第五百三十八話【Fallin' Angel】
それは白銀の刃ではなかった。翼の意匠も、綿羽のような軽やかさも無い、私が準備した彼の剣だ。
折れた刃は深く突き立てられ、魔女の胸に確かに穴を開けている。血が噴き出し、滴り、そして……死が見える。魔女の――最悪の障害として在った、無貌の魔女のその死が。
「――排――除を――」
「――っ」
魔女は身体を貫かれたままに翼を広げ、また同じ言葉を繰り返す。排除を、と。アギトを、ユーゴを、脅威足り得る何もかもを排除する。その意志だけを口にした。
骨組みだけの翼は、まるで棘のように鋭いその切っ先をユーゴへと向ける。至近距離にいる、刃で繋がったその仇敵へと。だが――
「――終わりだ――ッ!」
身を翻し、剣を抜き、そしてユーゴは魔女を真横一文字に斬り裂いた。防御も回避も行わず、たった一太刀のとどめを魔女へと向けたのだ。
魔女の肉体はそれで両断され――翼諸共に斬り落とされ、胸から上とそれ以外とで分かたれて、地面へと墜落した。そして……わずかにすらも動かなくなった。
「……はあ……っ。もう、いない……よな……」
声は聞こえない。言葉は聞こえない。怨嗟を零す魔女の声は、言葉は、恨みは、どこからも聞こえてこない。
これが正真正銘、本物の肉体で良かった……のだろう。少なくとも、今までに見えていたそれらを偽物とするのならば。
魔女は斃れた。私達から多くのものを奪い取った無貌の魔女は、ユーゴの手によってここに斃された。他でもない、何もかもを壊された彼の手によって。文字通りの敵討ちがここに成し遂げられたのだ。
「……フィリア……」
「……っ。ユーゴ……お疲れ様です。やっと……やっと終わったのですね。ユーゴ」
遠かった。長かった。これまでの道のりは、この少年にはあまりにも過酷過ぎた。だが――だがそれでも、彼はやり遂げたのだ。
賞賛の言葉などは出てこなかった。そんなもの、言葉に出来る程度に収まらなかったのだ。
私はきっと笑っている。笑顔で彼と見つめ合っている。まだどこか放心状態のユーゴと向かい合って、きっとふたりして……
「……あっ。そうだ……アギト。アギト、それ……大丈夫……なのか……?」
笑って、泣いて、安堵して。そうして、ユーゴは私のすぐ後ろを指差してその名を呼んだ。
「そ、そうでした。アギト、大丈夫ですか。アギト」
大慌てで振り返れば、そこには横たわったままのアギトの姿があった。両の腕、両の脚も健在な、幻想ではない彼の肉体が。ただ……
「……そもそも、ああなってしまった……意識を失ってしまった原因があるわけですから。急いで砦まで運びましょう。すぐに治療して貰わないと、このままでは命にかかわりかねません」
返事は無いし、わずかな身じろぎすらも見せない。幸い、脈と呼吸はある。しかし、あの嵐に吹き飛ばされて墜落した……のが原因だろうから。全身を強く打っていることを考えれば、一刻も早く手当てをしてあげないといけない。
「じゃあ、俺が運ぶから。フィリアは荷物持って来てくれ。水とか食料とか、あったろ。砦まで結構距離あるからな。無いと……ちょっと困る」
っと、そうだ。持ち込んだ荷物の中には医療品もあった筈だ。私の知識と技術、それに携帯の道具でどれだけのことが出来るかは分からないが、しかしやるだけのことはやってあげよう。アギトもだが、ユーゴだって大怪我をしているのだし。
「ユーゴ、貴方も少しじっとしていてください。折れた骨をどうにかすることは出来ませんが、悪化しないように何かを当てておくことはすべきでしょう。荷物を取って来ますから、アギトを見ていてください」
そうと決まれば、いつまでもへたり込んでいる場合ではない。ゆっくりと立ち上がって、痺れた足で荷物のところまで向かおう。ユーゴが必死に逃げてくれたおかげで、またずいぶんと遠くに…………と言うか、荷物は無事なのだろうか。あんな災害に見舞われて。
「剣や装備はともかく、瓶詰や薬の類は……ううん。ユーゴの腕の手当てくらいはしてあげられるでしょうが……」
止血剤が無事だと良いのだが……。何はともあれ確認してみなければ進まないか。
戦いで荒れ果てた地面は、腰も抜けて足も痺れた今の私には少しだけ歩き難いが、それでももう危険は無いのだから。転んだとて、それでどうにかなるわけでもなし。少しだけ急いで――
「――――ああ――ああ――ああ――――っ! よくも――よくもよくも――よくも私の友人を殺してくださいましたねぇ――――っ!」
「――っ! なっ――この声は――」
突如、声が聞こえた。聞いたことのある男の声だ。聞いたことのある、忌々しい声だ。
声のした方を振り返れば、そこには……何も無かった。何も無い筈だった。切り捨てられた無数の魔女の肉体があって、それより手前には本物の魔女の肉体と、そして一気に警戒心を高めたユーゴの姿があるだけで――――
