第五百四十話【たとえすべてを失っても】
「――出て来るぞ――っ! 防御陣形! 急げ!」
地響きみたいな号令が響く。それは、林の中から魔獣の群れが飛び出してくる警告だった。
ここにはもう特別隊もユーザントリア友軍も無い。だけど、アンスーリァにはアンスーリァの力が……国軍が存在する。
号令をきっかけに軍の部隊は陣形を変えて、これから現れる脅威に対処しようとしている。相対し、耐え、押し留めて、討つ為に。
――でも――
「――っ!? ひ――怯むな――っ! 全員で抑え込め――っ!」
それが姿を現した途端に、勇猛な言葉はすぐに引っ込んでしまった。当たり前だ。だって、それは自分達よりずっとずっと大きいんだ。
自分よりもずっと大きいものが、自分達よりもずっと勢い良く、大量に現れる。奮い立たせた心はそれだけであっさり踏みにじられる。
――でも――
「下がるな――っ! 絶対に下がるな! 全員で盾を構えろ! 列さえ乱れなければ、絶対に食い止められる! 下がるな!」
命令は、指示は、お願いは、次第に悲鳴みたいになっていった。全員の中に恐怖があって、全員の中に逃げ出したいって気持ちが植え付けられている。それは指揮官だって同じだから。
ひとりが少しだけ後退りすると、陣形は一瞬の間に瓦解した。だってそうだ。列さえ乱れなければ……なんて、自分達で言ったんだから。ちょっとでも乱れたらダメだって自分で決めちゃったら、完璧になんて出来るわけない。
――でも――
「――ひ――っ。来る……来る――来るぞ――っ」
悲鳴みたいな声は、本当の悲鳴に変わってしまった。みんな思い知っているから。魔獣の強さを、恐ろしさを。
――でも――
「――盾だけ構えといて。ゴミくらいは飛んでくと思うから」
声は誰にも届かなかった……かもしれない。悲鳴は更に大きくなって、それさえかき消すくらいの咆哮が聞こえた。魔獣が遂に突っ込んできたんだ。もうよれよれになった、頼りない陣形に向かって。
――でも――大丈夫。だって、俺がいるから――
「――ドラーフ・ヴォルテガ――」
想像する。雷を纏って暴れる勇者の姿を。それは真似出来ないけど、同じくらいの勇気は手に出来る。
だって、俺にはそういう力がある――
「――はぁああ――っ!」
盾も構えられないくらい怯えた部隊を跳び越えて、魔獣の群れを下に見て、俺は思い切り剣を振るった。イメージは……目の前の全部を薙ぎ払う大きな刃。
「――――っ! お……おお……おおおっ! やった……やった! あんなにいた魔獣が全部――全部倒されてる!」
俺の想像はそのまま創造になって、見えない大きな剣で全部を撫で切った。そうしたら……困ったことに、歓声と拍手が聞こえてきたんだ。本当は魔獣と戦わなくちゃいけない軍隊から。
「……はあ。おーい、爺さん。ランディッチの爺さん。見て貰った通りだから。色々任せて大変なのは分かってるけど、こっちも面倒見て欲しい。国軍についてはふたりより爺さんの方が詳しいだろ」
それがどうしようもなく頼りなくて、あんまり見せちゃいけないって分かっててもため息が出た。そして……同行して貰ったその人に声を掛けたんだ。
「はい。しかとこの目で確かめさせていただきました。残念なことに、私の離れた間にずいぶんと弱ってしまったのですね、アンスーリァ国軍は」
ランディッチ=リトー。前までのアンスーリァで、南の方の街……オクソフォンを治めてた、王宮と関係のある市長。俺はこの人に、ひとつを任せることにした。
「まあ……あんだけデカいの相手だと怖いのも分かるけどな。でも、しばらくはこういうのもまだ出ると思うから。少なくとも、ランデルは守れるようにしないと」
「お任せください、ユーゴ殿。南には優秀な軍隊があります。そちらの指導官を連れて参りましょう。まずは気構えのところから鍛え直し、組み立て直さなければ」
ランディッチの言葉に、部隊はどこか動揺して見えた。なんて言うか……うん。ここにいるのは割と安全な街の警護を担当してたやつばっかりだから。ギルマン達みたいにはいかないんだろうな。
「それじゃ、俺は次のとこ行くから。後は任せた」
「次……ですか。はい、承りました。どうか、彼女にもよろしくお伝えください」
彼女……って。どっちが先とは伝えてないのに、よく分かったな。
微妙におっかない爺さんと別れて、俺はまた次の目的地に……約束の場所に向かった。
