第五百十八話【希望の旗を】
馬車が砦を出発してしばらく。魔獣との交戦ももう何度あったか分からないくらい繰り返された頃。一度だけ、私の耳に雷鳴が届いた。
「……ミラはもう辿り着いたのでしょうか」
それが自然現象出ないことはすぐに分かった。きっと、ミラがあの魔獣の足下へ……あるいは、それほどは近付かずとも、射程圏内にまで迫ったのだろう。
そして、攻撃が始まった。かつて魔王をも倒した天の勇者による、地形をも破壊しかねない極大の魔術による攻撃が。
「前の方は片付いたみたいだな。アギト、後ろは大丈夫か?」
「うん、問題無い。今のところは、だけど」
そのことはふたりも既に感じ取っているだろう。それでも、彼らはそのことに気を向けない。自らがすべきこと……今、この部隊に襲い来る脅威への警戒を優先している。
「もしかしたら、魔獣を呼び出す力……転移の魔法は、かなり体力を消耗するのかもな。それで、今はあのデカいのを出したばっかりだから……」
「いや、それは無いと思う。前に戦った時はアレ出した上でまだ連発してたし」
転移、転送と呼ばれた力は、連発が出来ないのではないか。と、そんなアギトの推測を、ユーゴは実体験から否定した。
確かに、以前の戦いを思い返せば、無貌の魔女が体力を温存しようとするそぶりなどは見ていない。
あの巨大過ぎる魔獣を出すのも、魔獣の群れを降らせるのも、空間を切り取ってしまうのも、苦労して行っているようには見えなかった。
「やはり、一時も気を緩められないまま……なのですね。いえ……むしろ、窮地に陥っているからこそ、一切の慢心も無く迎撃してくる可能性も高いでしょうか」
「そう考えとくのが良いだろうな。だから……」
となれば……っ。あの時ユーゴと戦っていた時よりも、更に苛烈な攻撃を仕掛けてくる可能性も考えられる。
攻撃が感知出来次第、こちらは部隊を撤退させねばならない。ならない……が……
「どのくらい離れた場所から攻撃出来るのか……までは分かってないんだよな。もしかしたら、チビが雷ぶっ放すくらい離れてても攻撃出来るんだとしたら……」
「……シャレになってないよ……はあ。もしそうだとしたら、俺達だけで歩いて探さなくちゃならないのか……」
部隊への被害を減らすのならば、当然そうなるだろう。だが……いや、この場合は違うか。
「……いえ。それで貴方もユーゴも辿り着く前に倒されてしまっては意味がありません。その場合は……魔女の姿を確認出来るまで、部隊を削られながらでも進み続けることになるでしょう」
そう、その筈だ。だからこそ、ミラはそう命令を下していた。ユーゴとアギトを、魔女の前まで送り届けろ、と。
ユーゴはそれをずっと前に理解していたようで、私の言葉に苦い顔を浮かべる程度だった。けれど……アギトはそれもイマイチ分かっていなかったようで、顔を真っ青にして俯いてしまった。
「……そっか。そう……なっちゃうのか」
もしかすると、それは理解し得ないもの……だったのかもしれない。特に、彼に限っては。
天の勇者として……いや。その栄誉を受けることもなく、ただの人として。それでも、勇者足り得る振る舞いをし続けていた彼にとって、他者は守るべきものなのだ。
それを、使い捨てて踏み潰して、その先で目的を達成する……などとは、考え付く筈も無かったのかもしれない。
そういった残酷さを知っているミラとも、そんな絶望を目の当たりにしたユーゴとも違う、平和に生まれ育ち、奇跡をまっとうして生きて来た彼だけは……
「そうならないようにすれば良いだろ。ヤバかったら俺がなんとかする。それで全部解決すれば」
そんな彼に、ユーゴはため息交じりに声を掛けた。そんな最悪は防げば良い。少なくとも、その力が自分にはあるのだと。
ユーゴの言葉を聞いて、アギトはゆっくりと顔を上げて……そして、まだ顔色は悪いままでも、少しだけ笑顔を浮かべた。
「……っ。そう……だな。いや、うん。ユーゴだけには背負わせない。その時は俺も……」
「いや、アギトは戦っちゃダメだろ。作戦なんだから、囮にするって。こっちから攻撃も出来ない状況で狙われたら全然意味無い」
浮かべて、少しだけ勇気を見せてくれた……のだが、ユーゴはそれをバッサリと切り捨てて、またため息をついた。その……そうですね。正論なので擁護も難しいのですが、しかしもう少し言葉は選んであげて欲しいところです……
「フィリアも、微妙にアホな顔してんな。俺が全部なんとかするから、ふたりともじっとしてろ」
「……はい。状況は関係無く、私は貴方にすべて任せていますから。頼りにしていますよ」