「よくも――よくも――――よくも――――ッ!」
「どうして――いったいどこから――」
その姿は見えない。見当たらない。どこにも見えない。声がする方には何も無い。のに……
ユーゴには悪意を感知する能力が取り戻されている……と思っていた。だが……それでも何も見付けられていない様子だ。あるいは、アギトの力に付随する一時的なものだった可能性もある……が。それでも、彼の洞察力は本物だ。
そんなユーゴが何も見付けられなくて、折れた剣を構えて周囲を見回している。何も無い場所から聞こえる声に、何も無い場所から襲うかもしれない攻撃を警戒して――――
「――――ッ! ユーゴ――っ!」
離れた場所にいた私からは、その異変が良く見えた。あってはならない、不自然で理不尽なことのように思えた。
斬り分けられたいくつもの魔女の肉体が、動く筈の無いそれらが、うぞうぞと這い集まって形を変えるのだ。積み上がって、繋がり合って、そして……ひとつの人間の形を取り戻して――
「――ゴートマン――っ。お前――――」
「いけない――ユーゴ――っ!」
いけない。いけない。いけない――っ。ユーゴは人を斬れない。ユーゴは人間を攻撃出来ない。それがたとえ悪人であっても――忌み嫌い、敵とさえ思っているゴートマンであっても、彼は人を傷付けられない。そして――そのことはあの男にも知られてしまっている――
肉塊から出来上がったゴートマンは両腕を広げ、そしてユーゴへ向けて真っ直ぐに突進し始める。私よりもずっとずっと速く、ずっとずっと近くから。
どうして。あの男は倒された筈ではなかったのか。ミラが倒して……いや、違う。そうではない。そんな事実はどうだって良いのだ。ただ、その男がユーゴを襲おうとしている。問題はそれだけで――――
「――――よくぞ――――殺してくださいましたねぇ――――」
「――え――――」
血飛沫が舞った。まるで壊れた蛇口のように、真っ赤な血が噴き上がった。その根元には……ゴートマンの肉体と、その胸を貫く折れた刃が見えた。
「……何……を……?」
私にはその意図が分からなかった。ユーゴのもとへ急ぐさなかにも、疑問は底を尽かなかった。けれど……
「……何……やって……っ。お前……何して――――」
それが引き起こした事象については理解していた。ユーゴが――血に塗れて赤くなったユーゴの顔が、どんどん青ざめていくのが見えた。恐怖に震えて、動揺して、我を失い掛ける幼い少年の姿が――――
「――――よくぞ――――我が悲願を――――」
「――ッッ! ユーゴ――――ッ!」
まだ遠い私には、その異変が良く見えた。動かない筈のものがゆっくりと動き始めたのだ。動かない筈の魔女の肉体が――――本物の魔女の、その胸から上だけが――――
「――――きぃ――――ひひひっ――――ィひ――――ッ!」
悍ましい笑い声が空へと消えていった。少年はそれをきちんとは認識出来ていなかった。
彼の手にあったのは、肉体を――人の顔をしたものを貫いた、ただその感触だけだった。彼の頭にあったのは、その恐怖と、恐怖に対する強い嫌悪感だけだった。
それが起こした事実を知らない。少年は、自らのすぐそばで起こったことを理解していない。理解出来る筈が無かった。
「――よくぞ――よくぞ――よくぞ――っっ! これで――これでこれでこれでこれで――私の願いは成就する――――ぅううっ!」
少年には声が聞こえなかった。斬り落とされた下半身を無視して爬行する異形の上半身を、彼は目にすることも無かった。
「…………フィリア…………?」
彼の目に映っているのは、倒れた女王の姿だけだった。
その胸には孔が開いていた。大きな、大きな、拳よりもひと回り大きな孔だった。
そこからは血液が流れ出ていた。そして、臓腑もまた転げ出ていた。少年には、それが見えていた。それだけが見えていた。
「……フィリア。何して……? おい、フィリア……?」
少年には何も見えていなかった。その事実が、何ひとつとして理解出来ていなかった。
少年には見えていなかった。零れた臓腑の中に、胸の中心に収まっているべきものが見えていなかった。見当たらなかった。どこにも――
「フィリア……っ。起きろ……なんで……? 勝った……んだぞ。俺が……アイツを倒して……」
少年の声は誰にも届かなかった。少年の声はどこにも届かなかった。少年の願いは――夢は、理想は、欲しかったものは――――
「――フィリア――。フィリア――フィリア――っ。フィリア――ッッ!」
声は空に消えた。彼に言葉を返すものはどこにもいない。彼の願いを果たすものはどこにも残らない。彼の愛したただひとりは――
「――――フィリアァ――――ッ!」




