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異世界天誓  作者: 赤井天狐
第一章【信じるものと裏切られたもの】
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第七十九話【その過去】



――少年が味わったのは地獄だった――


 その世界、その時代、その歳頃の少年にとって、それはあまりに苛烈な地獄だった。


 彼には味方がいなかった。

 蔑まれ、虐げられ、しかし誰からも守られることは無かった。

 護られるべくある尊厳が、いたずらに踏みにじられるばかりだった。


 少年ユーゴの暮らす世界とその世界とでは、危険や恐怖というものの性質が大きく違っていた。


 かたや、魔の獣により生命を脅かされる日々を送る世界。

 誰も彼もが今にも死にかねない、原始的で肉体的な恐怖の蔓延る場所。


 かたや、生きるになんの障害も無い国、町、家庭。

 決して裕福でなくとも、しかし飢えて死ぬような結末を思い描き難い場所。


 けれど――少年にとって、精神的な恐怖で満たされた場所。


 ヨコタユウゴという名の少年がいた。

 歳は十三の――それから二か月の時を待てば十四になる筈だった――まだ小柄な学徒だった。


 その世界においては、あまりにありふれた存在だった。

 当たり前に生きているべきものだった。


 少年には憂いがあった。

 その歳にふさわしい、子供らしい憂いだった。


 仲の良い友人がいた。

 意中の女生徒がいた。

 学問への不安があった。

 運動への苦手意識があった。


 そのどれもが、普遍的なものだった。


 少年には憂いがあった。

 その歳にふさわしくない――けれど、その歳頃の子供達にはありふれてしまっている憂いが。


 初めは勘違いだと思った。

 偶然、他の友人に目が行ったから、話しかけたのを無視されたように感じた。

 初めはそれだけだと思った。


 偶然が重なると、次第に少年の中には疑念が生まれるようになった。


 偶然、持ち物が失くなってしまった。

 偶然、それが三日続いてしまった。

 偶然――それが、学び舎のすぐそばの河川敷に捨てられているのを見付けてしまった。


 疑念は不信を呼び、少年の言動や行動――あらゆるものに影を落とす。

 すると、少年を取り巻く世界は彼にスポットライトを当てた。


 しかし、それは彼にとっていい気分のものではなかった。


 陰気な男。

 気に食わない男。

 場にふさわしくない男。


 自分達にとって、良い意味で都合の悪い男。

 悪い意味で、都合の良い男。


 少年を取り巻く環境は――世界は――学友だった筈の人々は、彼をそういう役者として舞台に上げた。


 きっかけは分からない。

 誰がどのような目的を持って行ったのかと、そんなふうに型にはめることは不可能だった。


 ほんの出来心――少しだけの不和、価値観のズレ、認知の差――やり取りの中の僅かな嚙み合わなさが発端となって、誰かが彼を虐げた。


 それが本心からのものかどうか、一時的な――いわゆる冗談と呼ばれるものだったのかなど関係無く、着いてしまった火は簡単には消えなかった。


 少年は虐げられるようになった。

 そうなるに至った理由など無い。

 あったとしても、その発端を誰もが覚えていない。


 ただ、そういう認知が生まれたのだ。


 彼は――この男は――これは、どう扱っても良いものだ――と。


 本人にも、それに周りの当事者にも原因が分からないまま、差別とも取れる関係性はどんどん進行していった。


 ある日には、彼は満足に昼食を摂ることも許されなかった。

 またある日には、学業の為の道具の全てを隠されてしまうこともあった。

 また――直接的な暴力によって害される日もあった。


 少年には縋るものが無かった。

 それだけの苦痛が伴う場所に、明るいものが一切無かった。


 故に、彼はそれを放棄した。

 部屋にこもり、その場所へ赴くことを拒否した。


 安全な場所があるのならば、そこで――と。


 けれど、世間は――社会は――彼の両親は――彼の両親を取り巻く環境は、それを許さなかった。


 皆が当然にやっていることをやる。

 それが、彼に下された命令だった。


 その歳の少年にとって、両親という存在からの言葉は命令に近しかった。

 それを拒むことが何を意味するのか、彼はもっと幼いころから知っていた。


 特別な生まれではなかった。

 あまり裕福とは言えない家庭だったが、しかし何をするにも不自由するほどではなかった。


 特別な両親ではなかった。

 勤勉であったわけではないが、しかし労働には勤しむ両親だった。


 優しさも、厳しさも、平凡なものだった。


 ただ――少しだけ、思う通りにならないことへの癇癪があった。


 少年は知っていた。

 彼らの期待を裏切れば――その言葉に逆らえば――それらを敵に回せば、もっともっと恐ろしい地獄が待っているのだと。


 彼にとっては家庭こそが唯一の寄る辺だ。

 それさえも失うくらいならば――と、少年は歯を食い縛ってでも部屋を出る必要があった。


 けれど、転機は訪れてしまった。


 少年は遂に晴れの舞台の上にあげられることとなった。

 彼にとって嬉しいものではない、疑いを向けられる場に。


 盗みが起こったという訴えがあった。

 それは、彼にとっては無関係なものだった。

 無関係な筈のものだった。


 顔も名前もおぼろな友人だったものが、持ち物を盗まれたのだと訴えた。