私にまで飛び火してしまった……。しかし、この口の悪いのは彼なりの気遣いなのだとは知っているから。確かな裏付けなどは無いのだけれど。それでも、緊張と不安とを和らげようとしてくれているに違いない。
「……それより、チビの心配するべきだろうな。さっき雷が落ちてからしばらく経つけど、それ以降は何も聞こえて来てないし。あれだけで倒した……わけじゃないのは、こっからまだアレが見えてる時点で間違いないわけだし」
「言われてみれば……そうだな。一撃だけで諦めた……なんてことは無いだろうから、そうなると……」
雷魔術以外の攻撃を試している段階……なのだろうか。あれだけ大質量の物体が標的となると、電撃にせよ火炎にせよ、攻撃として有効になるものは限られるだろうから。
「一発撃ったところで気付かれて、踏み潰された……なんてことになってなきゃ良いけどな」
「な、何故そんな恐ろしい話をするのですか……。ミラに限って、それは無いでしょう」
反撃によって戦闘不能になった……とは、通常ならば確かに考えられる可能性ではある。あるが、しかし彼女に限ればそれはあり得ないだろう。
ミラの性格は……どちらかと言えば、用心深い方……ではないのだろう。案外短絡的と言うか、後先や損得を考えずに行動を優先する姿は何度か見ている。
しかしそれは、そうしても問題を引き起こさないだけの能力に裏打ちされたものだ。少なくとも、彼女はたった一度の反撃で倒されてしまう……それで終わってしまうような状況を予知出来ないほど楽天家ではない。
「やはり、手探りで打開策を探しているさなか……と、そう考えるべきでしょうか。そして……」
だが、彼女ほどの力が、智慧があったとて、あれだけの大きさを前に打開するすべが見付かるとは限らない。
少なくとも、雷の魔術は彼女の得意とするものだ。言うなれば、切り札に相当するだろう。
もしも今、それが通用せずに新たな手段を模索しているのだとすれば……
「……っと。チビのことばっかり心配してる場合じゃなさそうだぞ。アギト、また後ろ……いや。俺より後ろを見張ってろ」
「え? うん、分かっ……ユーゴより後ろ……?」
私もアギトもここから離れた場所への不安に顔を曇らせていると、ユーゴはそれを振り払うようにと指示を出して、そして覗き窓から馬車の天井へと上って行った。残された指示通りにその姿を追い掛けると……
「……っ! なるほど、そういうことか。フィリアさん、後ろの見張りお願いします。さっきまでより……デカいし、多いです」
「はい、任されました。アギト、何かあれば……出来れば貴方には控えていて貰いたかったのですが、ユーゴだけでも手に負えないとなれば、どうか援護をお願いします」
ユーゴの背中の向こう、馬車の進む先には、遠目からでも分かる魔獣の群れが待ち構えていた。それも、人よりずっとずっと大きな個体の群れだ。
「ちょっと……ちょっとだけ、ですけど。動揺してるとこもありますね。あんなサイズ、ユーザントリアでだってそんなに見かけないですから。ヘインスさんや熟練の騎士のみんなはともかく……」
「まだ若い騎士や、それにギルマン達からはどうしようもない脅威に映っているでしょうね。こうなっては仕方がありません」
彼の力は温存する。と、そうして出発したものの、やはりこういった展開は十分に予測出来た。
それは当然、私だけの話ではない。当人であるユーゴが一番理解していたし、覚悟も準備も欠かさなかっただろう。だから、すぐに合流を企画して、アギトに見張りを引き継いだのだから。
「……出来れば温存したかった、休ませたかった。これは本心です。しかしながら、胸の内ではもうひとつの思いがあってしまう。彼ならば……彼が力を見せて、皆を鼓舞すれば、部隊は士気を取り戻し、揺らぐことの無い自信に後押しされながら進むことが出来るだろう、と」
「……そうですね。ミラもそうですけど、特別な力がもたらす希望は大きいですから」
もう小さくなってしまった背中から視線を切って、私は後方の見張りに付きながらそう言った。別にアギトに語ったわけではない。もちろん、彼に聞かれたくないわけでもないが。
自分自身に、そしてここからは聞かせられない部隊の皆に、ユーゴの活躍を通じて聞いて貰えればそれで良い。
彼は救世主だ。その素質を持つ者だ。彼が剣を振るえば、皆の勇気が奮い立つ。彼が号令を出せば、皆の思いがひとつになる。私は彼にそんな在り方を求めて、実現を目の当たりにしようとしているのだ。




