第五百三十五話【届け】
アギトをあの異様な状況から拾い上げる為の魔具。ミラはそれを、ネーオンタイン解放作戦の前に私へ託してくれた。
その存在を肯定するものがあれば良い。ミラのように、アギトを強く認識出来る他者があれば問題無い。けれど、あの時の作戦には彼女が同行出来なかった。だから、それを解消する為の手段を私に預けてくれていたのだ。
「……っ。これを……使えば……」
小さなペンダントを握り締めて、頭の中でそれを起動させる言霊を反復する。これを使えば、アギトはひとまず元の状態に戻る……かもしれない。
しかし……しかしだ。これを使って、アギトから翼を奪って、その後にどうなる。私やユーゴだけではない。アギトは……ここで伏している、誰にも見えないこのアギトはどうなってしまうのだ。
恐らくだが、重篤な状態にあるだろう。魔女の攻撃を防ぎきれず、大きく吹き飛ばされて、地面に強く叩き付けられて。意識が失われるほどの痛みを受けた筈だ。そしてそれが……あるいは、致命傷になってしまっているかもしれない。
この魔具を使えば、アギトは幻想から覚めてしまう。もし彼が、ミラから預かった新しい力によって魔女と戦っている……と、そう錯覚して、精神力だけで延命しているのだとしたら……
「――百頭の龍雷――ッ!」
「――排除を――」
背後ではまだ激しい音が繰り返されている。雷撃が、火炎が、暴風が、自然に起こる災害と変わらないそれらが、ふたつの意志によってぶつかり合っている。
この戦いを乗り越える為には、幻想のアギトの力が必要なのではないか。本当の彼を見殺しにしてでも、何を踏み潰してでも到達しなければならない勝利があるのではないのか。そんな勝手な文句が頭の中で繰り返される。
そんなものがあってはならない。あってなるものか。彼は、アギトは、平和に生まれた守られるべき市民だ。そんな彼が命を賭さねばならないなどと……っ。
ではどうするのだ。ここでアギトを起こして、戦いを切り上げさせて、それで……私達はあの魔女を食い止められるのか。それは……否だ。
どうする。どうする。どうすれば――っ。どうすれば……私が何かをして、この状況が好転することはあるのか……っ。その答えは……どれだけ考えても浮かんで来なかった。
「――排除を――」
「――っ! ぐ――ぁああ――ッ!」
アギトの悲鳴が聞こえて、私はそれでやっと顔を上げた。手の下にいる見えないアギトから、背後で戦う幻想のアギトへと視線をやったのだ。
そこには、翼を斬り落とされた彼の姿があった。それは魔術によって生成されたものの筈だから、彼の肉体への直接的なダメージは薄い……筈だった。
けれど、それからは多量の血液が噴き出していた。そして、痛みに苦しむアギトの姿も確認出来た。
それは魔術ではない。それはミラの作ってくれた便利な道具でははない。それは……幻想の彼の姿は、彼自身が望んだ強さの結果なのだ。ならば……その翼は、本物で然るべきだったのだろう。
苦痛に顔を歪め、四肢の内の残された右腕だけで地面を這って、アギトはゆっくりと魔女から距離を取ろうとする。だが……
「――排除を。排除を、排除を、排除を――」
「――っ。ぐぁああ!」
地面に突いていた手が……その小指一本だけが斬り飛ばされた。そして、彼が痛みに悶える瞬間に、次には親指が消えていた。
魔女はもうアギトを脅威としては見ていない。脅威だったもの――自らに不安や焦燥を植え付けた、憎むべきものとしてだけ見ている。その上で、徹底的に痛め付ける選択をしたのだ。
指がすべて斬れて、手首から先が消えて、遂には両腕両足のすべてが斬り落とされる。その痛みを以ってしても、アギトは死ぬことも意識を失うことも無かった。それだけのことがあっても戦い続けられる強さを彼が求めてしまったから。
「――っ――ぁあ――ッ! はあ……はあ……っ。これで……これで折ったつもりかよ……っ」
這いずることも、蠢くことも、身体を起こすことも出来ないで、アギトは目だけを魔女へと向けた。こちらからは見えなくても、睨み付けているのだろうことは分かった。
これで……どうなってしまうのだ。私達は、アギトは、いったいどうなってしまうのだ。
魔女は気を変えて全員を見逃すようなことはしないだろう。当然、私もユーゴもアギトも皆殺されてしまうに決まっている。
私は……どうすれば良い。どうしようもないのならば、せめて……せめて苦痛は和らげてあげるべき……なのではないか。あの幻想のアギトを……間違った強さを創ってしまった彼を消し去って、痛みから逃げ出せる彼を取り戻してあげるべき……なのではないだろうか。
これは……なんだろう。諦念……なのか。私はもう、諦めてしまっている……のだろうか。
この魔女には敵わない。ユーゴでも、アギトでも、この魔女は倒せない。なら……せめて、楽に逝けるように……と、そんなことを考え、願ってしまっている……のか。
「……けれど……私に何が出来ると言うのですか……っ」
それは堕落だろう。それはきっと恥ずべきことだろう。けれど……私に何が出来た。何も……本当に、一切何も出来なかった。私では、何も――
「――――これで――――折れたと思ってんのかよ――――っ!」
