第五百三十三話【剥がれたメッキ】
「――――三又の槍灼――――っ!」
声が聞こえた。言霊だ。炎の槍を放つ魔具の言霊。
それは背後から聞こえた。見なければならない方から。目を逸らしてはならない方から。アギトがいる――筈の方から聞こえた。
心臓の音が聞こえる。自分のものではない。自分の鼓動ではない。ゆったりとした、やや弱い音だ。逸っている私の音とは違う、今にも消えてしまいそうな――――
「――アギト――なのですか――?」
そこには何も無い。そこには誰もいない。そこには何も見えない。けれど……そこには何かがあって、触れることが出来て、温かさを感じることが出来る。
「うぉおお――っ!」
「ユーゴ! 無理し過ぎるな! チャンスはいくらでも作るから! 間合いが離れたら俺に任せろ――っ!」
触れて、熱を感じて、音を感じて。私はそれを否定しなければならないと思った。否定しなければ――無視しなければ、と。それを肯定してはならないと思ってしまった。
それは違う。否定すれば解決するわけではない。無視すれば無かったことになるわけではない。だが――だが、どうして――っ。
ああ……ああ、ああ……っ。どうして、どうして気付いてしまった。どうして――もっと早くに気付かなかったのだ――
「――――お――れに――まかせ――ろ――――」
「――――っ。アギト……そんな……貴方は……貴方は……っ」
ここに、アギトがいる。目に見えない、けれど触れることの出来る彼がいる。彼が――本来の彼が、ここに横たわっている。
どこに触れれば顔なのか手なのかも分からないのに、それが彼であることだけは分かった。分かって……そして、この状況を正しく理解した。してしまった。
「――白銀の片翼――っ!」
「――はああああ――ッ!」
――背後で戦う彼は、既に死したものだ――
かつて、これと同じことが起こっている。ヨロクからランデルへ帰る道の途中で、ゴートマンに襲われた時のことだ。
馬車諸共に吹き飛ばされて、アギトが失神して。そして……その存在を肯定するものが彼自身の中から消えて、彼の生き返りを証明するものが無くなったから……と。ミラはそう説明してくれた。
違ったのだ。彼は魔術によって――魔女の力を模倣した魔具によって、あの暴風をやり過ごしていたわけではなかったのだ。彼は……アギトは……っ。
「――ド――ラーフ――――」
「――揺蕩う雷霆――っ!」
ここにいた。巻き上げられ、吹き飛ばされ、一切の抵抗を許されないままに地面に叩き付けられて、ここで死を迎えようとしている。ここで……自らを肯定するすべを失いつつあるのだ。
思い返せば違和感はあった。魔具とはそもそも刻まれた魔術式を起動させるだけのものだ。それなのに、彼はまるで自らが組み上げた魔術のように、さまざまな応用をしてみせていた。
たとえミラがどれだけ正確な予想をして準備していたとしても、絶対に成り立たない。いくつかの複合的な使用方法を伝えたとしても、作ったものと扱うものが別なのだ。たとえアギトとミラが強い絆で繋がっていようとも、他者であることには変わりないのだから。
いけない。分かってしまったら、納得してしまったら、すべての事象がそれを証明するものに思えてしまう。
まだここに横たわっているのがアギトと決まったわけではない。ここにいるアギトが本物で、後ろで戦ってくれているのが幻想の彼だと証明するものもない。ここに倒れているアギトが瀕死だなどとは……見ていないのに分かる筈が……っ。
「――っ。私が出来ることは……貴方にしてあげられることは無いのですか……っ」
顔の形は分からない。けれど、途切れ途切れに聞こえる声が彼のものであるとは分かった。後ろから聞こえる声と目の前で聞かされる声とが同じものだと、否応にも分かってしまった。
その鼓動が弱っていくのが分かった。戦っている筈の彼の早い脈は予想するしか出来ないのに、ここで倒れている彼の脈が薄くなっていくのは手に取って理解出来てしまった。
私に出来ること、彼にしてあげられることなど、何も――
「っ。ユーゴ――っ! ユーゴ! 聞いてください!」
――何も無い――かもしれない。けれど、私でなければ――――無力でなければ何かある筈だ――。
目の前の彼を救う。今にも絶えてしまいそうなその呼吸を繋ぐ。その為には、この戦いをすぐに終わらせる以外に選択肢は無い。
ならば請うしかない。それを願い、託し、命令するしかない。私にはその力が無い。けれど、それを可能とする力を知っている。そんな強さが手を貸してくれている。だから――
「――急いで――急いでください――っ! 急いで魔女を――このままでは――――」
「――? フィリア?」
このままでは――――なんだ。このままではアギトが死んでしまう……と、今こうして戦ってくれているアギトにも聞こえる声でそれを宣言する……のか……?
