第五百三十四話【迫る足音】
血飛沫が舞った。肩を貫かれ、足を斬り落とされ、当然の結果として血が飛び散った。
そこには当たり前があった。傷が出来れば血が出る。傷が大きければそれはたくさん飛び出す。当たり前だ。子供でも知っている当たり前。
けれど、この時に限ってそれは――
「――――異常の――異様の――異変の、観測が、されませんでした――――。不可解を、理不尽を――理に、背く、ものが、確認されませんでした」
畏れはそこにあった。異常な力を――けれど、この世界の理には則った法を操る魔女にとっても理解し難い、どの世界にも存在しない法則に従う……いや。あらゆる法則を無視する存在。それが、アギトだ――と、そう思わせることで楔としていた。
効果はあった。結果として、今になって、失われてから理解した。それには大きな効果があったのだ。
魔女は魔法を使わなかった。少なくとも、アギトに対する攻撃としては。それは何故か。それが通用しないと思ったから。それを使うと、もう一度同じことが起こってしまうかもしれないと恐れていたから。
楔は十分に機能していた。だから、ふたりは互角以上に渡り合うことが出来た。出来ていた。だが――
「――っ。連なる菫――」
「――マナの、揺らぎを、確認しました。通常の、平常の、平凡の、普遍の、理に、則った、揺らぎを、確認しました」
アギトの身体に傷が付いた瞬間に――それがたちまちに無かったことにならなかったその時に、魔女は知ってしまった。疑ってしまった。そして、結論を出してしまった。
アギトには特別な力が無い。あの時に見た、対峙した、襲われた、恐怖したあの存在は、どうしたわけか今はどこにも存在しないのだ、と。
肩を貫かれ、両足を斬り落とされて、アギトは地面に手を突いたまま魔具を起動した。火球を発生させる魔具だ。だが……
炎は燃え上がらなかった。いや、一瞬だけはそれを灯すことも出来た。だが……それはすぐにかき消されてしまったのだ。
魔女の攻撃によって吹き飛ばされてしまったのではない。魔具の起動に失敗したのでもない。それはきっと、魔女によるマナへの介入……魔術式そのものの否定だったのだろう。
「アギト! く……っ。だったら接近戦で――」
「――ダメだ! ユーゴ!」
アギトの魔術は消えてしまった。それが攻撃力を持つよりも前に、あっけなく消し飛ばされてしまった。
それを見て、ユーゴは剣を担ぎ上げて走り出した。右腕も使えないままに、不慣れな左腕一本での剣術で魔女へと迫る。だが……
「――不思議な、ことは、起こりません。起こしません。起こさせません。理外の、事象は、容認しません」
「っ!」
彼が間合いに入るよりも前に、彼の手に握られていた剣は刀身を失ってしまった。丸く切り取られて、何度も何度も細かく破壊されて、見せ付けるように無力化されてしまっていた。
その間、魔女はユーゴを見ていなかった。貌の無い魔女をしてどこを見ているのかと決め付けることもバカらしいのだが、しかしそれが事実だと思った。
魔女は意識をずっとアギトへと――まだ脅威になり得る存在だけへと向けていた。それでもなお、ユーゴの剣は簡単に破壊されてしまった。剣だけが……
「まさか……また……っ。ユーゴ!」
それは見せしめなのかもしれない。あるいは、以前の戦いの続きなのかもしれない。魔女はユーゴを殺そうとせず、それよりも先に他のすべてを破壊する選択をしているようだった。
魔女の事情は知ったことではない。何を企んでいるかも関係無い。このままでは全滅してしまう。ただひとつ、分かっているのはそれだけだ。
私はユーゴの名を叫んだ。剣を渡そうと、戦う力を取り戻させようと。けれど……その時になって、声を上げておいて、それからやっと自らが空手であることに気付いてしまった。先ほど襲われた時に、荷物などはすべて取り残して逃げ出したのだった。
「――排除を。事象の、再現が、不可能であれば、排除を。理不尽の、元凶の、排除を」
「……っ。くそ……白銀の片翼――っ!」
魔女は声を上げた私にもユーゴにも気を向けず、真っ直ぐにアギトへと近付いて行く。アギトはそれに、また別なる言霊で応えた。それは、空を駆ける魔具の――――
「――――違う――――っ。何を――違う、違う違う! 違うのです! 違ったのに――」
言霊が白銀の翼を作り出すと、アギトの身体は空へと飛び上がった。それを見て、理解して、納得してから、私は自らの手で触れているものがなんであるかを思い出した。
「――百頭の龍雷――っ!」
「――ヒド――ヴォ――テガ――」
