第五十七話【変貌】
それの出現に、役人達は皆縛り付けられてしまったように動けなくなった。
護衛の兵士達も、私も、誰も――誰もがそれに魅入られて、これから自らに降りかかる災厄を想像してしまったのだ。
「――こんなの――どうやって――」
これは――この魔獣は――この個体は――カンビレッジで見たものと酷似していて、少なくとも同種であることは分かった。
私を襲った絶望はふたつ。
この場にユーゴがいないこと。
そして――こんなものが南でも北でも確認されてしまったということ。
この国はもう――こんなものが当たり前に跋扈する地に――
「――っ! お逃げください! 陛下! 女王陛下!」
怒号が聞こえた。兵の声だ。
剣を抜き、盾を構え、私の前に躍り出たヨロクの駐屯兵の声だった。
けれど、私はそれに意義を見出せなかった。
逃げる――とて、どこへ逃げればいい。
どう逃げれば、どこまで逃げれば、どんな祈りを持って逃げればこれから脱せられる。
目の前の魔獣は、少なくとも見張りが気付いた時にはここに到着していた――とてつもなく速い化け物だ。
こんなものを相手に、いったいどうして――
「――? 皆、落ち着いてください。大きな声を出さないで」
いったいどうして――街の中央からこれの影を見失う道理があっただろうか。
どうしてユーゴが気付かないでいられただろうか。
答えは……分からない。
けれど、ひとつだけは分かった。
これは――この巨大な魔獣は、私達が想像したのとは違う理由でここにいる。それだけは確かだ。
「動く気配が無い――こちらに気付いていない……わけでもないのに。なら、攻撃の意思が今はまだ無い……?」
「どうして……かは分からない、けれど理由がある」
これは、私達を攻撃する為にここに来たんではない。
そして同時に、ユーゴが追い付けないほどの速さでここを襲ったわけでもない。
これは、何かから逃げて――ユーゴがこれを相手取る余裕も無くなるほどの別の脅威から逃げて、ここで安心しているのではないか――
「っ。避難を。皆、騒がず、焦らずに避難をお願いします」
「これはまだ、私達を襲うつもりがありません」
魔獣は間違いなくこちらを認識している。
私達が動けばしっかりと顔が付いてくるし、それに眼もこちらを向いている。
それが眼ではないという可能性も考えられるが、しかし考慮する必要は無い。
これは間違いなく、こちらを認識したうえで無視しているのだ。
私は役人達と共に、役場の裏側からゆっくりと逃げ出した。
けれど、相手はあれだけの巨体だから、どれだけ逃げれば安全という保証も無い。
だが――逃げ出せた。
それに追われることも無く、ゆっくりと。
「っ。誰か、付いて来てください。北へ――あれがやって来た方角へ向かいます」
「ユーゴが……恐らく現在ユーゴが交戦しているであろう脅威が、あの魔獣よりも危険な何かがこの街に迫っている筈」
微力でも救援に向かわなければ。
その為に戻って来たのだ、ここで立ち尽くしては意味が無い。
けれど、当然ながら周りの誰もがそれに賛同などしなかった。
私は女王で、失われてはならないものだからと。
言い争いにも似た説得はすぐに終わった。
いいや、終わらされた。
まるで大砲でも打ち上げたかのような轟音が響いて、私達の声がかき消されたのだ。
音の正体は……巨大な魔獣の叫び声だった。
「――っ! ここも安全ではありません、逃げましょう。陛下、どうかお考え直しください」
「貴女の推測が正しいのだとすれば、北にはこれ以上の化け物が存在することになる」
「そうなれば、私達が駆け付けたとて、何も変わりません。どうか、お逃げください」
「っ。ですが――」
