第七十七話【王の咆哮】
その光景は異常だった。
ひとりの男がいて、その人物がその周りにいる人々の指導者で。
ひとりだけがあからさまに熱を帯びていない表情を浮かべているのに、他は皆困惑に飲まれて冷静さを欠いている。
「――悪いけど、俺達は俺達のやり方しか出来ないからさ」
「だから、フィリアちゃんとは仲良く出来ない。ごめんね」
その言葉からは、嘘や謀のニオイは感じ取れなかった。
いいや、違う。
言葉だけではない――嘘だけでもない。
何も――ジャンセンさんからは何も感じ取れなかった。
「姉さんもごめんね、いきなりで。でもさ、こうしないと……」
「分かってる、言わなくていい。テメエのそういうとこを買ってんだ、オレも。振り回されるのには慣れてる」
私もユーゴも、そして私達に敵意を向ける誰も彼もがまだ混乱している最中、マリアノさんが真っ先に冷静さを取り戻した。
それを見てなのか、或いは順序が逆なのか。
どちらが先かは分からないが、マリアノさんが構えを低くして、ユーゴが私の前に半歩だけ踏み出して剣に手を掛ける。
そこには、初めて遭遇した時と同じ、冷たい緊張感が満ちていた。
「……お前……っ。ジャンセン、お前最初から……」
「最初から……ではあるね。でも、そうじゃない。というか、それじゃあお前に感付かれる」
「だから――たった今だ。たった今、俺はお前らを罠にかけることにしたんだ」
事前に部下を林に向かわせておいて、陣を敷かせて、そこへ私達を誘導した。
入念に練り上げられた作戦だった。
マリアノさんにも打ち明けず――気取られずに。
そして、他の誰にも気付かれないように準備をしたものだった。
けれど――それを決めたのはたった今だ、と。
ジャンセンさんは涼しい顔でそう言った。
「――ったく、お前がバケモン過ぎるのが悪いんだよ」
「姉さんのギラギラした感じは流石に俺でも分かる。でも、そうじゃない奴らでもお前は分かっちまう」
「酒場でちらっとだけ試しといて正解だったわ」
「お前、ちょっとした敵意にも――無差別な害意にも反応するんだもんな」
「苦労したぜ、こんだけ準備するのにも」
「――っ。だから……だから、あの時砦でマリアノにフィリアを襲わせたのか……っ」
「襲う真似させて、俺が反応出来るのか試して……」
ユーゴの声が震えているのが分かった。
怒り……だろう。当然、彼は怒っている。
たった今裏切られたのだ。だから、彼は怒っている。
けれどそれは……っ。
「……ジャンセンさん。どうしてですか。どうして……貴方はこんな真似を……」
「ん。やっぱり、フィリアちゃんってまあまあ間抜けだよね」
「さっきも言ったでしょ。俺達は俺達のやり方しか出来ないって」
「それはね、お国のやり方に合わせられないって話じゃない」
「俺達は俺達以外を信じてない。信じない」
「だから――いつまた裏切られるか分かんない国なんかに着くわけないでしょ」
ぎゅうと胸が苦しくなった。
喉が熱くなって、涙が出そうになった。
ああ――私も――っ。私もユーゴと同じだ。
裏切られたと感じて、身体がどんどん熱くなっていく。
怒りが――悲しみが、憤りが、憎しみが膨れ上がってしまう。
「……私は……いいえ。私も、ユーゴも、貴方を信じていました。貴方の実力を信頼して、貴方の人柄を信用して、そしてここまで付いて来ました」
「それは……そんな私達は……」
「そうだね。言葉にするまでもないだろうけど、単なるバカとしか言い表しようが無い」
その怒りは愛あればこそのものだから。
ユーゴはなんだかんだと言いながら、彼を信用しようとしてくれていたのですね。
信じてみようと、触れ合ってみようと思ってくれていた。
彼はまた、仲のいい相手を作れそうだと思ってくれていた。
子供らしく笑える場所がまた増えるものだと、期待して……
「……フィリア。絶対に動くな、なんかする気配を見せるな」
「俺がお前を担いで跳ぶ。マリアノ以外は雑魚だし、林から出れば銃も怖くない」
「――っ。ユーゴ……」
アイツら蹴飛ばして逃げるぞ。と、ユーゴは耳打ちして私の手を握った。
手には特別な冷たさも熱さも無かった。
彼はもう、これを受け入れたのか。
この状況を――裏切りを、悲しみを受け入れてしまったのか。
冷静に、魔獣と相対している時のような顔で、彼はもう突破口を探し出す目前まで迫っている。
「……で、だ。さっきも言ったけど、取引をしよう」
「俺達はフィリアちゃん達に何かしてあげられるわけじゃない。でも、そっちにはちょっとだけ譲歩して貰いたい」
「生かして帰してあげるから、命が対価ならそれなりの要求は飲んでくれるよね」
「っ。取引……いえ、一方的な要求、ですか」
「分かりました、聞かせてください。貴方が何を企んでこのようなことをしたのか――」
ぱちっ。と、ジャンセンさんは私の返答に指を鳴らした。
すると、また破裂音がして、私達のそばの木の幹が抉れた。
