無題
「――――爆ぜ散る春蘭――――ッ!」
彼女の言霊をきっかけに、魔力は熱を生み始める。
意図して組み上げられた式によって熱は高められ、高められた熱はひとところに集まり、そして燃焼と言う反応を実現させる。
燃え盛るは魔力の球。その標的は、自身よりも遥かに巨大な魔の獣。母国にて天の勇者と呼ばれた彼女の意志は、その圧倒的な脅威の排除ただひとつのみ。
「――燃え尽きろ――ッッ!」
周囲を白く照らす火球は保持状態を解除し、そして彼女の意志を汲むようにゆっくりと前進を始める。
熱量による被害は無い。それは起こさせない。そうなるだけの式を組み上げた。組み上げられるだけの計算を積み上げた。積み上げられるだけの努力を繰り返してきた。
炎は反応として、そして事象として、魔獣の頭部から少し下……それが人と同じ形をしているのならば、胸部へと直撃する。着弾し、爆発し、多大な熱量をまき散らしながら……
「……ちっ。やっぱりそうなるわよね……」
それでも、その存在を焼きら払うには至らない。
彼女は計算する。目で見た光景を、状況を鑑みて、自らの術がもたらした結果を推測する。
火炎は有効打になり得ないか否か。その答えは……未だ出せるものではない。
炎は、熱は、生物にとって紛れもない致死要因のひとつだ。
肉体を形成する組織を焼き固め、機能を不全にする。たとえ硬い外郭に覆われていたとしても、その内側には必ず肉が存在する。であれば、高温による被害は免れ得ない。
しかしながら、先に放った火炎が障害をもたらしたようには見られない。それは何故か。答えはたったひとつ、単純なものだ。
「――ふふ――ふふふ。いえ、いえいえ。そうですねぇ。貴女ほどの天術師殿であれば、既にご理解いただけているかとも思います。思いますが……いえいえ。はい」
「……お前は……」
火力が不足している。彼女の炎では、魔術では、大き過ぎる存在を焼却するだけの熱量を生み出せていない。そんな答えはすぐに想像出来た。
「貴女の魔術はとても素晴らしい。積み上げられた智慧、繰り返された研究。そうしてもたらされたものは、最奥への道を進むものでないにもかかわらず、あらゆる術師の導き出した解よりも優れている。なんと暴虐、なんと理不尽。なんと残酷な才能でしょうか。はい」
「……ゴートマン」
けれど、その答えに意味は無い。彼女はまた思案に暮れる。正しい進化を――目の前の障害を取り除く為の発展を望む為に。
そんな彼女に声を掛けるものがある。それは、黒い翼を持つ――持っていた、ひとりの人間であった。人間のように見えるものであった。
「……動ける程度に痛め付けたつもりは無かったんだけどネ。どういうことかしラ」
魔人、ゴートマン。男はそう名乗り、そのように振る舞った。彼女の知る同じ名前の魔人と同じように、彼女の道行に立ちはだかるように。
この時からちょうど一日……それよりは少し短い時間の前に、彼女はこの男と対面している。対面して……そして、暴力による屈服に成功している。いや……
「死んだ……と、そうお思いでしたでしょうか。ええ、はい。私もそのように思いましたし、死ぬほど痛い思いもしました。貴女への恨みを抱きながら、このまま土に還るのではないか、と。はい」
暴力による惨殺に成功している……筈だった。
彼女の前に現れた男の姿は、目も当てられないものだった。
腕はへし曲がり、真っ直ぐに立つこともままならず、翼は折られ、顔面の半分が抉れている。自らがしたこととは言え、その結果が生きて目の前に立っていることには、彼女も驚きを隠せない。
「……そうネ。殺したつもりだったワ。勇者としてあるまじきことでも、そうでもしないとあっちがマズイと思ったかラ。人を守る為に鍛えた力で、本気で殺したつもりだった……のに」
「いえいえいえいえ! 滅相も無い! 貴女はまだその手を汚してはおられませんよ! はい」