「っ。アギ……ト……」
声が聞こえた。幻想の、痛みから逃れられない、呪われてしまったアギトの声だ。恨み言……ではない。負け惜しみでもない。まだ、怒りよりも闘志から声を発しているのが分かった。
「折った程度で――台無しにした程度で――――絶望程度で――――折れると思うなよ――――ッ!」
身をよじり、腕も脚も無いその身体で寝返りを打って、もう一度魔女へと顔を向ける。睨み付けて、言葉を吐いて、そして……折れた翼を広げ、空も飛べないままに強く羽ばたいた。
「――白銀の片翼――ッ! 飛べ――飛べ、飛べ――飛んでくれ――っ! あの人はどんな時でも空を駆けた――どんな時でも前を向いて戦ってただろうが――っ! だから――――」
飛べ。と、アギトは自らにそう呪い続けた。呪い続けて……けれど、彼の身体が宙に羽ばたくことは無かった。
魔女は首を傾げていた。アギトの姿に、その振る舞いに、そのもがきに。けれど……それが結局は攻撃性を伴わないと判断したからか、またゆっくりと彼へと近付いて……
「――っ。く――白銀の抱擁――っ!」
攻撃を加えようとした……のだと思う。だから、アギトは咄嗟に防御の魔具を起動させた。誰から預かったわけでもない、幻想の盾を。けれど……
「……排除を、完了しました」
その盾が何かを捉えて跳ね返すことはなく……アギトの胸に穴が空いた。拳と同じくらいの、致命的な穴が。
それからは血が噴き出さなかった。彼が創造した肉体は、既に全ての血液を吐き切っていたのだ。そのことを見せ付けられて、思い知らされれば……
「……折られた……程度で……っ。折れちゃ……いけないのに……」
音は無かった。立ち上がっていないのだから、倒れることも無いのだから、その終わりには音が無かった。
幻想のアギトはそこに没した。戦う力の有無は関係無く、命としての在り方を続けられないと自覚してしまったから。
魔女はそれを見ている……のだろうか。見えているのだろうか。貌も無いのに、何を見つめているのだろうか。
アギトが動かなくなって、もう自分に迫る脅威が存在しないと知って、この魔女は何をするのだろうか。
そのまま勢い付いて全員を殺すだろうか。それとも、安堵からしばらくゆっくりしてくれるだろうか。私達はこれから、あとどれだけ恐怖を感じる余地を与えられるだろうか。
「……折れ……ちゃ……」
「……っ。アギト……」
声がした。手で触れているアギトの声だ。誰にも見えない――私にも、魔女にも見えていない、本来の彼の声だった。
まだ彼は戦う意志を残している。戦おうと思っている。戦えるのだと……まだ、幻想の肉体は朽ちていないのだと、勘違いしてしまっている。
けれどその声は私にしか届かない。魔女への牽制にはならない。健在であると主張することは叶わない。必死に戦おうとしてくれる彼の心も、魔女を遮る壁にはなり得なくて――――
「――排除を。願いの、頼みの、成就を。貴女の、貴方達の、排除――――」
魔女の声が聞こえた。私はそれで、目を瞑って頭を両手で覆ってしまった。
死にたくないと思った。無力感に絶望するより、国の未来を救えなかったと恥じるより先に、自らが死にたくないと震えてしまった。
責めるものがあればそれも甘んじて受け入れよう。けれど、仕方が無いのだ。私だって死にたくない。死にたい筈が無い。本能的な恐怖に抗う手段など、持っているわけがないのだ。
殺されるのだろう。このまま、痛みを受けて死ぬのだろう。諦めてしまうと、身体はどんどん冷たくなっていった。先ほどまで指先で触れていたアギトの熱を感じられなくなって、なおのこと寒さに震えて……
「――――フィリア――――ッ!」
声が聞こえた。それはきっと、ユーゴの声だった。遠くから聞こえた声は、彼がもうずっとずっと早くから逃げてくれていたのだと思わせてくれた。
ああ、そうか。この状況、この戦力差では敵わないと判断してくれたのだ。良かった。ならば、まだこの国には未来がある。彼とミラの力が合わされば、もしかしたらまだ可能性はあるかもしれない。少なくとも、彼らで不可能ならばもう誰にも不可能だろう。
気が緩んだ。温かさが指先に取り戻された。ひとつだけでも憂いが払われたから、私の心はふわりと軽くなって――
痛みはやって来なかった。意識は途切れなかった。終わりは……まだ、迫っていなかった。
風の音が聞こえる。びゅうびゅうと吹き付ける強い風だ。けれど、それは魔女の起こした嵐とは違うもので……
「――――対処を。異様の、不自然の、揺らぎは、観測されません。しかし、対処を」
不思議とすぐに顔を上げられた。頭を上げればそれで首から上が無くなってしまいそうな恐怖心もあったのに、あっさりと身体を起こすことが出来た。どうしてだか、そうならない気がしたから。
目の前の光景に、私は息を飲んだ。そこには、まだ収まらない嵐と、その風と戦いによって巻き上げられた砂煙が充満している筈だった。けれど、そうなっていなかったから、私は言葉を失っていた。
そこには魔女がいた。無傷で私達を見下している筈だったのに、肩口から両断されてしまった魔女が。
そして、もうひとつの影があった。もう誰にも留められない筈だった魔女を斬り伏せた、もうひとつの影が。




