第五百二十四話【幻想の勇者】
窓の外の景色がおかしい。まるで空でも飛んでいるかのように、木々を、地面を下に見下ろして、平行も保てないでふらふらしている。
その原因はすぐに理解出来た。そして、それに対処する為にふたりが動き始めたのも分かった。
ユーゴが、アギトが、それぞれに戦闘準備を始めて、ぐらつく馬車の中でも臨戦態勢を整える。この状況を脱する為に。そして、この状況を脱した後の為に。
だが……っ。
「――きゃあっ!」
ユーゴがこちらへ向かうのが見える。宙に持ち上げられた馬車の上を駆け、この馬車へ飛び移ろうとする姿が。けれど……
彼が合流するよりも前に、馬車は大きく傾けられ、そして浮遊感を失った。
ぐわんぐわんと振り回されるように回転しながら……上も下も分からないままに、ただ落下が始まったことだけを理解する。そして……地面に叩き付けられたならば、私もアギトも助からないことも。
そんな状況に、アギトは必死に抵抗しようとしていた。魔具を起動し、身体能力を向上させて、せめて脱出を……と。だが、それは成らなかった。成せなかった。
簡単ではないのだ。通常ならば陥ることの無い状況において、本来よりも高い運動能力を発揮する魔具を用いれば、いくら冷静に対処したとしても、望んだ通りの動きをこなすことは不可能だった。
アギトは私に向かって懸命に手を伸ばした……が、私はそれを掴むことが出来なかった。私も、彼も、どちらも床に足が付かなかったから。身体がどれだけ強化されても、推力を得る手段が無くて――
「――――っ」
衝撃は無かった。音も無かった。ただ、視界が真っ暗になった。それが終わりの景色なのかと、一瞬の内に絶望感が襲った。
私は死んだのか。なんの抵抗も許されないままに、呆気無く殺されてしまったのか。あれだけ緊張しろと、警戒しろと自分を戒め続けたのにもかかわらず、魔女の無貌を見ることすら叶わないまま――
「――間に合った……っ。フィリアさん!」
「え……? アギト……?」
声が聞こえた。真っ暗な中、何も見えない中、何も聞こえないと思っていた中で、アギトの声が聞こえた。間に合った……と。
それから私は、自分が目を瞑っているのに気付いた。ああ、いや。もう瞼など開かないものだと勘違いしていた……のか。ゆっくりと目を開いて……そして、それでもまだ暗い景色の中で、青白い光が見えて……
「――ベルベット君! 浮かせて! この馬車だけは今すぐに浮かび上がらせて!」
まだ状況を飲み込めないでいる私を他所に、アギトはどこかへ向かって叫んだ。ベルベット……と、彼が呼んだその名前に、今のこの事象をようやく理解する。
「……助かった……のですね。あの状況からでも、ベルベット殿は……」
「意外と猶予がありましたからね。まだ子供とは言え、流石はマーリンさんの弟子ってとこです」
これはかつて、出発前と撤退時に見せて貰ったベルベットの錬金術だ。地面を液化させ、物質を沈めて運搬する。どうやら私達は、柔らかい泥のプールに助けられたらしい。
「……っ! 浮き始めた……フィリアさん、気を付けてください。あんな攻撃があった以上、あの魔女がいるのはほぼ間違いないです。出たらすぐにユーゴと合流して……」
そこまで言って、アギトはすごく不安そうな顔を見せた。本当にこの場に残るのか……私を残しても問題無いか、部隊と一緒に撤退させるべきではないかと考えているのだろう。
「……部隊はこのまま撤退させ、私はここに残ります。もしも私を狙われたならば、せっかく逃がした部隊のすべてを失いかねません。それに……逃げるよりも、ここに残る方が安全とする見方もありますから」
「……絶対なんとかします」
これはずっと前から決めていたこと、作戦開始時点からの決定事項だ。私は最前線に残り、部隊が狙われる可能性を出来るだけ低くする。
そもそもの話、ユーゴもアギトもミラもいない部隊に同行する方が危険なのだ。根本的なところを覆してしまうくらい、あの魔女の力は強大で理不尽過ぎる。そこを勘違いしてはならない。
ぐっと拳を握って、そしてその時を待つ。馬車が水面に……地面に浮かび上がり、魔女と向かい合うその瞬間を。
「――すう……揺蕩う雷霆――改――ッ!」
ゆっくりゆっくりと浮かぶ馬車の、その箱の隙間から光が入り込んできたその瞬間。アギトはまた新たに言霊を唱え、身体強化の魔術を掛け直した。そして――
「――ユーゴ――っ! 無事だよな! 行くよ!」
「――っ! うるさい、命令すんな!」
