第五百三十一話【銀】
そこには白銀の輝きだけがあった。炎の軌跡として残る筈の赤も、砂を払った後に射し込む筈の黄色も、彼の黒い髪も目に入らないくらい、眩い白銀だけが。
ふたつの魔具を起動させた……のだろう。その姿は、人のそれとは少し違うように思えた。類似する例を挙げるのなら、黒い翼を背負ったゴートマンか。あるいは、かつて彼が見せてくれた幻想の大魔導士の姿だろう。
陽の光を浴びずとも煌く片翼をはためかせ、彼は私達の前に立っている。その背をこちらへ向けて――焼かれる魔女を睨み付けて。正義の勇者として、この場所に戻って来てくれたのだ。
「……それ、お前……何がどうなって……」
「知り合いの力を真似したんだ。って言っても、やってくれたのはミラだけどな」
知り合いの力。と、彼はそう言うと、誇らしげに翼を見せ付ける。とてもとても嬉しそうな顔で、自らに与えられた祝福を子供のように自慢していた。
「……さて。そういうわけだ。さっさと起きろよ、貌無し。魔女の力がお前だけのものだと思うな」
いつか、ある種の諫言としてミラから聞かされた話だ。かつてのアギトは、様々な世界を渡り、救い続けたと。その中には、魔女を定義する世界が存在したのだと。
彼が今手にしているのは、その力……なのだろうか。その場所で見た、触れ合った、親交を深めた魔女の力の、その模倣。ミラが紡いだ、魔女として十分な力量の魔術、その魔具。だとすれば……
「……っ。アギト、その力は……その力では……」
「分かってます。でも、そういう作戦ですから」
それはどこまで行っても本物の魔女の力ではない。ミラの力の一端、欠片。つまるところ、あの魔女にとっては些細な変化に過ぎない。
不意を突いたから、理解される前の急襲だったから、精神的な動揺が見られたから、だから成功した。と、そうしてしまっても問題無いだろう。
もしも魔女が万全な状態で、冷静に立ち回ったならば、彼のこの力も通用しないと考えるべきだ。
そう。彼ひとりでは……
「……というわけだから。腕一本でもやって貰わないといけないんだけど……どう?」
「どう……ってなんだよ。お前がいなくてもやるつもりだったし。そっちこそ、使い慣れてないんだろ、それ。足引っ張るなよ」
けれど、作戦はそうではなかった筈だ。アギトが特別な力を匂わせて、警戒させて、その隙をユーゴが突く。この新しい力は、この作戦にはうってつけのものだろう。
事実、彼は魔女を焼いたのだ。もっとも……先ほどは真っ二つに両断した筈だったわけだから。これもやはりダメージなど無かった……と言われてしまうと、こちらとしてはいい加減にしろと怒鳴って絶望するしか無いわけだが。
しかし、恐れは買った筈だ。アギトの在り方の変化に、その力に、魔女は更なる警戒心を抱いて然るべきなのだ。
まだ勝機はある。まだ、こちらには手が残っている。ユーゴの負傷は大き過ぎる痛手だが、それでも彼自身が折れていないのならば、まだまだ……
「……っ! フィリア、じっとしてろ。動くぞ、アイツ」
「っ! ユーゴ、気を付けてください。先ほどの様子を見るに、魔女は貴方に対しては警戒心を抱いていない……不必要に慎重になってくれてはいませんでした。ほんの一瞬でもアギトから貴方へと注意を移されれば、その瞬間には……」
殺されるかもな。と、ユーゴはそう言って……笑った。半分諦めたような顔付きだったが、その諦念の根底にあるのは絶望感ではない。
悪く言えば開き直っている。良く言えば……これもやはり、開き直っている……なのかな。
アギトがいなくなって、自分も大怪我をして、そして……死を覚悟した。その事実、経験があるからこそ、もういっそ……と、腹を括っているのだろう。
「さてと……じゃあ、アイツの攻撃はなんとかするから、ちゃんととどめ刺してくれよ」
そう言い残すと、アギトは走り出し――いや、空を駆けた。片方しかない翼で、もの凄い速度で飛行して――――
「――あ――っ!? ば――ぼっ――いでででででで――っ!」
……魔女の懐に飛び込む前に地面に叩き付けられ、自らの推進力によってしばらく引きずられてしまった。あ、あの……?
