第八十話【幼さ、強さ、恐れ】
馬車は少しだけ遠回りをして、役場や砦からは遠い場所から街へと入った。
そして宿のそばに停車して、そのまま大慌てで出発した。
去り際にジャンセンさんは言った。
自分達には協力の意思がある。それは何も、魔獣との戦いに限った話ではない。
ユーゴのこれからのこと――彼の抱えているなんらかの問題についても、と。
そして、自分がいれば落ち着くものも落ち着かないから。と、そう言い残して、ジャンセンさんは砦へと帰った。
大慌ても大慌て、まるで戦争のような騒がしさ、慌ただしさで部屋へと戻ってみれば、そこには私とユーゴのふたりだけが残されてしまった。
「……ユーゴ。大丈夫ですか」
返事は無かった。
或いは意識が無いのかもしれないとすら思った。
それほどひっ迫した様子だった。
ベッドに寝かされた彼は、すぐにシーツにくるまってしまって、もうその表情は窺えない。
強い拒絶を――私やジャンセンさんだけではなく、この世界の全てに対する強い拒絶を感じる。
先の一事は、この少年にとってそれほど大きな意味を持つ者だったのだ、と。そう突き付けられている気がした。
「……ユーゴ。どうか……どうか……っ。どうか、教えてください」
「私は……私は、貴方にどのような言葉をかければ良いのでしょうか」
「今の貴方が何に囚われているのかすらも分からない私は、どうすれば貴方の助けになれるでしょうか」
――返事は無かった。
あるわけも無かった。
それでも、私には何もしてあげられない。
彼が何を求めているのかも分からないから。
どうすれば彼を救えるのかを知らないから。
彼を……ユーゴを理解出来ていなかったから。
私には――
「――なんで――なんで――フィリアは――」
「――ユーゴ……?」
少しの静寂の後に、ユーゴはやっと声を発してくれた。
私の言葉への返事ではないが、しかしそれで構わない。
彼が何を伝えようとしてくれているのか、何と戦っているのか。
それを知る為――聞き逃さない為に、私は急いで彼のそばまで駆け寄った。
そして、まだ揺れるばかりのシーツの塊に耳を近付けて、彼の名前を出来る限り優しく、何度も呼びかけ続ける。
「――なんで――平気なんだよ――っ。アイツ――お前のこと――」
「ユーゴ……」
お前は裏切られたんだぞ。
消え入るような声だった。
けれど、はっきり――力強く、彼はその意味を口にした。
殺されるかもしれない。
そう思った時、その本性がどんなものであるかと疑われた。
あの場で取り囲まれ、脅しをかけられたことにではなく、そうしてまでこちらを試す意図に対して憤っているのだと、彼はそう言った。
「……平気ではありませんよ。私だって、深く傷付きました」
「ジャンセンさんが私達に剣を向けたことにも、そうしなければ人を信じられないほどに歪んでしまっていたことにも」
「それでも……それでも私は……」
ちょっと待って。と、ユーゴは私の言葉を遮った。
ここから先は聞きたくない……と、そう言いたいわけではないらしい。
ゆっくり……それはそれはゆっくりとだったが、彼はシーツの中から顔をのぞかせて、ゆっくりと身体を起こして私と正対する。
真っ青な顔で、肩を震わせて、それでも真っ直ぐにこちらを見ている。
「……強いですね、ユーゴは。私にも貴方ほどの強さがあったなら……或いは、同じように塞ぎ込んだのかもしれませんね」
「……違う。強くない。強くなんてなかったから……」
いいえ、貴方は強いのです。
心からそう思って、それを私は言葉にした。
ユーゴはそんな私に目を丸くして、そしてすぐにそっぽを向いてしまった。
そんなの知らない。と、何にどう反応していいのか分かっていないような言葉と共に、彼は自分の感情をひた隠しにしようとしているようだった。
「貴方は本当に強いのですよ、ユーゴ。私はなにも、それに耐えたわけではないのです」
「私は弱かったから、それから逃げ出しただけ」
「本当に強い人物とは、貴方のようにきちんと向き合ってあげられる人を言うのです」
「……向き合って……? でも、俺は……」
逃げてしまった……か。
彼はどうやらそんなふうに自分を思っているらしい。
なんとも、まあ。子供だから仕方が無いと、それで終わりにしてしまっても不自然ではないのだけれど。
でも、そうではないとしっかり教えてあげなければ。
「貴方のその反応は、逃避ではありませんよ」
「貴方は彼の感情を――ジャンセンさんの内にあった弱さを、真正面から受け止めようとした」
「あの出来事を、逃げずに乗り越えようとした」
「だから、貴方はそれだけ苦しんでいるのです」
逃げてしまえば楽になれるのに。
ユーゴはきっと、本当に不器用なのだ。
逃げることを知らない――或いは、それを許されない環境に育ってしまったのだろう。
そういう意味では、この世界の誰よりも強く、そして脆い。
どうしようもないのだからと諦めてしまう権利を、彼だけが持っていないのだから。