アギトはここにいる――。本来の彼は、幻想ではない彼はここにいるのだ。そのことが、衝撃的過ぎる事実すらもが頭から抜けていた。いや、違う。
「……まさか……まさか、消えてしまう……のですか……? あの時、貴方の姿を捉えられなくなってしまったように……」
二度あったかつての事象と今回とに共通しているのは、いずれの場合もアギト本人を周りの人間が認識しづらくなるというものだった。
一度目の時、彼の姿は誰の目からも確認出来なくなりつつあった。空間に揺らぎが発生していて、それだけ。人の形などを想像することも出来ないほどに、彼の存在は曖昧になっていた。今の彼は、それがもっと進行した状態にある……のだろう。
そして二度目。その時には……私が、アギトという存在を忘却してしまっていた。記憶と知識の中にある彼を認識出来なくなったのだ。そして……これもまた、今の彼に起こりつつあるように思える。
ただ……そのどちらの場合でも、もうひとりのアギトというのは現れなかった。この状況はまったく未経験のものだ。だが……
何をどう考えたとて、この状況はアギトにとって非常に危険だと捉えて間違いないだろう。彼は今、戦う力を創造する為に、自らの存在を曖昧にしてしまっているのだ。
「――っしゃぁああ! 揺蕩う雷霆――っ!」
幻想のアギトはまた更なる言霊を唱えた。飛行に加え、身体能力を大幅に向上させることで、失った両足のハンディを覆そうと言うのだろうか。
その光景は、ある意味では彼らしいとも思えた。アギトならば、彼の精神性ならば、あるいはこういった行為もしたかもしれない。自らの状態、状況を鑑みず、守る為の戦いに全力を尽くす。その在り方は、間違いなくアギトそのものだろう。
だが――っ。だが……その姿が、私の手の下にある何かこそが本物のアギトなのだと決定付けてしまっている。彼にはこんな力など備わっていない。人間には、両足を斬り落とされてなお戦い続けることなど出来ないのだ。
精神力の話ではない。肉体の構造的に、それは不可能なのだ。指の一本を失ったのではない、両の脚を膝から斬り落とされているのだ。そんな状態でこれほど激しく動き回れば、すぐさまに失血死してしまう。
「――だい――うぶ――。俺が――」
「――俺が――――っ! 俺がなんとかする! ユーゴ! フィリアさんをお願い!」
その姿が、雄姿が、頼もしさが、私の中に無限にも思える絶望感を積み上げる。
このままではアギトが死ぬ。この状況を解決すれば全員が死ぬ。あるいは、何をどうしたとてすべてが終わる。
魔女はアギトへの恐怖を克服している。ユーゴは戦う力を失っている。幻想のアギトが魔女の力と拮抗したとして、それにはわずかな時間しか残されていない。このままでは、ここにいるアギトが消滅して、あのアギト諸共にすべてが終わってしまいかねない。
「……私に……私に何か出来ないのですか……っ。ミラ、答えてください……。私に……私では、彼に何もしてあげられないのですか……」
また、血飛沫が上がった。それは、魔女の身体を何かが切り裂いた結果だった。
アギトの攻撃だろうか。それとも、アギトではなくなった何かの攻撃だろうか。ともかく魔女にはダメージが……腕一本を斬り落とされると言う、小さくない傷が入った。けれど……
その魔女もまた、本物ではない。先ほどのアギトの推察が正しいのならば、魔女はまだ本物の肉体では戦っていない。これまでに潰したふたつの身体同様に、替えの利く作りもので保険を掛けているのだ。
「――排除を――」
「っ! 復活早いな! 今度は! 白銀の抱擁――っ!」
にわかには信じがたいそんな話を無理矢理に証明するように、魔女はまた新品の肉体を引っ提げてアギトの前に現れた。腕も身体も無傷で、何より非常に攻撃的な態度で。
「排除を――排除を、排除を、排除を、排除を――」
「ぐ――くそっ! まだまだ!」
次にはアギトの腕が千切れ飛んだ。けれど、それは復活しない。再生もしないし、作り直されることも無い。無かったことにもなってくれない。
「排除を、排除――――」
「――ナメんな――っ! 折った程度で折れると思うなよ――ッ!」
左腕を失くして、アギトはまたその片翼で大きく羽ばたいた。そして、目にも止まらぬ速度で魔女へと突進する。空を斬って、自らの肉体を犠牲にして。自らの命を――存在を、あらゆるものを蔑ろにして。
「……ミラ……っ。私には……私では……っ」
ふと、彼女の顔が浮かんだ。少しだけ寂しそうな、似合わない姿だった。
それからすぐ、あるものを思い出した。私が身に着けている、ミラから預かった大切なもの。ネーオンタイン解放の直前に受け取った、ひとつの魔具を。