彼女はかつて、勇者と呼ばれていた。そう名乗り、そうあるべく振る舞っていた。
人を守る。人を助ける。人を導く。そうあるべく振る舞うのだと、心に誓った。誓って……
「貴女は素晴らしい天術師で間違いありません。ですが……残念ながら、まだ不足でございます。はい。貴女では私を殺すことも、この十四番を停止させることも不可能。しかしながら、貴女はとても素晴らしいのでございます。ただ、この時にだけは不足と言うだけで……」
「鬱陶しい言い方してくれるわネ。言われなくても、現実見てたらそのくらいは分かってるわヨ」
男の言葉に、彼女は大層不機嫌になってしまった。未熟を嗤われたことが……ではない。男の無事を見て、少しだけ安堵したことに……自分の心の在り方に、だ。
人を殺すすべは手にしている。人を殺す覚悟は手にしている。人を殺す役割もかつては手にしていた。けれど、彼女は他人を殺したことが無い。それが、彼女を勇者たらしめる要因のひとつだった。
彼女は安堵したのだ。まだ、自分は勇者と呼ばれる気高さを失っていないのだと。自らの失策を前に、自己保身に因る安堵を覚えてしまった。誇り高い彼女は、それが許せなかった。
――だからこそ、彼女は勇者らしいのだが――
「……まったく、腹の立つ話よね」
「いえ、いえいえ。そう苛立たずともよろしいかと。そもそも、貴女以外にはあり得ないのでしょう。このような質量の物体を……生物を、どうにかしてしまおうなどと考えること自体が。それを望むだけの視野が、貴女以外には身に付いていない。むしろ、その事実を誇るべきかと。はい」
ぼそりとこぼしたひとり言に男が反応したから、彼女は目を丸くしてそちらを向いた。男を見た……わけではなくて。男の方を見た。その男を見たくなかったから、意図的に焦点をずらしたままに。
「言葉、分かるのね。なら、わざわざ慣れてないここの言葉で文句を言ってやる必要も無かったんじゃない。そういうとこまで腹立つわね、この腐れ瓢箪」
「これはこれは、失礼いたしました。しかしながら、私も貴女がどこの国の生まれの方であるかまでは存じませんでしたので」
男の反応、所作のひとつひとつに、彼女は苛立ちを増して行った。それを殺そうとしたこと、殺さなければならないと考えたこと、そして……そう思い実行したのに、殺せていなかった事実に。
「……でも、腹を立てないといけないのよ。私はそういう立場にいるんだから。お前みたいなのには分かんないでしょうけどね」
けれど、彼女はそれでも前を向く。もうその男へ興味を向けている場合ではないから。それは、自らに課せられた使命とは違うものだから。
「私の力じゃこれはどうしようもない。倒すとか倒さないとか以前に、気を引くことさえ……気付かせることさえ出来ない。前に立ってれば、気付かずに踏み潰される以外に無いんでしょう」
だから……彼女はずっと胸の内に書き留めていた結論を口にする。諦めるのだ、と。自らでは届かないのだと、たったひとりに向けて言葉を発する。
「私は勇者って呼ばれてた。世界を救った、魔王を倒した勇者だって。でも……それは違う。その私は私じゃない。私は……その重さを背負う前に、すべてを諦めて逃げ出したから」
独白にも似た言葉だった。けれど、それはたしかにひとりに向けて語られる言葉だった。
たったひとり、この場において声を掛ける相手がいる。掛けなければならない相手がいる。大切な半身ではない。共に戦った仲間でも、誓いを立てた女王にでもない。この場にいる、たったひとりに。
「私はただの旅人。勇者でも、魔術師でもない。世界を知りたくて殻の外へと飛び出した、それだけの小さな存在。魔王を倒した勇者でも、こんなものを倒せる魔術師でもない。なんでもないのよ」
彼女の言葉はたしかに届いていた。紛れもなく、その諦念は――後悔は、そのたったひとりに届いていた。届かない筈も無かった。何故なら……
