第五百三十九話【崩壊】
女王フィリア=ネイの死によって、アンスーリァ王政は終焉を迎えた。
ひとりの少年が王の亡骸を持ち帰ったその時から、何もかもが崩壊し始めたのだ。
主権はどこにも存在せず、それまで機能し続けた王宮の政治機関はもれなく機能不全を起こした。
そして、女王の死から十四日と言う時間を経て、王宮は権利を放棄し、政権は一時的に議会へと委ねられた。
それからわずか四日後。ある組織、部隊への処遇が決定される。それは、女王の立ち上げた私有隊……特別隊と呼ばれる軍事組織の解体。及び、ユーザントリア友軍の国外退去だった。
議会は、議員は、貴族は、それらを是としていなかった。
かつて暴走した王によって定められた無法の軍隊と、その後に召致された外国の軍事部隊とは、すべて王ひとりの管理下にあったものだった。
長く、議会はその存在を良しとしなかった。アンスーリァには国に属する正式な軍隊が存在し、新たに組み上げられたふたつの組織は、その機能を著しく阻害する存在として認識されていたのだ。
かつて、女王は軍を用いて幾度も作戦を展開しながら、その出兵に制限が掛かると、新たに部隊を募ってその役割を分担した。
分担と言う言葉は優しいものではあったが、それは国軍機能の実質的な廃棄に近いものだった。
王の承認無しには国の機関は動かない。動かせない。けれど、王の承認だけでも動かせない。王と議会、それぞれが同意の上でやっとこの国は機能するのだと。そう定められた法を無視した新しい軍隊は、文字通りに国軍を食ってしまった。それこそ、より良い待遇を求めて脱退するものを出すほどに。
特別隊の解体には時間が掛からなかった。もとより弱体化した組織だったこと。何より、複数いた指導者の全員を失った部隊は、寄る辺を失い自然と崩壊していったのだ。
しかしながら、友軍の退去には時間が掛かる……筈だった。その部隊は国から国へと請求されたことで派遣されたものだ。契約の日数を待たずに帰還させられることは、基本的にはあり得なかったのだ。
けれど、部隊は撤退させられた。理由はただひとつ。その部隊は、軍隊は、戦力は、女王を守ることが出来なかったから。
国を守る為の力として借り受けた力は、何ひとつとして守れなかった。議会はそれを理由に退去を要求し、友軍部隊はそれに従わざるを得なかった。
女王の死後三十日の時点で、友軍部隊のすべてが国外へと退去した。そう、すべて。全員が。
本来ならば、この時点で抵抗するものがある筈だった。国の決めごとにも、法にも、政治にも縛られず、罰せられることも恐れず、ただひとつの正義の為に戦う、ふたりの勇者がそこには存在する……筈だった。
勇者は……目覚めなかった。
ひとりは満身創痍から、回復に多大な時間を要する状態だった。ひとりは……傷ひとつ無い身体でありながら、魔力の過剰消費と、それを補う身体機能の燃焼によって、しばらくの仮死状態に陥っていたのだ。
故に、部隊は抗う力を残さなかった。特別な力も失い、大義も失い、王からの加護も失った。誉れ高い騎士団は、約束した勝利をもたらすことなく退くしかなかった。
そして……議会に預けられた暫定的な政権も崩壊した。それは、女王亡き後五十八日のことだった。
たったそれだけの日数で、王宮と議会による政治は完全に破綻した。崩壊し、何も成せなくなった。
王には求心力があった。若く、そして本来ならば即位する筈の無かった女王でありながらも、彼女は民に愛されたのだ。
特別に裕福な暮らしを与えられたわけでもない。苦痛や恐怖が和らげられたわけでもない。国民の生活は何も変わらなかった……だが、それを変えようと奔走する王の姿は目にしていたのだ。
王には能力が無かった。結果も残さなかった。女王フィリアは、政治について一切の成果を挙げられなかった。それは、魔獣との戦いに勤しみ、今ある国土の改善よりも、失われたかつての国土の奪回に尽力したからだ。
故に、女王は優秀ではなかった。有能ではなかった。どうあれ、王としては評価されなかったのだ。けれど、評価されなかったその行動のすべてが、民からは支持されていた。何も出来ずとも、懸命に戦い続ける幼気な存在として。
そんな王亡き後の政権を、民は受け入れられなかった。いいや、違う。国に向いた政治を嫌ったのだ。