「……私は、逃げてしまったのです」
「彼に剣を向けられたことにも、彼がそこまで疑心に苛まれてしまっていたことにも、それが当たり前だろうという決めつけを当てはめて納得してしまった」
「仕方が無いから、と。本気で受け止めて、それに苦心する選択を初めから選べなかったのですよ」
だってそうだろう。
私にはその権利が初めから無かった――そんな傲慢な態度が許されるわけがなかったのだ。
ユーゴはそんな私の真意にはまだ気付いていないらしい。
彼をただの子供だと思うなら、こんな醜い話は伏せたまま進んでしまいたい。
けれど、彼はそうではない。
これから、共に国を――世界を、人々を救うのだ。
私は彼を対等に扱わなければならない。
でなければ、彼を知ることなど叶わない。
また、同じことが起こってしまいかねないのだから。
「――彼らは、一度国に捨てられているのです」
「そんな彼らに、どうして私が――国の長が、何故貴方達は憤っているのですかと問える筈が無いのです」
「だから――その傲慢を責められるのが怖かったから、私は諦めてしまった」
「けれど、貴方は違った。きちんと彼らに立ち向かった」
「私とユーゴの間には、それだけの隔たりがあるのです」
それだけ、ユーゴは強いのだ。
私がそう伝えれば、ユーゴはまたゆっくりとこちらを向いてくれた。
まだ顔色も悪いし、それに怯えた表情もしている。
それでも、彼はもう塞ぎ込んでしまってはいなかった。
「……本当に……本当にそれは強いってことなのか……? だって、結局俺は……」
「強いってのは、そういうの全部に負けない奴のことを言うんじゃないのか……?」
「……どう……なのでしょうか。その……そんな人物にはまだ出会ったことが無いので……」
自信の無い返答にまたそっぽを向かれそうになってしまって、私は慌てて言い訳を連ねた。
私がまだ弱いから、その地点の問題は分からないのだ、と。
私は今のユーゴの地点からも更に後ろにいるから、そこから見える強さと弱さの差については考えたことも――考えようとしたことも無いのだ、と。
「そこに気付けるだけで、貴方は私よりも強いのですよ」
「皆が諦めて無視してしまう問題に、本気で立ち向かうから強いのです」
「……立ち向かうだけじゃダメなんだよ……だって俺は……」
俺は……と、ユーゴは言葉をそこで切って、そして俯いてしまった。
以前より少し疑問があったのだが、彼の中には妙に強い責任感がある気がする。
それは、性格という意味ではない。
何かに背を押されているような――強迫観念のような責任感だ。
それは……やはり、彼の過去に起因するのだろうか。
私の知らない、別の世界の彼に。
「……私は、それが最大の強さだと思っています。いいえ、思ってしまいます」
「私は弱いので、それ以上は……怖いのです」
「……怖い……? 怖いって……?」
以前、貴方が言ったのですよ。と、そう言えば、彼は首を傾げて私をじっと見つめるばかりだった。
覚えていない……というよりも、それとは繋がらないのだろうな。
けれど、私の中では、その話とこの話は同種のものだと思っているから。だから……
「強い力を持っているから、それをむやみには使いたくない、と。きちんと敵を見定めて、正しく使いたいと、貴方は言ってくれました」
「そうでなければ、ただの怖い人になってしまうから、と」
「私は思うのです。どんな問題も、恐怖も、悩みも、憂いも、あらゆるものをも打ち倒して勝ち続ける人物は、きっとすごく怖い人だと思うのです」
ユーゴはじっと私を見つめたままだった。
私の言葉を上手く理解出来ない……のか、それとも理解した上で納得が出来ないのか。
それは……やはり、私にはまだ分からなかった。
「……でも、勝たなかったら意味が無い」
「怖いやつにはなりたくないって、確かに言った」
「だけど、怖いやつよりも弱いやつじゃもっと意味無い」
「みんなより――フィリアより、兵士より強い、怖いやつより強いやつになりたいんだ、俺は」
怖い人よりも、更に強い人、か。
私が思うに、今のユーゴはもうその地点に立っていると思うのです。
でも、彼はそれを認めたがらない。
その地点はまだ通過点で、もっともっと強い――大勢を護れる人になる余地があると、そう思っているらしい。
はあ。もうその時点で、彼がどれだけ強いかは明らかだろうに。
「……なれますよ。ユーゴなら、どんなに恐ろしいものより、怖い人より、更に強い人よりも更に更に強いところまで辿り着けます」
「だって、貴方にはその力も、心もありますから」
ユーゴはちょっとだけ笑ってくれた……気がした。
すぐにそっぽを向いてしまったから、そしてシーツにくるまってしまったから、はっきりと見たわけではなかったけど。
でも、彼は立ち直ってくれているらしい。
うるさい。と、それからは何度呼び掛けてもそれしか言ってくれなくなってしまった。
でも、もうその声は――肩は――心は、怯えて震えてはいなかった。