馬車が完全に浮かび切る前に、彼は馬車から飛び出して行った。それを追って、私も荷物を持って箱の外へ……ふたりから見える場所へと移動する。
木箱を地面に投げるように置いて、そして私は馬車を背にして周囲を見回した。そこにはユーゴの姿もアギトの姿も無く……それが意味するものだけを残していた。
「――弾ける雷霆――ッ!」
「――うおおおっ!」
地面に残された三つの影の、その真上を見上げれば、ふたつの光が煌いたのが分かった。
ひとつは青白く、激しい光。もうひとつは真っ白で、一瞬だけの光。雷電を纏ったアギトと、剣を振るったユーゴの残した、攻撃の痕跡だ。
そして……それらが向かった先にある、輝きなどはどこにもない存在。顔も無く、感情も無いように見える、災厄そのものの化身のようなそれこそ――
「――無貌の……魔女……っ」
アギトの拳とユーゴの剣とがわずかな間にそれぞれ魔女に命中した……ように見えた。けれど、それが何かの成果を目に見える形で残すことは無かった。
「――――揺らぎを、感知しました。ひとつは、マナに、わずかな干渉を、するもの。ひとつは、一切の、干渉を、果たさないもの。認識しました」
「――っ⁈ こいつ――」
――ゴウ――と、鈍い音がして……っ。
「うっ……うぅ……」
音の瞬間に、私の身体はまるで鉛のように重たくなった。それに……耳が聞こえない。先ほどの音による障害か、嫌な耳鳴りだけが残って、他の音が一切聞こえない。
いや、耳だけではない。吐き気もする、身体の末端も震える。これは……恐怖による束縛ではない……っ。そんな生易しい、私でどうにかなるものではない。
「うぐ――う――っ」
圧力だ。どうやっているのかは知らないが、魔女を中心に圧力が変化している。密閉した容器の中で湯を沸かしたように――あるいは沸かした湯を冷やしたように、ここら一帯の空気圧が異様な変化を続けているのだ。
私ではとても抵抗など出来そうにない。目眩もして、立っていることもままならなくて、遂には視界がぱちぱちと明滅し始めた。このままでは意識も切れてしまうかもしれない。だが――
「――三又の槍灼――ッ!」
言霊が聞こえた。そして、それが炎を放った瞬間に、耳鳴りがわずかにだけ解消される。
「――まだ――まだまだ――まだまだまだぁあ――っっ! 爆ぜ散る春蘭――っ!」
アギトが放ったのは、直進する三又の火柱と、彼の背丈ほどもある真っ白な火球だった。そしてそれらは、ここら一帯の空気を焼いて――無理矢理に膨張させて、目まぐるしく変わり続けた圧力を一定値で安定させてくれた。
「――まだ――ッ! 狂い咲く鉄線葛――ッ!」
まさか……まさか彼は、無謀の魔女の攻撃を把握し、理解し、それを突破しながら攻める手を選んでいるのだろうか。
このひっ迫した状況で、命がいつ切れるかも分からない緊張感の中で、まさか彼は、これまでのいつよりも高い集中力で――――
「――っ。まだ――だぁあ――っ! 燃え盛る紫陽花――――ッッ!」
火柱が、火球が、火花が、そして目も開けていられないほどの火炎放射が、息つく間も与えぬままに魔女を襲う。間違いない。彼はこの圧力変化と言う理解し難い技を前に、高熱を発する術で拮抗しながら攻撃を加えている。
なんだ。なんなのだ。普段はあんなに自信無さげな顔をしておいて、この時この場でのこの振る舞いはどうしたものだ。
まるで……まるでその姿は、もうひとりの――――
「――――百頭の龍雷――――ッッ‼」
もうすっかり回復した私の耳に、鈍く長い轟音が届いた。一瞬の雷光と、そして雷鳴。彼が放ったのは、ミラの誇る最大の攻撃力だった。
「――アギト……っ! もしや、貴方は……」
魔具を使いこなす能力について、私達は既に彼の実力を知っていた――気になっていた。けれど、それはまだ一端でしかなかったのだ。
有事にのみ真価を発揮する。ミラのその言葉の意味を、彼女の不在によってはじめて目が向けられるものだ……などと、あまりに驕った勘違いをしていた。彼は――アギトは、名を残さなかった天の勇者は――
「――――まだ生きてるだろ――――出て来いよ――――っ! アイツが任せてくれた戦場で――俺は絶対に負けない――。絶望なんて――たったひとつだって許さない――っ!」
その背中に、かつて見た幻想の英雄の姿を見た。間違いない。彼は――亡ぼすものと呼ばれた彼の力は、未発の状況でなお力を発揮し得るのだ。ただひとつ、強さの一点のみに限って。