また、魔獣は叫び声をあげた。
そして、もう無人になった役場を踏み潰し、先ほどまでの落ち着きなど嘘のように暴れ始めた。
暴れ始めてしまった。
「――女王陛下をお守りしろ――っ! 命に代えても守り抜け!」
「……っ。ユーゴ……」
祈ってしまう。
どうしても、ユーゴに祈ってしまう。
助けて。これを倒して。この街を守って。
そんな勝手な祈りをあの少年に向けてしまう。
それが間違っていたのではないか――と、そんな疑念など蹴飛ばして、恐怖は私にそう祈らせた。
魔獣は役場を踏み潰し、そしてまた近くの建物を薙ぎ払った。
幸いなのは、住民の避難が済んでいること――安全などとは呼び難くとも、魔獣の処理が終わった区画に逃げ込んで貰っていることか。
不幸なのは、これが本気で人々を殺すつもりならば、街の全てが簡単に踏み潰されてしまうことだ。
なのに……
「……また……また、この魔獣は……」
魔獣はまた暴れるのをやめてしまった。
そして、今度は明らかに怯えた様子を見せる。
取り乱し、うろついて、身を屈めてそれを見つめる。
さっきまで私達を見下ろしていた魔獣の顔は、とっくに北の方だけを睨み付けるようになっていた。
「やはり、北に何かが――」
ユーゴが戦っている相手がそこに――
私の言葉は、そこで搔き消された。
少なくとも、私自身の耳には届かなかった。
また、あの巨大な魔獣が叫んだのだ。
興奮して、威嚇して、絶望して、そして――きっと、恐怖のあまりに喚いたのだ。
「――ッ――オラァア――ッ!」
「――っ! フィリア――無事か――っ!」
魔獣は何かに思い切り脚を切り払われ、大きく体勢を崩す。
それからすぐに、命乞いの暇も無く身体が両断された。
木の幹よりも太い脚は大きくひしゃげていて、切り分けられた胴の断面はあまりにも滑らかだった。
「ユーゴ――っ! 信じて――必ず街を救ってくれると信じていまし――」
「フィリア――逃げろ――っ! まだいる――っ! もっとやばいのがいる!」
現れたのは――魔獣を倒してくれたのは、窮地を救ってくれたのは、やはりユーゴだった。
そして、そのすぐ隣にはあの少女の姿もあった。
なのに――っ。
私の安堵も、歓声も、皆の歓喜も。
全てを咎めたのもまた、そのふたりだった。
「――ガキ――ッ! よそ見してんじゃねえ――ッ!」
少女の怒号が飛ぶと、ユーゴはすぐに大きく跳び上がって“何か”を回避した。
するとすぐに、少女はその足下を大剣で殴り付け、しかし凄く悔しそうな顔を浮かべる。
「ク――ソがぁああ――ッ! なんなんだコイツはァ――ッ!」
「落ち着け! バカ! 来るぞ!」
来る――と、ユーゴはそう言って、そしてふたりは剣を構えて何かを睨み付ける。
ここからでは瓦礫が多過ぎてその姿は確認出来ない。
出来ない――が、それが異常なことだけはよく分かった。
少なくともそれは、あの巨大な魔獣よりも、ユーゴ達よりも――瓦礫に遮られながらも視認出来る全てのものよりも“小さい”のだ。
「クソ――クソ――クソがぁあ――ッ!」
「落ち着けって! くっ……ああもう、うざいんだよ!」
そして遂にそれの姿を眼にした時、私はおかしな夢でも見ているのではないかと錯覚してしまった。
ふたりが苦戦している相手――あの巨大な魔獣が恐れていたであろう相手は、ユーゴの背丈の半分にも満たない、ちいさなちいさなタヌキのような魔獣だった。
「お、落ち着いてください! ふたりとも!」
「それだけ小さな相手ならば、貴方達にとってそう脅威になるものでもないのでしょう!」
「一度冷静に――焦らずに対処すれば――」
「――引っ込んでろデカ女――ッ!」