 無関係だった筈の彼に、それを盗られたのだ、と。


 彼はすぐに悟った。

 それは、自らを貶める為のものだ、と。


 しかし、彼には味方がいなかった。

 その処遇に苦しみ、来たり来なかったりを繰り返していたその学び舎の中には、彼は虐げられるべき存在であると、そこまでの空気が出来上がってしまっていた。


 友人だった筈の全てが敵になり、彼は裁かれるものであるという前提で舞台に上げられた。

 そして――彼はそれを受け入れざるを得なかった。


 一度は拒んだ。


 当然、身に覚えの無いことだ。

 自分ではない。関係無い。

 そう主張すれば、味方をする大人もある。


 けれど、それは関係無いのだ。


 舞台から降りれば、彼は裁きから逃れたものになる。

 そこに出来上がっていた環境――小さな社会は、そんな不埒な存在を許さなかった。


 幼さ故か、そこには容赦など無かった。


 食事の機会は一切与えられなかった。

 排泄の機会も自由ではなかった。

 行きに持っていた荷物をそのまま持って帰ることは一度として無かった。

 室内履きで帰宅することもあれば、裸足でそうすることもあった。


 そんな様子には流石の両親も気付いて、彼の口から事情を説明するようにと迫った。

 しかし……もう、遅かった。


 彼はそれを、責められているのだと感じた。

 故に、何も無いと嘘を付いた。


 この場所だけは――この安寧だけは――と、ただその一心で。


 両親は怯え切った我が子の姿に、ただごとならざる気配を感じた。

 感じなければならなかった。

 人の親として、それは当たり前の行動だった。


 しかし……結果としては、彼らの行動こそが全てだった。


 両親の訴えにより、学び舎は彼を取り巻く問題を認識――解決に乗り出した。

 その方法は、当該生徒への直接的な指導。


 だが、それにはなんの意味も無かった。


 問題は解決した。

 もう憂いは無い。

 怯える心配はもうどこにも無い。

 両親は本心からそう告げた。


 彼にとって、それはひとつの宣告だった。

 どちらの手によって断罪されるかを選べ――と。


 彼は分かっていた。

 変わらないのだと。

 昨日までの出来事が全て無かったことになどならないのだと。

 彼だけは分かっていた。


 彼が選んだのは、安寧の場所をひとつだけでも確保する道だった。


 訪れた地獄で目にしたものは、告げ口をした卑怯な罪人を、どんな刑に掛けようかと睨んでいる世界だった。


 彼にはもう――耐えに耐え続けたその幼い精神にはもう、それ以上の苦痛は許容出来なかった。


 安寧を求めた。

 心から安寧だけを求めた。

 逃げる場所を求めた。


 安全を――平和を、幸せを求めた。


 少年は必死だった。

 そこへ逃げ込むことが――ひきこもることが最優先だった。

 それが――少年にとっての唯一の生存戦略だった。


 けれど――


 彼の住む世界が――国が――社会が――家庭が――両親が――両親の描く当然が、それを許さなかった。


 もう問題は解決した。

 故に――当然、“それ”は学び舎へ赴くべきだ。

 彼を襲ったのは、そんな罪名の地獄だった。


 逃げる場所は無かった。

 部屋を出れば、苛烈な炎に焼かれた。

 炎から逃れれば、次は絶え間無い怨嗟に見舞われた。


 気付けば彼は、遠く――遠く遠く、幼少にも訪れたことの無いような場所に立っていた。


 美しい風景だと思った。

 自分の立っている場所からは、長く続く川のその果てが見えた。

 空と川の継ぎ目――日の沈む赤い色が少年の心を満たしていた。


 唯一責められない場所がここにあるのだと、少年はそう納得してしまった。

 それが深い川なのかどうかも知らず、彼は橋から身を乗り出した。

 その赤に少しでも近付けたなら――と。


――そして――目を覚ました少年を待っていたのは地獄だった――


 知らぬ景色――赤とは無縁の暗い部屋の奥底で、知らぬ匂いと知らぬ音を得て、そして彼は全てを自覚した。


――そこに倒れている五つの肉体は――たった今この生の為に果てたものだ――


 直観のようなものだった。

 被術者として、それだけの情報が彼の中に流れ込んできた。


 五つの命を糧にして、自分はまた生を受けてしまった。

 また――苛烈で不毛な地獄の中に生まれなおしてしまった――


 そう、勘違いをした。


 彼を迎えたのは優しい声色だった。


 艶やかな黒い髪を長く伸ばし、自らよりもいくらか背も高く、けれどまだどこか幼げな笑みを浮かべる女性。

 屍術師、フィリア=ネイ。

 少年にとって、その人物の温かな微笑みは、理解出来ないものだった。


 それでも――彼はそれを受け入れた。

 そうしなければ生きていけないのだと、そう刻み込まれていたから。




 少年は意識を失うことは無かった。

 けれど、そうなってしまえたらとは何度も懇願していた。


 神など知らず、縋る相手も知らず、けれど――こんな自分をも救ってくれる何かがどこかにはあるのだと、そう信じるしか出来なかった。


「――ユーゴ、しっかりしてください。もうすぐ到着しますから。ユーゴっ」


 彼を襲ったものは、腹痛ではなかった。

 彼を襲ったものは苦痛でもなかった。


 彼を襲ったものは、彼自身の過去。

 誰も知らぬ――この世界には存在せぬ、あまりに苦々しい記憶だった。

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