第五百三十六話【翼の剣】
「――ユーゴ――?」
その影は、見覚えのある姿をしていた。
右腕を折られ、プライドも傷付けられ、それでも立ち上がったその姿は、かつても目にしたものだった。
その手には剣が握られていた。白銀の剣だ。柄に翼の意匠を施した、陽の光を浴びて輝く剣。片手で振るうにはあまりに大き過ぎる、彼の背丈ほどもある長剣だ。
その目には何が見えている。魔女か。それとも勝利か。あるいは……未来なのか。私にはそれが分からなかった。彼が何を見ようと――何を想像しようとしているのかが。
「――対処を。マナの、揺らぎは、確認されませんでした。けれど、不思議な、ことが、起こりました」
魔女は両断された。けれど、その肉体が偽物であると証明するように、また別の――同じ見た目の新しい身体で、もう一度彼の前に立つ。
立って、攻撃の意思を向けて、そして――
「――っ⁈ 不思議な、ことが、起こりました。不自然な、マナの、揺らぎは、確認されません。不思議な、ことが、起こり――」
すぐに頭から両断されて、文句さえも叩き伏せられた。それは――その一撃は、私の目には見えなかった。人ひとりよりも大きな剣が肉体を断つ瞬間を、私は目で追い切れなかったのだ。
「不自然な、不思議な、不可解な、ことが、起こっていますね。マナに、揺らぎは、無く、同時に、異様な、異常な、異例な、現象は、確認され――」
「――うるさい」
また、新しい身体が現れた。それは、しばらくの間混乱したままに見えた。混乱して、その問題を解決しようとして、悩んで、観察して……そして、その間にまた両断されてしまった。
「――異様な、異常な、ことが、起こっています。異形さは、無く、また、不自然さも、無く。けれど、不可解な、ことが、起こっています。いえ――」
次に現れた魔女は、彼の間合いからずっと離れた場所に姿を見せた。離れた場所から彼を観察しようと言うのだろう。けれど……
剣を振りかぶったのが見えた。それだけは見えた、目で追えた。それから先は……結果だけが残されていた。
「――不自然な――不可解な――不可能な、事象が、起こっています。マナに、揺らぎは、無――」
またしても魔女は両断されていた。そして、文句を言うそのわずかな間にも、もう一度斬り潰された。
剣を振るう姿は目に見えない。その件が魔女を断つ瞬間は捉えられない。それは……その強さは、いつか見た強さよりもずっとずっと――
「――勝て――ユーゴ――」
「……アギト……? アギト、貴方なのですか……?」
声が聞こえた。私の手の下から、私が触れているその人から、小さな声が聞こえた。それは、祝福を届けようとする声だった。
白銀の翼を身に宿し、幻想の力を創造したアギトが、その力をユーゴへと託した……のか……? もし……もしもそうなのだとすれば……
「――フィリア。もうちょっとだけ待ってろ。すぐになんとかする」
「――っ。はい!」
もう一度魔女が姿を現した――それが地面に足を付けるよりも前にユーゴは剣を振るい、その肉体を両断した。
またしても魔女が姿を現した――それが言葉を発するよりも前にユーゴは剣を突き出し、その肉体を吹き飛ばした。
何度も何度も、魔女は何度でも姿を作り直して現れる。だが、その度にユーゴは剣を振るい、偽物の肉体を切り刻んだ。
その剣は、翼を持つ鳥のように軽やかに空を斬るのだろうか。意匠から、そして起こった結果から、そんなことを夢想するのが私には精一杯だった。
何度も何度も魔女が現れ、その度に斬り伏せられる。あるいは、私が目で追えていないところでも戦いは起こっていたのかもしれない。私にはもう、魔女が現れる瞬間を捉えることも出来なくなっていて……
「……まさか、感知能力も取り戻されている……? しかし、どうして……」
もしや……いや、間違いない。先ほどまで繰り返されていたアギトと魔女の戦いを見て、彼はイメージを固めたのだ。また更に強固な、かつての自分よりも強くなれる想像を。
感知能力が取り戻されたのは、それが無かったが故に危機に瀕したからだ。魔女の攻撃よりも先に間合いを詰められているのは、そう出来なかったことが悔しかったからだ。
彼の手には剣が握られている。それは、希望の剣だ。アギトから託された、終焉を意味する剣。絶望を、敗北を、終焉そのものを終わらせる力。それが――
「――対処を。不自然の、不可解の、解決を。マナに、揺らぎは、無く、また、空間への、特異な、干渉も、観測されず。けれど、特殊な、個体が、存在します。対処を。対処を。対――」
「――はぁああ――っ!」