ランデル郊外の林からしばらく歩いて、到着したのは慰霊碑の前だった。そこには女の人がひとり待っていた。
「あらぁ。呼んでおいて待たせるなんて、可愛くない坊やねぇ。そういうところ、あのお姫様に似たのかしらぁ?」
「……ごめんなさい」
そんなに遅れたつもりもなかったけど……なんとなく、こいつには逆らいにくいんだよな。じゃなくって。
イリーナ=トリッドグラヴ。ランディッチと同じ、かつてのアンスーリァで南の街を……サンプテムを“造った”市長。俺はこの人に、ひとつを任せることにした。
「……それで、呼び出した要件は何かしらぁ? もしかして、前の話はやっぱり無しにしてくれ……なんて、泣き付きに来たのかしら。そうだとするとぉ……残念ながら、それは難しいわねぇ」
「違うよ、そんなんじゃない。頼んだ通り、アンタにはやって貰いたいことがある。今日はそれとは関係無い、別の用事で呼んだんだ」
別の用事? と、イリーナは首を傾げて俺を睨んだ。ちょっとだけ……ううん。きっと、かなり。かなり……怒ってるみたいだった。
「それは……この場所に関係すること……なのかしらぁ。それとも、それは無関係なのかしら。返答次第では……」
「無関係だ。ここは関係無い。アイツは……マリアノは関係無い」
ここは……この慰霊碑は、みんなが眠ってる場所だ。でも、今回はそれも関係無い。
「感傷に浸る為に呼んだんじゃない。頼みがある。アンタにはもう頼みごといっぱいしてるけど……その上からもう一個。学校を……勉強を教えられる人間を育てて欲しい」
「……教鞭を取れ……ううん、ちがぁう。教鞭を取る人間を育てる教師になれ……ねぇ。それはぁ……私を落ちこぼれの魔術師と知っての頼み……ってことで良いのかしらぁ」
落ちこぼれ……か。イリーナのその言葉には、どうしようもないくらいの自信が宿ってる気がした。
「魔術師として落ちこぼれでも、それ以外が優秀だからあんな街に出来た……って、自慢してただろ。なら、それをもう一回……この大きいアンスーリァでもやって欲しい」
「……ふぅん。貴方はお姫様よりずっと賢くて、人を使うのが上手ねぇ」
それは……あんまり言わないでやって欲しい。結構傷付いてたし、気にしてたから。
イリーナはひとしきり俺のことを睨んで、ニタニタ笑って、気分良くバカにして……したら、小さくため息をついて頷いてくれた。しょうがないわねぇ。なんて、どこか嬉しそうな顔で。
「……ところで……なのだけどぉ。貴方……泣かないのねぇ」
「……? 泣かないよ。泣くわけないだろ」
俺がそう答えると、イリーナは呆れた顔をして……そして、そっぽを向いてしまった。
「……貴方が泣かないと、私は泣くに泣けないのだけれどぉ……っ。そういう気の利かないところ、お姫様にそっくりねぇ」
「……泣かないよ。だから……俺がいないとこで、代わりに泣いてやって欲しい」
キザねぇ。と、イリーナは震えた声でそう答えると、ふたつある花束の内のひとつを慰霊碑に供えた。そして……何も言わずにどこかへ歩き出した。もうひとつを供える為に……だろうな。
別れの挨拶も出来なかったけど、とりあえず俺はまた次の約束場所に向かった。それは……ランデルで一番大きい建物。かつて、王様が棲んでいた場所。俺がずっとお世話になってた、王宮に。
「――ごめん、待たせた」
イリーナみたいにぐちぐち言うやつじゃないのは分かってるけど、さっき言われたばっかりだからつい先に謝罪が口から飛び出した。そんな俺を、三人が出迎えてくれる。
「……前の話の通りに、ここは任せる。それとは別にお願いがあるんだ。パールにも、リリィにも。そして、ヴェロウにも」
パール=クー。その妹のリリィ=クー。かつて、女王に仕えたふたりの秘書。そして、ヴェロウ=カーンアッシュ。アンスーリァの中にカストル・アポリアなんて国を建てた、多分一番頼りにして良いやつ。
俺はそんな三人に……いや、ちゃんとは違う。ヴェロウに、ひとつを任せることにした。そして、パールとリリィにはその補佐をして欲しいと頼んだんだ。
「――イリーナには法を作って貰う。ランディッチにはその法を犯すやつを裁いて貰う。そして……ヴェロウには、法に則って国を……政治を進めて貰う。パールとリリィにはその補佐をして貰いたい。ここは変わんないんだけどさ、追加で頼みがあるんだ」
