第六十九話【あまりにも弱いもの】
ジャンセンさんが私から目を背けることは無かった。
長い沈黙、考慮の間にも、ずっと私の眼を見て――或いは睨み付けているかのようにすら感じられるほど、ずっとずっと私と目を合わせ続けていた。
見定めようとしている。
私の――国の、アンスーリァの実態を見定めようとしている。
それが分かったから、私も彼から目を背けなかった。
「……はあ。参ったね、どうにも」
「こっちの気持ちはとっくに決まってたんだ。今更何がどうなっても……って話だよね」
「うん、分かった。一緒にやろう、フィリアちゃん。いんや、違う」
「助力をお願いします、フィリア女王陛下」
「――っ! はい、もちろんです」
そうしてしばらくの後に、ジャンセンさんの頬がほころんだ。
私に開いた右手を差し出して、手を取り合って共に戦おうと言ってくれたのだ。
当然、拒む理由も深読みする理由も無い。
私はすぐにその手を取って、目いっぱいの力でその協力に応じる。
絶対に損をしたと思わせない。
絶対に後悔させない。
絶対に、彼らにもう一度裏切られたという悲しみを与えない。
そんな念を、熱と共に送り付けるつもりで。
「姉さんもそれでいいよね」
「恨みも憎しみも忘れたわけじゃないけど、だからってそれに固執して目的を果たせないんじゃ意味が無い」
「ここは一時休戦、利用価値があるなら乗っかってみる。こういう言い方すれば、みんな納得するでしょ」
「……お前がそれでいいなら、オレ達は付いてくだけだ。いちいち許可なんて取んな、うっとおしい」
そう言わずにさ。と、ジャンセンさんは困った顔で笑って、そしてマリアノさんにも握手をするようにと促した。
もちろん、私が拒む理由は無い。
出来る限り笑って、彼女にも右手を差し出す。
マリアノさんはそれを見て、それはそれは凄く嫌な顔をしたけれど……舌打ちをしながらでも私の手を取ってくれた。
小さくてもごつごつと硬くなっている、努力と苦労の浮き彫りになった手だった。
「……で、だ。おい、ユーゴ。お前、なんて顔してんだよ」
「お前の力をアテにしてこの話を飲んだんだ。そのお前が、なんだってそんな死にそうな顔してるんだよ」
「……? ユーゴ?」
ジャンセンさんの言葉を受けてからユーゴの方へと目を向ければ、彼はまだ青い顔のまま私をじっと見つめていた。
どこか息も苦しそうに見える。
半開きになった口から必死に息を吸って、けれど上手に吐き出せないのか、時折小さく咽てしまうときがあって……
「ユーゴ、大丈夫ですかっ。どこか痛みますか? それとも、苦しいのですか?」
「まさか、病に罹ってしまったのでは……」
「あー、違う違う。フィリアちゃん、そうじゃないよ」
「うーん……そういう微妙にズレたとこ、見てて面白いけどちょっと不安になるな……」
なんにしても、ユーゴは大丈夫だよ。と、ジャンセンさんは私の肩を掴んでそう言った。
ええと……? ジャンセンさんが先にユーゴの異常について口にした筈だったが。
しかし、それがなんであるのかを彼は理解している……では、その言葉の真意は心配ではなくて……
「――ユーゴ。お前、いつまでビビってんだよ」
「いつまで後悔してんだ、いつまでそうやって塞ぎ込むつもりだ」
「ま、いくら力が強いって言っても子供は子供だ。あんま無茶言うつもりも無いけどよ」
「――っ。違――俺は――ビビッてなんか――」
ひゅう。きゅう。と、ユーゴの言葉の合間合間には、空気が漏れるような音が挟まっていた。
青かった顔は段々と赤くなって、その混乱の色は見る見るうちに濃くなってしまって……
「――ビビってんだろ、どう見ても」
「フィリアちゃんが殺されそうになって――てめえの目の前で大切なものが壊されそうになって、防げるつもりでいたのにそれが間に合わなくて」
「今にもちびりそうなほどビビってんじゃねえかよ」
「違う――っ! 俺は――俺――っ……」
ヒュ――と、風の音は一層高くなって、それを合図にユーゴはお腹を抑えてしゃがみ込んでしまった。
急いで駆け付けて背中を撫でると、小さく震えているのが分かった。
ジャンセンさんの言う通り、これは怯えている人間の反応だろう。しかし、何故。
「……私が殺されそうに……ユーゴ、それは違います」
「貴方の力は本物です。戦う力だけではなく、危険を感じ取る力こそが真に素晴らしいものなのです」
「先ほどマリアノさんが私に剣を向けるのを察知出来なかったのは、その力が本物だから。マリアノさんに殺意が無かったからこそ……」
彼だってそれは理解しただろう。
そこに明確な敵意が無いから――マリアノさんの攻撃的な姿勢が、ここまで来る間にもずっと感じられなかったから、と。
だから、彼女が本気で無かったことも、それ故に一歩出遅れてしまったことも。
