第五百二十九話【吹き荒れる】
魔女は死んだ――と、思っていた。頭から縦に両断されて、完全に絶命した――筈だった。
声が聞こえた。貌の無い、口の無い魔女の声が。
――排除を――。と、それまでと同じ言葉を、それまでとは違う意味合いで。
それが聞こえたからか、それは無関係なのか。分からないが、ユーゴもアギトも高い緊張感を持って周囲を警戒していた。死した筈の魔女ではなく、声のしたどこかでもなく、何も無い筈の辺り一面を。
なのに――
「――――っ! 揺蕩う――くそ――――」
「アギト――っ! こっち掴ま――――うわっ!」
それは、突如としてふたりを襲った。目に見えないものではない。理不尽な魔法ではない。だが、とても信じられない攻撃……いや。とても信じようの無い光景だった。
ふたりを襲ったものは、石つぶてを含んだ砂だった。あるいは、砂を巻き上げた突風……だろうか。魔術として再現可能な、極小の自然現象のひとつ……だろう。だが――
「――こんな――っ。こんな規模の魔術がこの世界には存在するのですか――」
その威力は、規模は、私の知るそれとは桁が違った。
吹き荒ぶ突風は地面を抉り、木々をなぎ倒し、そして巻き込んだものすべてを凶器に変えて暴れ狂う。
ユーゴもアギトもその風に吹き飛ばされ、煙った光景のどこかに消えてしまった。石つぶての濁流のようなその渦のどこかに飲み込まれて……
「――ユーゴ! アギト! そんな……っ。ふたりとも! 返事をしてください!」
それは、これまでに見たあらゆるものよりも絶望的に見えた。転移の魔法などは、いっそ現実味の無いものとしてあってくれたから。だから、それが何をもたらすのか、そしてそれが突破されない要因が何かと思い浮かばなかったから。
だが……だが、これは……っ。現実を突き付けるようなそれは、熱気と共に飛来する竜巻にも似た破壊を繰り返している。いや……自然に発生する災害とまったく同じ、人間では防ぐことも耐えることも出来ない事象にしか見えなかった。
これに巻き込まれれば、頑丈な砦さえ粉々に砕かれてしまう。こんなものに飲み込まれてしまったなら、人など形を保つこともままならない。よしんば形を保ったとしても、遥か上空で投げ出され、前も後ろも分からぬままにどこかへ叩き付けられて死んでしまう。
これでは……身体能力について特別なものを持たないアギトはもちろん、いくらユーゴとて足も付かない状況では……っ。
「……ユーゴ……アギト……っ。返事を……ふたりとも、返事をしてください……」
返事など……っ。もう、風がすべてを破壊する音しか聞こえなかった。つい先ほどまで勝利を握っていたつもりだったのに、この手にはもう何も握られてなど……
「――排除を。脅威の、排除を。人の、生命活動の、平均値から、大きく逸脱した、奇態の、排除を」
「――っ! 魔女……」
なすすべも無く、私はその嵐が止むのを待つしか出来ない。そしてそれの終わりがいつ来るかなど、誰も知る由は無い。ただひとつの存在を除いて。
声が聞こえた。排除を。と、それまでと変わらない言葉を繰り替えす声が。
魔女だ。無貌の魔女が――両断された筈のかの異形が、声の聞こえた方に立っている。まだ見えないその砂嵐の向こうに、そんな光景を勝手に思い描いてしまった。そして……
それは、すぐに現となった。ふたつになった筈の肉体はまたひとつに戻っており、斬り落とされた腕も両方共が揃ったまま、それはゆらりゆらりと嵐の中から歩み出て来た。
「――排除を――」
「っ。ユーゴ――――」
先ほどまで私は何を見せられていたのだ。私達は、ぬか喜びの勝利を手にして、この怪物の手のひらの上で踊らされていたとでも言うのか。
ふざけるな。と、怒鳴り付けたい。この状況を、この惨状を、この悲劇を、怒鳴り付けて仕舞わせてやりたい。
だが、これは演劇ではない。読み物でもなければ妄想ですらない。怒鳴ったとて撤回などされないし、怒鳴り付ける相手さえ存在しない。この理不尽は、この敗北は――
「――――フィリア――――ッ!」
「っ! ユーゴ!」
声がして、そして嵐が切り裂かれた。文字通り、見ての通りに、真っ二つに。砂で濁った視界のど真ん中に、一筋だけ良好な景色が取り戻される。その先には……ユーゴの姿があった。
「――うぉおおお――っ!」
振り抜いた剣を構えなおし、そしてもう一度横に薙ぎ払う。すると、嵐はまた更に削り取られて消え失せる。私と、無貌の魔女と、ユーゴと。三つの影が何に遮られることなく地面に伸びると、彼はまたもの凄い勢いでこちらへ駆け出した。
「――排除を。特異な、奇態な、存在を――」
「――うるさい――っ。うるさいうるさい――っ! いい加減にしろぉ――っ!」
嵐が元の形に戻るよりも速く、彼は魔女の袂まで剣を伸ばした。だが……
それが魔女を断つことは無く、空を斬って音を鳴らした。そして、また元に戻り始める嵐から逃げ出して、ユーゴは私の前まで…………っ!