また、魔女が斬り伏せられた。もうどこで戦いが起こっているのかも分からない状況で、魔女の声はぶつぶつと途切れてあちこちから聞こえてくる。一語を発する間に倒されて、その続きをまた別の肉体で発しているのか。
対処を。対処を。そればかりを繰り返す声は、少しずつだが動揺の色を隠さなくなった。隠せなくなった。そして……
「対処を――――」
ぱたりとそれが止まった瞬間が分かった。最後に聞こえた声の方へと振り返ると、そこにはユーゴの背中があった。そして彼が見下ろす場所には、斬り伏せられた魔女の肉体があって……
「……次で最後……だな」
「次……? ユーゴ、それは……っ!」
次。と、彼はそう言って剣を握り直した。左腕一本で長剣を担ぎ上げ、姿勢を低くして、それまでよりもずっとずっと高い警戒心を持って、その“次”と言うものに備えているようだった。
「――不思議な――個体が、ありますね。不自然な、事象が、ありますね。貴方は、かつても、不思議な、ことを、していました。特別な、格別な、人間の、幼体として、記憶しています。不思議な、ことを、していますね」
「――っ。あれは……」
次。と、ユーゴが示したものはこれだったのだろう。すぐにそう理解出来た。
そこには魔女がいた。無貌の魔女だ。貌の無い、猛禽の脚のような腕を持つ、異形の魔女だ。そして……
その魔女には翼があった。羽根の無い、骨組みだけの翼。大きくて、けれど空を飛ぶ力など持ちようの無い、まるで死を司るかのような姿だった。
「魔女には翼がある……って、チビもアギトも言ってたな。じゃあ、これが本体で間違い無いよな」
「……っ。ユーゴ、気を付けてください。もしもこの個体が本体だと言うのならば、分体よりも高い能力を有している可能性があります」
言われなくても分かってる。と、ユーゴは私の忠告にそう答えて、そしてまた剣を持って……姿を消した。また、私の目では追えない速度で駆け出したのだ。
「――不思議な、ことが、起こりますね。不自然な、ことを、起こしますね。貴方は、特別な、ことの、可能な、個体なのですね」
「――っ! それはお互い様だろ……っ」
ユーゴの駆けた軌跡は白銀の線となって残された。私はそれを追うことでふたつの衝突を目撃する。
それまではすべての肉体を両断していたユーゴの剣は、魔女の翼に遮られて止まっていた。いや……その翼に触れるほんの手前で、何かの力に食い止められているようだった。
「排除を。望まれた、通りに、排除を。望む、通りに、排除を。脅威の、恐怖の、排除を。特別の、格別の、介入する、余地無く、排除を」
「そう簡単にされるもんかよ……っ! うらぁああ!」
剣は魔女の肉体にまでは届かない。けれど……それには明確な勝機がある。
防御が頑強で、それによって身を守っていると言うことは、彼の剣は届きさえすれば魔女の命に迫るものなのだ。
ユーゴは剣を握り締め、そして大股で一歩を踏み出した。魔女はその力に押され、ゆっくりと後退し始める。
そして、長い拮抗はユーゴの方から打開される。いや……打開させられた……のかもしれない。
「……特別な、特異な、特殊な、個体が、ありますね。マナに、揺らぎは、無く、また、揺らぎに、干渉する、形跡も、ありません。不思議な、ことが、起こりますね」
「……うざ。こんな風に攻撃してたのか、今まで」
彼が立っていた場所に、小さくない穴が開いているのが見えた。転移の魔法の力……初めて遭遇した時から私達を苦しめていた、途方も無く凶悪な力がまた彼を襲ったのだ。
しかし……どうしたことか。ユーゴはそれを――見えない、感知出来ない、予想も出来ないその攻撃を、回避してみせたらしい。
以前には動き回ることでしか対処出来なかったその攻撃を、足を止めて拮抗した状態から予期して回避した。それに……今の彼の口ぶりは、攻撃が来ることを感知出来ていたかのようで……
「――っ。うぉおおお――っ!」
疑問も晴れないままに、ユーゴはまた雄叫びを上げて地面を駆けた。そして……また、彼のいた足下に穴が開く。切り取られ、どこかへ飛ばされて、地面に丸く欠落が発生する。
間違いない。ユーゴは魔女の攻撃を理解して避けている。そして……彼の攻撃は、届きさえすれば致命傷になるのだ。
優勢とは言い難い。けれど、勝機は間違いなく彼の手にある。そんな期待が、希望が、興奮が、私の手から熱を感じる能力を奪った。血が巡り、体温が高くなって……そして、大切なことを見落とす油断を生んでしまっていた。
それに気付くのは、大事に至ってからだった。




