本来の性格なのかもしれない。
戦うに際して、自らを奮い立たせる為に凶暴な性格を造り上げていた……とまでは言わないけれど。
「それじゃ、昨日の部屋まで来て。立ち話に付き合わせていいお方じゃないのは心得てる」
「お客さんとしておもてなしすることは出来ないけど、それなりの作法は――」
顔を上げたジャンセンさんの姿は、どこか少し安心している様子だった。
ユーゴが普段と変わりないように見えるから、だろうか。
もしもそうならば、私も全く同じだ。
ジャンセンさんとマリアノさんを前にしても、ユーゴは取り乱したりしなかった。
だから、昨日の件からはもう立ち直ったのだな、と。
そう思って――油断――したのだ――
案内するからと向こうを振り返ったジャンセンさんの背中に、ユーゴは思い切り飛び掛かって突き飛ばした。
私は目の前で見ていたのに、それを止められなかった。
マリアノさんも、私達の中では一番警戒心が高かっただろうが、それでも反応が遅れて間に合わなかった。
ジャンセンさんはされるがままに押し倒されて、うつぶせのまま組み伏せられて硬い床に顔を打ち付けた。
「――クソガキテメエ――っ!」
「――待っ――て、姉さん――っ。大丈夫、俺は大丈夫だから」
片腕を取られて、ジャンセンさんは完全に身動きが取れなくなっていた。
まさか、ユーゴの中にはまだ強い恨みがあったとでもいうのか。
昨日、少し笑ってくれたと思っていたのに。
今朝もすっきりした顔をしていたのに。
まさか、こんな少年が、怨嗟を押し込めて振る舞ってまで果たしたい恨みがあったとでも――
「――俺はお前を信じない。お前らを信じない」
「でも、フィリアが協力するって言うから、仕方なく付き合ってやる。それだけだから、よく覚えとけ」
「――っ。いいね、上等。そうでなくちゃ」
「俺は罪人――盗賊で、そっちはお国のとっておきだ。手繋いで仲良くなんて、最初から出来っこないもんね」
ふん。と、ユーゴは凄く不機嫌な顔で――でも、恨みや憎しみとは違う感情を浮かべて、ジャンセンさんの背中から降りた。
ジャンセンさんも、そんな彼にどこか不敵な笑みを向けていた。
「でも、もうちょい優しくやれよな。ってて……あー、ったく。口の中切ったぞ、おい」
「じゃあ次は外も切れるように思いっ切り叩き付けてやる」
そうかい。と、ジャンセンさんはそう言ってまた私達に――ユーゴに背中を向けた。
預けた……のだろうか。
その真意は分からなかったけれど、このふたりは不信という形で互いの関係に決着を付けたようだ。