ランディッチに。イリーナに。そして、ヴェロウに。いつか、随分とお世話になったこの三人に、最初を任せたいと思った。任せないと……誰かが引っ張らないといけないとなったら、この三人じゃないと納得させられないと思ったんだ。
「……権力の分立。確かに、国家の理想の形ではあるのかもしれません。ですが、本当によろしいのでしょうか。その……」
追加で頼みがある……って言ってるのに、その前の段階でヴェロウは少しだけ申し訳無さそうな顔をした。そんな顔するんだな……って、ちょっと思った。
「……私はカストル・アポリアを造った。それは……アンスーリァを見限り、離脱し、泥を掛けたのと同義だとも思うのです。いえ……私自身、そういった節がありました。そんな私が……」
「別に良いだろ、それは。そんなこと言ったら……議会にいたやつとか、他の貴族とか、悪い言い方すれば、今まで散々王様に逆らってたやつばっかだぞ。そういう役目だったとは言えさ」
アンスーリァ王国は崩壊した。そして……今、この島には新しい国が求められている。だから、それを任せられる相手が欲しかった。
「――アンスーリァ共和国――。アイツが――フィリアが願ったのは、王様による統治じゃなかった。アイツはカストル・アポリアを見て、本気で民主主義を目指そうって考えてた。それは……その意志は、ヴェロウにじゃないと任せられない。そこはもう黙って頼まれて欲しい。そして……もう一個の頼みも聞いて欲しい」
なんか……めっちゃわがままなこと言ってる気がした。でも……それが通る気もしてる。だって、俺は……俺だけは……
「――俺を英雄にしてくれ、ヴェロウ――。俺はこれから、あちこち行って魔獣倒して、みんなを救うから。そしたら、わざとらしくても良いから、めちゃめちゃに宣伝してくれ。それが、俺とフィリアからの頼みだ」
「……貴方と……フィリア王……からの、ですか」
俺だけは、特別じゃないといけないから。特別を望まれて、特別を与えられて、特別に生き残ったのだから。
「俺は希望を与える存在じゃないといけない。俺は、主人公にならないといけない。俺がいるから……って、みんなが頑張れる。そんな世界に、国にしないといけないんだ。その為には……国の、ヴェロウの力が必要になる。だから、頼む」
この約束だけは、絶対に果たさないといけないから。ただのひとりも守れなかった俺は、そのたったひとつだけは守り通さないと筋が通らない。
「……よろしいのですか。その先には……貴方の活躍の先には、貴方の栄誉と……かつてあった王国への恥辱が待っているのかもしれませんよ」
「良い。なんだって良い。形なんて、アイツは絶対に気にしなかった」
ヴェロウは俺の言葉に口を閉じて……そして、しばらくした後に小さく頷いた。苦々しい顔で、重苦しい感情むき出しのまま。
「じゃあ、次のとこ行くから」
「……? まだ、どこかへ行かれるのですか? 口ぶりから、ランディッチ殿とイリーナ殿にはもう会われたのでしょう。では、どちらへ……」
どこもクソも……行くとこはひとつしか無いんだけどな。でも、それを言うと……ちょっと、なんか……笑われそうだから、俺は黙って宮を飛び出した。最後の約束場所に……違う。最後に約束をする場所に。
「……フィリア。もう、しばらくは来れないから」
そこには花束が置いてあった。さっきイリーナが持ってたやつだ。多分、俺がここに来ることはバレてて、さっさと退散してくれた……んだろう。ちょっと……うん。ちょっとだけ恥ずかしいな。
「……約束、果たすから。今度こそ、絶対に」
守れなかった。守らなくちゃいけないのに、守ってあげられなかった。むしろ、最期には守られてしまった。
俺は折れない。俺は挫けない。俺はもう塞ぎ込まない。だって、そうしないとお前はジャンセンに向ける顔が無いんだろ。じゃあ、俺は前向いてちゃんとしてる。それだけ伝えて、さっさとその場所から立ち去った。なんか……ちょっとだけ、泣きそうだったから。
次にはもう約束の場所は無い。あ……いや。一個だけ、あるはある。でも、ちょっと遠い。だから……
北へ向かおう。そう決めて、俺は歩き始めた。もう送ってってくれる仲間もいないから、全部ひとりでやらないと。大丈夫。そういう話、アギトとミラから聞いてる。多分、俺にもやれるから。