「ユーゴ。変なこと考えんなって」
「お前の強さは理解してるよ。姉さんからの情報も貰ってるし、直接目でも見てる」
「お前は基本的に、強いやつを相手にしないと強くならない」
「それはさ、目で見て分かる強さじゃなきゃダメなんだ。目で見て分かる危機じゃないと強くならない」
「そんで――今、現在のお前じゃ、この状況は脱せられない」
「――っ! 何言ってんだ。このくらい、いくらでも……」
ユーゴの言葉などには耳も貸さず、ジャンセンさんはまた指を鳴らした。
そしてそれはまた破裂音を招き入れて、木のくずを私達の頭上から降り注がせる。
彼の行動の全ては、ユーゴの目論見を咎めることにだけ注がれているらしい。
「――お前だけならな」
「でも、この場にはフィリアちゃんがいる。抱えて逃げたんじゃ後ろから撃たれ放題だ」
「そもそも、担ぎ上げる瞬間には穴だらけ」
「それに、そんなお荷物抱えたままじゃ、姉さん無視して逃げ切るのも無理でしょ」
だから、お前がフィリアちゃんを見捨てない限りは無理だよ。
ジャンセンさんの言葉が木の葉の擦れる音の間に消えて行って、そしてしばらくの静寂が訪れる。
私が……私がいなければ……
ユーゴだけならば、この場を脱せられる……なら……ならば……っ。
「――でも、それはお前には出来ない。お前にとって、それは何よりも忌むべき行動だ」
「女王様を見捨てるから、じゃない。大切な仲間を見捨てるから、でもない」
「お前はお前を肯定してくれる人間を――自分に都合の良い人間を他に知らないんだ」
「だから、そこの依存から抜け出せない。違うか」
「……っ。お前……何言ってんだよ。そんなんじゃない。俺は……俺は、別にフィリアを……」
ぱちん。と、また指が鳴らされて、今度はさっきよりも近い場所に――足下に着弾して土をまき散らした。
それを見て、ずっと握っていたユーゴの手が少しずつ冷たくなっていくのが分かった。
緊張して、恐怖して、怯えているのが手に取るように分かってしまった。
「俺達の要求はただひとつ。こっちには干渉しないで欲しい」
「こっちはこっち、もうお国の領土じゃない」
「だってそうでしょ。捨てたのはそっちが先。なら、文句なんて言われる筋合いも無い」
「簡単な道理だし、簡単なお願いでしょ」
ジャンセンさんはもうユーゴのことなど見ていなくて、私に要求というものをぶつけてきた。
なるほど、彼の言わんとすることは分かった。
不干渉、つまりは不可侵の条約を結びたいと。
いいや、そこまで大きな話ではないのかもしれない。
ただ、国の方針を変えて欲しいと言っているだけ。
まずは他の問題を優先して、盗賊団は最後に回そう、と。
そうすれば、弱り切っている今のアンスーリァでは、彼らになど気を回す余裕など無くなるだろうから。
「……盗賊行為を黙認しろ、と。貴方達の行為を正当化しろと、そうおっしゃるのですね」
「そこまで大層な話じゃない。ただ、黙って見てて、って言ってるだけ」
「フィリアちゃん、自分で言ったよね。俺達が魔獣を倒してくれてるから、街がある程度平和になってるって」
「それじゃ、なおさらだ。俺達の行為を黙認するメリットは大きいんじゃない?」
「どう、これって変な要求かな?」
ああ、困った。
また……また、マリアノさんに嫌な顔をされてしまうかもしれない。
ユーゴにもバカにされてしまうのだろう。
けれど、私の頭の中は全然違う問題でいっぱいだった。
ジャンセンさんの問いにも、要求にも、彼の思考にも言動にもそぐわない答えが、ついつい口から飛び出してしまうくらいには――
「――認められません――」
「我が国は――アンスーリァは、宮は――私は――」
「ジャンセンさん、貴方のその要求を容認出来ません――」
「――そう。じゃあ――残念――」
ぱちん。と、また指が鳴らされる。
けれど、それによって破裂音がするよりも前――いいや、違うだろう。
きっと、彼が合図をするよりも前だったのだ。
でなければ、それが間に合う筈も無かったから。
私はユーゴの腕を引いて、青い顔の彼を抱き締めて、そして――ジャンセンさんに向かって、思い切り大きな声で――音で、叫んでいた。
「――な……にそれ。フィリアちゃん、そりゃないよ。そんなの、子供の癇癪じゃ――」
「――それはこちらのセリフです――っ! そんなの――こんな話があってたまるものですか――っ!」
ようやく――ようやく、ユーゴに対等な友人が出来ると思ったのに――
あまりにも場違いで、あまりにも空気が読めていなくて、あまりにも――あまりにあまりなひどい言葉が私の口から飛び出した。
伯爵は結局、ユーゴを子供として見ている。
彼だけではない、私のことさえも。
彼にとって、ユーゴは腕白な少年に過ぎない。
彼にとって、伯爵は少し遠い大人に過ぎないのだ。
ギルマンやアッシュ――ヨロクへの遠征で仲良くなった彼らもまた、ユーゴを完全に対等とは扱えない。