強烈な違和感と恐怖が言葉を止めた。食い止めた。止まってくれた。あるいは私は、取り返しの付かないことをしようとしていたのかもしれない。
もし――もしも、アギトが自らの状況を自覚したらどうなってしまうのだろう――。それは、その結果は、やはりこれも目の当たりにしているのだ。
「――っ。こ……このままでは貴方の体力がもちません! 腕が折れて血が流れているのです! 時間を掛け過ぎれば……」
「なんだよ! そんなことか! 言われなくても分かってる! だらだらやるつもりなんて最初から無い!」
真っ暗な何かにミラが噛み付いて、そしてアギトが目を覚ました時。その異様はあっさりと幕を閉じた。いや……現実が幕を上げた……のかもしれない。
彼が自らを知覚した時、この幻想は終わる。消えて無くなって、効力も失う。失って……力が無くなれば……
この場所には、無力な私と、大怪我をしたユーゴと、もっと重篤な状態にあるアギトと、そして無貌の魔女だけが残される。戦う力のすべてを取り上げられて、最も危険な状況に取り残されてしまうのだ。
それは全員の死を意味する。ユーゴひとりでは魔女と渡り合えない以上、私もアギトも……そして、逃げてくれた部隊も、魔獣を抑えてくれているミラも。そして……この国のすべても。何もかもが残らず消滅する。してしまう。
「私に……私に何が出来るのですか……ッ。私には、何も……」
このままではアギトが危ないかもしれない。けれど、この戦いを放棄すれば、アギトも含めた全員が死ぬ。私に突き付けられた選択肢は、この時にもやはりひとつだけだった。
アギトを見殺しにして勝機を追う。それ以外のすべてには滅びの未来しか待っていない。
「……どうして……っ。どうして、貴方が……っ。私はどうして、貴方を…………」
触れている地面が……アギトの身体が、少しずつだが熱くなっているのが分かった。戦いと同期して――誤認している興奮に、動くことも出来ない身体が高揚しているのだ。
私には何も出来ない。私には彼を救うすべが無い。私には……
ユーゴを頼ることも出来ない。ただ、黙って待つしか出来ない。
自らの手でも、誰かの力を頼っても、私はこの戦況を動かすことが出来ない。私はアギトに……これまであんなに助けて貰った彼に、恩を返すことも出来ないまま……っ。
「――――白銀の抱擁――――っ!」
声が聞こえた。言霊だ。幻想の言霊だ。無敵の防御力を誇る、魔女の力を模倣した魔具の、その言霊だ。
私にはもう何も見えていなかった。背後の戦いも、目の前にある筈のアギトの顔も、何も。何も見えないから……何も見ていないから……
「――――排除を――――」
「っ! しまっ――」
突如、頭から水を浴びせられた。熱い熱い、煮えたぎった湯のようだった。けれど……それが水でも湯でもないことは、頬を伝うそれのニオイと色に理解した。
「――っ! アギトぉ――――っ!」
「え――?」
ユーゴの声が聞こえた。悲痛な叫びだった。植え付けられている恐怖心を揺り起こすような、二度と聞きたくない――かつても耳にした声色だった。
振り返ればそこには、砂の槍で背後から左肩を貫かれたアギトの姿があった。夢想された筈の、幻想の筈の、最強の筈のアギトが――
「――っ。弾ける雷霆!」
肩を貫いた槍を、アギトは魔術の力で弾き飛ばした。青白い稲妻が地面にまで続く槍を覆って、砂は一瞬で砕けて吹き飛ばされる。けれど……
アギトの肩の傷が塞がることは無かった。かつて見たように、死をも超越した姿はそこにはなかった。そして――それを思い、考えたのは私だけではなくて――――
「――? 確認、出来ませんでした。不自然な、不可解な、不思議な――――脅威が、異様が、奇態が――――確認、出来ませんでした――」
「――っ! いけない――ユーゴ――っ!」
全身に怖気が走る。これから起こることを予感してしまったのだ。これまで抑えられていたものと、それが抑えられていた理由を理解したから。
次の瞬間に、アギトの両足の膝から下が消え去った。切り取られて、血をこぼしながらどこかへ飛ばされてしまったのだ。
魔女は理解したのだ。それが間違いでも、曲解でも、とにかく納得してしまった。目の前にいるのはただの人間で、かつて自らを震撼させたものではない。恐怖は必要無い。
魔女は魔法の力をアギトへの攻撃にも使用し始めた。無効にされる、もう一度恐怖を繰り返されると嫌悪して避けていたであろうそれを、嬉々として振るい始めたのだった。