かつての女王は民の為に尽くしてくれた。民の為に、弱きものの為に奮闘してくれていた。ならば、そう出来ない政権に価値は無い。短いながらにも積み上げられた女王の活躍によって、そんな認識が広がってしまっていたのだ。
民衆は大義を得た。得てしまった。女王無き後に政治を貪る貴族を許すな……と。何が正しく、何が善く、何が相応しいのかを論ずるだけの時間も無いままに、その熱は広がり過ぎてしまった。
結果として、王宮も議会も能力を失った。アンスーリァ王国は……いいや。この島は、国家を、政治を、統治を失った。
そして、女王の死から八十七日。その頃になってからやっと、フィリア=ネイ=アンスーリァの慰霊碑が建てられた。死から長い期間を経てから、議会を打ち倒した国民の手によってそれは建てられた。
それは、亡き王を弔うためのものではない。それは、亡き王の偉業を讃えるものではない。
それは……民衆が貴族に、議会に、政治に勝利したのだと言う、その宣言の為に打ち立てられたのだ。
かの王は、民を救うものの象徴としてだけ消費される。その慰霊碑が意味するものは、ただそれだけだった。
慰霊碑の建立から更に長い時を経ること六十一日。その頃に、アンスーリァは転機を迎える。新たな政治が立ち上がるのだ。ある人物が先導した、三つの力によって引っ張られる国として。アンスーリァは生まれ変わりを迎えることとなる。
だが……それはもう少しだけ先の話。今この時は、まだ誰の頭の中にもその未来は存在しない。
慰霊碑が建てられて、女王を祭る場所が出来上がったその日から。たったひとり、国の中にある熱とは違うもので動いている人物が……少年がいた。
たったひとり、女王の死について知っている少年が。
それは、女王の墓だった。それは、女王の魂の眠る場所だった。それは、女王の肉体を埋葬した場所だった。
それは、女王と話を出来る唯一の場所だった。
それは、少年が望む唯一のものだった。
これは、少年のある一日の記録である。
王宮は政治的な機能を失った。それでも、そこに住まう人間は変わらなかった。
それまで通りに生活を送り、ただ少し減った仕事に尽力し、そして……この国の改善の為に考え続けた。
その中で、少年もまた変わらずにいた。女王に与えられた部屋で暮らし、そして……女王のもとを訪れ続ける。
陽が昇るよりも前に起床し、鳥がさえずるよりも前に女王の部屋へと――かつて女王が眠っていた部屋へと向かい、誰もいないその場所で考えごとに没頭する。
そして、誰が起きるよりも前に宮を出て、女王の墓の前へと赴く。それが、慰霊碑が建立された後の彼の日常だった。
慰霊碑の前で何かをするわけではなかった。話をするでも、花を添えるでも、涙を流すでもなかった。ただ……そこにいたいと願い、望み、叶えた。それだけだった。
ただ……ただ、その一日だけは違った。慰霊碑が建てられてから、初めて雨が降ったその日だけは。
雨が降ったから、その日は外には出なかった……などと、そんな話ではない。
その日も少年は宮を出た。雨に打たれ、濡れることも厭わずに。冷えて身体が凍えるのも気にせずに。
少年はそれまでと変わらず、慰霊碑の前に座り込んだ。
慰霊碑には、毎日のように人が押し掛けていた。女王は人気者だったのだ。そしてそれ以上に、権力への勝利を意味するその建造物が、民には心地良いものだった。
少年は誰に臆することも無く、そして誰に返事をすることも無く、ただじっと墓の前に座り込んだ。毎日、毎日。欠かさず、変わらず。毎日、それを一番近いところで眺め続けた。
その日も変わらなかった。雨で濡れた石碑を見ながら、自らも雨に濡らされながら、人の少ないその場所で、じっと座り続けた。
ただ……そう。その日だけは、何かが違ったのだ。天気ではない。気温ではない。寒さでも、寂しさでも、つらさでもない。ただひとつ……少年の内側にあるものが違った。
ずっと――ずっとずっと、少年は考え続けていた。何を……とは、もはや本人も理解していなかった。思考を思考する、そんな日々だった。
そして、その日は転機となったのだ。思考に終止符が打たれる――結論が出る。そういうタイミングだったのだ。それに大きな意味も無く。けれど、無意味さなどはある筈も無く。
「……ああ、そっか。俺……間違えたんだ」
何かが千切れる音を、少年は自らの内側から聞いた。