彼ならばとっくに理解出来ているだろう。
それに、人が斃れるところを見るのはこれが初めてというわけでもない。
今までこんなに取り乱したりしなかったのに、どうして。
「……ま、いいけどね。その方が俺達としては安心だ」
「むしろ、それで平気な顔してる方が気味が悪い」
「後で裏切るとなった時にも、そういう明確な弱点が残っててくれる方がありがたいし」
「――ゲロ男――っ。げほっ……お前――」
げほげほとユーゴは上手く吐けなくなった空気を無理矢理押し出すように咳を繰り返して、そしてまだ赤いままの顔でジャンセンさんを睨み付けた。
大丈夫、彼にそんなつもりは無い。
裏切るなんてのは方便、ユーゴを奮い立たせる為に使った分かりやすい挑発だろう。
それをどれだけ伝えてもユーゴが落ち着くことは無くて、むしろどんどん呼吸が荒くなってしまっていた。
「おい、デカ女。今日はもう帰れ。明日また迎えに行く。それでいいだろ、ジャンセン。この調子じゃ仕事の話なんて出来やしねえ」
「うん、そうだね。任せたよ、姉さん」
「それじゃあね、フィリアちゃん。そいつ――ユーゴ、ちゃんと立ち直らせといてね」
「明日になってもその調子なら、さっきの約束は無かったことにさせて貰うから」
「いくらなんでも、そいつ抜きのアンスーリァには価値を感じない。またあの生意気なガキんちょに戻しといてね」
ジャンセンさんが合図をすると、マリアノさんは私もユーゴも纏めて担ぎ上げて、まるで荷物のように砦の外へと運び出されてしまった。
そして、歩いて帰れるよな。と、確認されたのでも心配されたのでもなさそうな言葉を残して、マリアノさんはすぐに砦の中へと戻ってしまう。
ガコン――と、重たい音と共にその扉が閉められると、私達は静かな林の中でふたりぼっちになってしまった。
「……ユーゴ、大丈夫ですか」
「帰りましょう。ここのところずっと苦労を掛けてしまっていましたから、疲れが溜まっていたのですね」
「体力はそれなりに回復させてあげられたでしょうが……やはり、心のケアまでは私では出来ていなかったのですね」
手を差し伸べても、ユーゴはこちらを向かなかった。
立ち上がりもせず、茫然と地面を眺めている。
まだかなり混乱している様子だ。
今の彼に掛けるべき言葉なんて、私には……
「……なんなんだよ……っ。なんで……っ」
「ユーゴ……」
ぼそぼそとユーゴは悔しさをこぼして、そしてゆっくりと立ち上がった。
それからはもう何も言ってくれず、すたすたと私の前を歩き始める。けれど……
その歩みは遅かった。凄く凄く重たい足取りだった。
鳥の羽ばたく音、風に木の葉が擦れる音にもいちいち過剰に反応して、とても怯えた様子なのは変わらなかった。
もしかしたら、ジャンセンさんの言う通りだったのだろうか。
自分の察知能力が破られた……ように感じてしまった。
だから、自分の感覚に不安を……いいや、もっと深い問題。疑心があるのだろう。
本当に自分の力は、自分の身を守れるのか――と。
行きよりもずっと時間をかけて宿へ戻ると、ユーゴは自分の部屋ではなく私の部屋へとやって来た。
けれど、私に何を言うでもなく、何をするでもなく、部屋の隅っこで寝転がって、小さく丸くなってしまった。
「……そんなところで寝ていては風邪を引いてしまいますよ。せめてベッドを使ってください」
「その……申し訳ありません。私では、貴方の悩みを推し量ることが出来ません。貴方の悩みを解決しても上げられないかもしれません。ですが……」
せめて、こうして身体の心配くらいはさせて欲しい。
煩わしい、うっとおしいと言われてしまうかもしれないと思ったから、私はそう前置きして彼に毛布を掛けた。
ユーゴはその毛布をぐるぐると身体に巻き付けて、また更に小さくなってしまった。
私の方など一度も見ることは無かった。
「……私は貴方を誰よりも……いいえ。何よりも信頼しています」
「貴方がいたからここまで来られた。貴方がいたから、こうしてやっと一歩前進することが叶いそうなのです」
「ですから……もしも貴方が自信を失くしている、自分の力に疑問を持ってしまっているのだとしたら……」
私が代わりに信じて差し上げます。と、その言葉は口にはしなかった。
それを言ってなんになるかも分からない。
ずっとずっと伝えてきたことだし、事実彼にはずっと頼って来た。
なら、今になってこれ以上の重荷を背負わせる真似は避けるべきだろう。
ユーゴの寝息が聞こえてきたから、私も布団に入って休むことにした。
仕事の音で起こしてもいけない。休める時にたくさん休んでおいて貰わなければ。それと……
彼の心を癒すものを探さなければ。
私はそんな決意を抱いて眠りに就いた。
きっと……きっと何かがある筈だ。
故郷の無いこの世界で、彼に安寧をもたらすものが。