だってそうだ。彼は私が連れてきた特別な人材で、そして、他の兵士全員を守って戦う特別な存在だ。
私は――私では、彼の友人にはなれなかった。
彼の心の内が分からなかった。
彼の安らぐものが分からなかった。
私には何も――彼の本心すらも、まだ掴めないでいるのだ。
そして……それをずっと気にしているのだ。
そんな私では――
「貴方達と共に――っ。同じ目的を持って、共に戦い、生活を近しくする」
「ユーゴにとって、これ以上無い機会だと思ったのです。それが……どうして、こんな……」
場は静まり返ってしまっていた。
当然だろう。
狂乱した女が、理解しがたいことばかりを口走っているのだ。
皆混乱するし、呆れるし、それに嘆きもする。
女王が――この国の王が、最も権威ある者が、よもや今わの際に、このような発言をするだなんて、と。
恨みもあったと言うのならば、その落胆はさぞ大きなものになろう。
それでも……私はその一事が重大だと思ったのだ。
「ここで貴方達を見捨てれば、次の機会がいつになるかも分かりません」
「いいえ、貴方のおっしゃる通りならば、ここで撃たれて死んでしまうのでしょう」
「きっとユーゴは生き残ってくださるでしょうが、しかし――っ」
「裏切られたという思いが残っては、彼はもう誰も信頼出来なくなってしまう」
ジャンセンさんがそうであるというのならば、ユーゴだってそうなってしまうのだろう。
彼は特別な力を持っている。
持ってはいるが、しかし心根は素直な少年でしかない。
ただの子供が、そんなにも大きな歪みを持ってしまったら……っ。
「――ちょい待って。フィリアちゃん、何言ってんの?」
「っ。分かっています。場にふさわしくない発言だとは――気の狂った、あまりに間の抜けた言葉だとは理解しています。それでも――」
違う。そうじゃない。
ジャンセンさんは少しだけ焦った声色でそう言った。
違う……とは。何が違うのか。
私が変だから、私の様子がおかしいから、彼は混乱しているのでは……
「――俺達を見捨てる――って、何よ。なんだよそれ」
「まだ――この期に及んで、まだ国は俺達を見下してるってのかよ――っ!」
「とっくに捨てといて――今更見捨てるも何も――」
「――? 確かに――確かに、この国は多くの街を――民を切り捨てたかもしれません」
「ですが……私はそれを是とはしません」
「ですので、私はその事実を認めません」
「多くの民を不幸の底へ叩き落したその政策を覆す」
「王たる私が成すべきことは、ただその一点のみだと考えています」
ジャンセンさんは私の言葉にまた黙ってしまった。
そうなるだろうなと、自分の中では大変納得してしまっている。
今の私の弁は、わがまま極まりない。
前王の政策は気に入らないから、それを覆す為に働いている。
事実ではあるが、しかしそんな品も意識も下劣な王がどこにいようか。
そうだ。そもそもとして、私は国民に刺されて死んだ前王のようになりたくなくて戦い始めたのだ。
「……それに、私は知っているのです」
「貴方達が戦う相手――北方に潜むもうひとつの組織について。その力量を、ほんの一端に過ぎずとも知っている」
「ならば、そんな場所で戦う民に、手を差し伸べぬわけにはいきません。だから……」
わがまま放題の自覚はある。
けれど、それを貫くのだとも決めたのだ。
誰もが疑うなら、私は信じる。
伯爵も、彼らも、ユーゴも。
その在り方を、力を疑うものが多いのならば、私はそれを信じて共に歩む。
そう決めたのだから、この結論に迷いは無い。
「――私は貴方と――ジャンセンさんと共になら、本当にこの国を救えると思っていました」
「ユーゴと共に歩んでくださる仲間が出来るのならば、絶対に――何ひとつとして疑うところなど無く、可能だと思っています」
「――っ」
誰も何も言わなかった。
ああ、これが遺言となってしまうのか。
しかし、振り返ってみれば前王と――父と同じ最期を迎えてしまった。
こうなることだけは避けたかったのに、やはり私には、常識や他の大切なものが欠如していたのだろう。
悔いはあるが、仕方が無いのかもしれない。
「……本気で――本気の本気で、それ言ってんの――?」
「そんな甘っちょろいこと、本気でずっと言ってたの……?」
「フィリアちゃん。最初に会った時からずっと、本当に――」
「……? あの……ジャンセンさん……?」
声のする方を見れば、何やら頭を抱えて天を仰いだジャンセンさんの姿があった。
最後の最後にまた大きく落胆させてしまったものだ……と、思った。
けれど、少しいつもと様子が違うのが分かった。
彼の周りにいる男達はまだ混乱したままだったが、しかしマリアノさんの顔には笑みが浮かんで見えた。
少女のものではない。どこか優しい、母親のような――保護者のようなものだった。
男の目には、どうしてか涙がにじんでいた。