「ぺっ! ぺっ! 砂! 口に砂入った! ぺぺっ! じゃなかった! 白銀の片翼――っ!」
慌てて立ち上がり、ばたばたと砂を払って、それからまた言霊を唱え直して、アギトはもう一度強く羽ばたいた。
なるほど、魔具の効果が弱まっていた……のだろう。相当高出力の術に見えるし、一度の起動では長時間持続しないのだ。だから、もう一度言霊を唱えた今ならば、今度こそ魔女の懐まで――――
「――ぼ――びっ――ばばばばば――ッ!? げほっ! げほっ! う、上手くいかない!」
「――っ⁈ な、何をしているのですか――っ!?」
……懐まではまったく届かず、それどころかまったく見当違いの方向へと飛び出して、そして……また、激しく地面を転げ回った。
もしや……もしや、上手く制御出来ていない……のか……? 制御出来なかったから合流が遅れた……制御出来るようになったから戻って来られた……のではなく、まだ制御出来ていないけれどたまたま復帰出来た……だけなのではないか……?
いけない。思ってはいけない、考えてはいけないと分かっているのに、途端に不安が押し寄せて来る。先ほどあんなに頼もしく見えたアギトの背中が、白銀の翼が、砂まみれの煤まみれで、見ていられないほどみすぼらしい姿に……
「――っ! アホ! 遊んでる場合じゃない!」
「――え――うおっ⁈」
っ! わ、私も呆けている場合ではなかった。まだ飛行の魔術……? だと思われるものを制御下に置けていないアギトに向かって、炎の波が襲い掛かる。それは……やはり、魔女の攻撃だった。
アギトはそれをすんでのところで回避して、転げて、転げ回って、そして大急ぎで体勢を立て直した。空も飛べず、地面を駆けまわって、新たに手にした力を使いこなす暇も与えられずに。
「――排除を。脅威の、異様の、排除を。マナの、揺らぎを、確認しました。不自然な、不可思議な、事象は、ありません。理解可能な、値を、なぞるに、過ぎません。対処を。そして、排除を」
「……っ。やってみろよ。こっちには三人分……それも、全員漏れなく美人な魔女の力があるんだ。しかもそれを、宇宙一可愛い妹が準備してくれてるんだ。何をどうやっても負ける道理は――――」
アギトが巻き上げた砂煙の中から魔女が姿を現し、彼と向き合ったその瞬間。些細な予備動作も無く、また炎がアギトを襲った。だが――
「――っ! 対処を――」
それが彼を焼くことは無く、むしろどうしたわけか魔女を飲み込まんと逆流し始めたのだ。
先ほども同じことが起こっている。彼が戻って来てくれてすぐ、私が歓喜に気を緩めたその瞬間に。
「……攻撃を……無力化している……いえ。攻撃そのものを跳ね返して……」
アギトには傷ひとつ付いていない。それどころか、自らを巻いた炎に熱がるそぶりも見せていない。いや――迫った炎が彼を覆うことすら無かったのだ。
「――白銀の抱擁――。こっちは散々使ったし、お前の攻撃も嫌と言うほど見てるからな。やらなくなって久しいけど、身に付いたジャスガのタイミングは外さないよ」
じゃす……? 分からない単語も含まれてはいたが、どうやらこちらの魔具については使い慣れている……ようだ。
となれば、これほどの朗報は無い。今のは防御の魔具……それも、反撃まで含めた完全な防御力だった。
飛行の魔具は使い慣れていないと言っていたが、しかし防御さえ硬いのならば大きな問題は起こり難い。完全に不意を突かれた、反応が間に合う筈も無いようなものにさえ対処出来てしまうのだから。
「……で。これはゲームじゃないからな。そっちの攻撃にしかジャスガ判定が無いなんて話はどこにも無い。そういう――わけだから――っ! 燃え盛る紫陽花――っ!」
防御は完璧だ。と、私が安堵した時に、アギトは攻撃魔具の言霊を唱えた。それはすぐに深紅の炎を噴き上げて、そして――
「――な――っ! アギト、何を――」
炎がアギトの身体を包み込んだ。もしや、新たな強化魔術か……とも思ったが、しかしその言霊はすでに一度耳にしている。それは間違いなく直接的な攻撃魔術で、つまり……炎は彼自身を――
大きく膨れ上がった炎は、突如渦を巻いて急激に萎んでいった。しかし、完全に消えることは無い。消えず、絶えず、けれど延焼もせず……
そして、アギトの姿がまた見えるようになった。炎が小さな球状にまで収まって、視界を遮るものが無くなったから。炎の中からアギトの顔が見えて、その目が魔女を強く睨んでいて……
「――白銀の抱擁――っ!」
もう一度唱えられた言霊によって、圧縮された炎は容赦無く彼の眼前を焼き払った。本来発揮される筈の攻撃力よりも鋭利で、瞬きも間に合わないほどの速度で、炎は一直線に魔女まで伸びる。
攻撃を跳ね返すだけのものではない。これは、魔術そのものの効力を書き換えてしまうものだ。それを理解したのは、魔女がそれまでには見せなかった速度で炎から脱出するのを見てからだった。