「――いえ! いえいえ! 何をおっしゃいますか! まだ! まだ貴女は抗えるでしょう! はい。ささ、どうか。どうかその術を……研鑽を……ふふ。これまでに積み上げた……くくく」
彼女の言葉を聞いて、男は笑みを浮かべた。それはきっと、醜いと蔑まれる類いのものなのだろう。人の諦念を、後悔を、悲しみを食らって増長する。そういう類いの、おぞましい笑みだった。
彼女はそれを見て、またひとつの諦めを胸のうちに抱いた。これを……この存在を、邪悪を、自らの手では罰せない。自分では足りないのだと、またひとつの諦めを浮かべたのだ。
「……そうね。私はアンタには敵わないわ。届かない……決して。何をやっても、どう足掻いても、たとえどれだけの賞賛を受けたとしても、私はお前に届かない」
「――く――くくく――っ。いえいえ! 何をおっしゃいますか! 私など……私のような下等な天術使いなどが、よもや貴女ほどの天術師に……くっふふ……ぐふ……っ」
諦めたことは関係無く、彼女はひとまず身体の力を抜いた。いや……まったく関係無いわけではないのか。諦めたからこそ、それを選べたのだから。
彼女はもう一度男へと目を向けた。今度はきちんとそれを見る為に。見たくないと先ほどは忌避したものを、次にはしっかりと見据えて……そして……
「……だから、任せるわ。旅人の私じゃどうしようもない問題も、魔術師のアンタならなんとか出来るわよね」
任せる。と、たったひとりに……言葉を届けたかったそのひとりに、自らが背負った使命を受け渡そうとする。それを拒まれるとはわずかほども考えず――考える必要など無いと理解した上で。だから――――
「――――頼んだわよ、人造神性――――」
――――彼女は自らの肉体の主導権を手放し、そしてそのひとりに――“私”に、すべてを託して眠りに就いた――――
「――承認。全管理権、及び命令権とは無関係に、ただひとつの願いを受理いたしました。ミラ=ハークス=レヴ……いえ。貴女の言葉を借りるのならば、魔術師としての貴女がその願いを果たして見せましょう」
鬱陶しいわね。と、彼女の声が聞こえた。それは、口から出たものではなかった。胸の内から、身体の奥から、心の奥のひとつの部屋から聞こえた……賞賛の言葉だと受け止めるべきだろう。
「……? おや、どうなさいましたか。少し……いいえ。それよりも更にわずかに、雰囲気が変わったように見受けられますが……」
男の声が聞こえた。けれど……それへの応対は任されていない。魔術師が彼女に……旅人に任されたことは、勇者としての記憶と魔術師としての記録を用いた、この状況の打破。ただその一点のみだ。
「……しかしながら、私は抗議します。旅人のミラも、勇者のミラも。それに、供物としての私も、すべては同じひとつだと。レア様からそう教わった筈なのに」
不服はある。けれど、もう彼女は答えてくれない。拗ねているのだ。彼女は幼いから。私がそうあるように願い、そうあってくれたから。
願いは任された。ならば……すべきことはひとつだろう。彼女がこの場に求めたものは、旅人では届かなかったある極地の再現。つまりは……
「……任せてください。私は……魔術師は一部すらも欠かさず明確に覚えていますから」
魔力を練る――必要は無い。式を組み立てる必要も無い。それはとうに成されているのだから。たったひとり、勇者と呼ばれた私の手によって。
「……何を……しようとしていらっしゃるのか。貴女は魔術師で、であるならば……」
魔術師はただ、それをなぞるだけ。そして、かの事象を――かつて覚えた、たった一度の絶望を――恐怖を掘り起こすだけで良い。
かつて見た、純白の存在を――――
「――――其が神也――――」
奇跡は必要無い。私には、確かに手を掛けた地点がある。その事実さえあるのならば、勇者が信じた旅人と魔術師の力も掴み取ってみせよう。