「これがンなヌりぃモンに見えてんなら、テメエはさっさとここから消え失せろ!」
ひっ。
落ち着いてと声を掛けただけなのに、凄く凄く怒鳴られて睨まれてしまった。
やはりあの少女にはかなり嫌われているらしい。
それと、どうにも私は間の悪いことを言ってしまう傾向にあるようだ。だが……
それは本心からの言葉だった。
相手はどう見ても無害な……魔獣なのだから害はあるのだが、しかし驚異的な存在には見えない。
ならば、焦らずに対処すれば問題無いだろう。
ふたりの力は、あの巨大な魔獣を簡単に退治してしまえるほどだ。
害獣駆除のつもりで身構えずにことに当たれば、なんの障害も無く成せる筈で――
「――そ――そんなことが――っ!?」
私はすぐに己の無知を恥じた。
タヌキは……いいや、魔獣はくるりと丸くなり、そして目にも止まらぬ速さでユーゴに向けて突進を繰り出したのだ。
それがまた――どうしたことか、まるで砲弾のような音と威力を伴っていて……
「っ! くっそ……そっち行ったぞ! 気を付けろ!」
「ァア!? 誰に言ってんだクソガキテメエ!」
瓦礫の山を吹き飛ばしながら、それは何度も何度もふたりを襲った。
こ、こんなことがあっていいのだろうか。
どちらかといえば可愛らしい見た目の魔獣が、あの巨大な魔獣よりも更に甚大な被害をもたらしている。
それに、ユーゴと大剣の少女をも翻弄しているではないか。
「――ッ! しま――ッ‼︎ グ――げほ――」
「っ! くそ――っ! フィリア! 早く逃げろ! ぼさっとすんな! バカ!」
私達の混乱も覚めぬうちに、魔獣は少女の腹部を捕らえた――捕えかけた。
私では見ることも不可能なその弾速を、少女はなんらかの方法で見切って剣で防御していた。
けれど、それでもその勢いは凄まじく、防御もろとも吹き飛ばされて、地面に背中から叩き付けられてしまった。
「こんな……こんなことが……っ」
「皆、避難を。ここにいては巻き込まれます」
「それに、ユーゴの迷惑にもなってしまいかねません。早く避難を」
もしや、ユーゴの消耗はそんなにも激しいのだろうか。
一度はそう思った。
けれど、すぐに考えを改める。
この魔獣の攻撃は、とても他のものとは比べ物にならない。
獣のそれではない。本当に兵器のような動きと威力で――――
「――フィリア――ッッ‼︎」
「――え――」
早く避難を――
そう言って私達はその場から離れようとした。
その為にその光景から目を切ってしまっていた。
ユーゴの声が聞こえるのが先か、それとも私のすぐ隣の役人が吹き飛ばされるのが先か。
少なくとも、すぐにそれは理解出来た。
魔獣は標的をユーゴとあの少女だけに絞っていない。
逃げ始めた弱い生き物から仕留めていく方針を固めたのだ。
「――ユーゴ――」
撃ち抜かれた役人はもう動かなかった。
馬車に撥ね飛ばされたかのように遠くにまで転がされて、手足を投げ出したまま全く動かなくなってしまった。
そして――そのすぐ横で、魔獣はまた身体を丸くして、今度は私に照準を定め――
「――――フィリア――――ぁあ――――ッ‼︎」
私では避けられない。
諦めと同時に覚悟が決まって、私は歯を食いしばって身を屈めた。
致命傷を避けられれば――と、運に身を任せて、僅かな生存の可能性を模索しようとした。
けれど、それは無意味だった。
「――ユーゴ……? 貴方……これは……いったい……」
魔獣が放たれた音がした。
砲撃のような音だった。
けれど、その衝撃は私の身には届かない。
顔を上げた私の目の前にはユーゴの背中があって、そして大きく抉れた地面があった。
血の跡と、そして粉々になった瓦礫の積もる、大きな穴がそこにはあった。