「ユーゴ……貴方、その腕は……」
「アホ、間抜け、デブ。怪我くらいする、いちいち騒ぐな」
怪我くらい……では済まない。済ませてはならない。ああ……なんてことだ。
嵐に飲まれてもなお、ユーゴは無事でいてくれた。だが……彼の右腕――利き腕は、あらぬ方向にへし曲がってうっ血してしまっていた。
「これでは……っ。手当てを……せめて手当てをしなければ……」
「……そんな余裕があったら良かったけど。フィリア、下がってろ」
これではもう剣を握れない。これでは到底全力を出せない。これでは……っ。だが、それを治す猶予も与えられていない。私達の前には、まだ魔女が健在なのだ。どこにも傷を負っていない、理不尽な力が。
「なんか、やり返された気分だ。さっき俺が腕斬り落としたから。でも……なんか、いつの間にか治ってる。なんだよそれ」
ふう。と、ユーゴは小さなため息をついて、そして……魔女から注意をそらさないままに、周囲の様子を確認し始めた。
しばらく……そう、しばらく。念入りにとも言い替えられるだろうか。ゆっくりと状況を確認し直して……そして……また、今度は大きく息を吐いた。込み上げてきたものを押さえ付けるように、怒りを鎮めるように。
「……アギトは大丈夫。チビがいろいろ渡してた……いろんな状況からでも生き残れる道具を貰ってた。そういうの無くても、アイツは逃げるのは上手かったから。だから、アギトは大丈夫」
「……ユーゴ……」
すう。ふう。と、何度も何度も深呼吸をして、ユーゴは肩を震わせながらそう言った。そう言って自らを鼓舞するしかなかったから。
大丈夫……だと、そう考える方が難しい。もちろん、アギトならばきっと……とも思っている。思っていても……っ
「……不思議な、個体が、ありますね。かつて、対面した、人の、幼体と、同固体であると、認識します」
「……覚えてはいるんだな。ムカつくな、なんか。いっそ覚えられてない方がまだマシだった。その方がずっと……」
まだ立ち直ったとは言い難い。それでも、待ったは掛からない。動揺の収まらない内に、魔女はユーゴへとゆっくり近付いてくる。ゆっくり、ゆっくりと。多少知識のあるものを見付けて、それを再確認するように。
「……余裕ありそうだな。ムカつく。本当にムカつく。アギトさえ倒したらもう大丈夫だって、そう考えてるわけだろ。ああもう……本当に……っ」
「……感情の、起伏が、見られます。怒気に、似た、揺らぎを、観測しました」
近付いて、近付いて……そして、魔女は遂にユーゴが剣を振るえば両断される間合いにまでやって来ていた。
慢心ではない。油断でもない。これだけのことをしておいて、そのような緩みは一切存在しない。そのことは、彼が斬り掛からないから――斬り掛かれないから、それだけで証明されていた。
魔女はユーゴを脅威としては見ていない。あの時と同じだ。無貌の魔女は、ユーゴの力を圧倒的に小さなものとして認識している。
何があっても対処出来ると思えば、魔女は何をする。殺すのか。それとも、生かして逃がすのか。答えは……とっくの昔に聞かされている。
「――親愛する、ものが、望んだ、通りに。貴女を、貴方を、貴方達を。絶命させ、約束を、果たしたいと、思います。これは、自己意志による、決定です」
「……そうかよ。じゃあ――やってみろ――っ!」
これからお前達を殺す。約束の通りに殺す。かつて伝えた通りに殺す。ゴートマンが望んだ通りに、ふたり揃って例外無く殺す。魔女のその言葉に、ユーゴは怯むことなく剣を振り抜いて――
「――対処を。人の、幼体としては、破格の、運動能力を、持つ、個体への、対処を」
「――っ。フィリア――っ!」
からん――と、金属音がして、それからすぐに私の身体は宙に浮かび上がった。その直後にもう一度、似たような金属音がした。一度目は、刀身が地面を転がる音。二度目は、残った残骸を地面に叩き捨てる音。そして、二度の音の後には――
「――っ! くっそ――くそぉおお――ッ!」
ユーゴは左腕一本で私を抱き上げ、そして全速力で走り出していた。何かから逃げる為に。後方から聞こえる。何もかもをなぎ倒す音から逃げる為に。魔女の繰り出した、また新たな嵐から逃れる為に。




