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異世界天誓  作者: 赤井天狐
第三章【たとえすべてを失っても】

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第五百十二話【現れ、駆け付ける】



 ミラの合流を待たずに部隊は砦へと戻り始めた。新たに襲い来る魔獣を退けながら、馬車は登り勾配をものともせずに加速し続ける。


「――魔弾の射手(バラッド・ヴォルテガ)――っ! これで……も、まだいるよな。くそ、キリが無い」


 それでも、状況は優勢とは言い難かった。予測していた地点での罠に遭遇し、それを乗り越え、そして無事に帰還を始めている。にもかかわらず、不安がとめどなく湧き上がって来る。


 その理由はひとつではない。たとえば隣で戦ってくれているアギト。彼が魔具の魔力残量を気にするそぶりをする度に、それだけでこの馬車の安全が瓦解して行く錯覚を覚える。


 たとえば今は姿の見えないユーゴ。彼が剣を振るい魔獣を斬り伏せる音がわずかな間でも聞こえなくなれば、それだけで前方部隊の安否が不確かなものになってしまう。


 そして……何よりも大きい不安材料は、まだミラが合流していないこと。魔獣にも、ゴートマンにも、魔女にも、あらゆるものにも後れを取らない、対応力に優れた彼女が追い付いて来ないことが、ただならぬ問題が迫っているのではないかと背筋を凍らせるのだ。


「……っ。アギト、私にも何か出来ることはありませんか。私にも……私でも戦えるような道具は……」


 焦りが生まれる。得体の知れない不安に、恐怖に、どうしても心が焦れる。そうして逸った気持ちでアギトに縋れば、彼は苦い顔で首を横に振った。私に任せられる仕事は無い……と。


「言霊を唱えれば魔具は起動します。でも……経験上、ぶっつけ本番でこれがいきなり的に当たることは無いです」


 的に当たらなければ……敵に当たらなければ攻撃力も意味が無い。いや、違う。的以外に当たってしまったなら、それは最悪の事態を引き起こすだろう。


 揺れる馬車の上、窓から見えるだけの狭い視界で、素早く動く魔獣の、その獰猛な攻撃性を前に、私がそれを正しく機能させられる道理はどこにも存在しない。そんなもの、私自身が一番分かっていた筈なのに。


「大丈夫……大丈夫です。魔力が残ってる間は、俺がこの馬車を全力で守ります。いざとなったらユーゴが来てくれます」


 アギトはそう言うと、手早く魔具を持ち換えてまた攻撃を再開した。


 自分の手で守る。それが不可能ならばユーゴが守ってくれる。そう言ったその後に、本来ならば続く言葉があった筈だ。けれど、彼はそれを口にしなかった。


 もしかすると、ミラは戻らないかもしれない。彼女のことだ、倒されてしまうなんてことは無いだろう。だが……私達が砦に戻るまでの間、ここからは見えない脅威の足止めに徹する可能性はある。


 それを考慮したならば、今ここにいる戦力だけで無事に帰還する必要がある。そうなってから覚悟を決めていては心が揺らぐから……と、彼はこの時点で腹を括っているようだ。


「――フィリア、まだ生きてるか。前の方は結構片付いたからしばらく後ろを見る。一回この大軍を処理したらまた前に戻るけど」


「っ! はい、ありがとうございます。どうか武運を」


 どすん。と、天井に何かが落ちてきた音がして、それからすぐにまたユーゴの声が聞こえた。本当に頼もしい、動揺も恐怖も一切存在しない、いつも通りの彼の声だった。


「ありがとう、ユーゴ。本当に頼もしい……ぐぬぬ。俺の装備だと大群の相手は得意じゃないとは言え、もうちょっと効率良くやれてれば……」


 そんな彼の平静に釣られてか、アギトも少しだけほっと息を吐いた。けれど、油断はどこにも無い。


 ユーゴが群れを相手してくれている間に、それぞれの魔具の確認と、取りこぼしが襲って来ないように見張りを続けてくれている。


「……ユーゴ、本当に強くなりましたね。って、俺達が来る前はあのくらい強かった……んでしたっけ。でも、少なくとも前に俺と戦った時、ミラと組み手してた時に比べて……」


「そうですね。彼はずいぶんと力を取り戻したように思えます。ミラの戦いの模倣によって力を取り戻したばかりの頃と比べれば……ですが」


 私の返答に、アギトはじっと外を……ユーゴの背を眺めて、少しだけ険しい顔をした。それが良い意味だけではないと懸念している心がだだ漏れになっているようだった。


「そんなに強くなってたユーゴでも、あの魔女には敵わなかった……そんなに強くなった後に、何もかもを奪われてしまった……んですね」


「……はい」


 それだけの強さを求める必要があった。求めた果てに、理想の一切を破棄することになってしまった。この事実は消えないし、だからこそ彼はまだかつてほどの強さを取り戻していない。


「あるいは、もう二度とあの極地には至れないかもしれません。本人がそれをどう思っているかは分かりませんが……」


 彼は戦いを好まない。彼は他人を傷付けられない。その観点からは、力など強くなくとも困りはしないのだ。けれど……


 彼は他人が傷付けられることを許せない。彼は大切なものを守らずにはいられない。この観点からは、彼に力が戻らない事実が重たくのしかかる。かつては守れた……と、そんな自責が彼を襲いかねない事実が。


 けれど、あの時ほどではない彼の力でさえ今は過剰なほどだから。魔獣の群れはすぐに蹴散らされて、ユーゴの姿はまた見えなくなってしまった。


 ごんごんと天井から足音が響いてきて、それが前の方に進んで行ったから……それを聞かずともそうすると言っていた通りに、彼は前方へ戻ったのだろうと理解する。


「俺があんなに苦労して倒してたのに……もう全部いなくなったよ。はあ……」


 安全がひとまず確保されたと言うのに、アギトはその光景に大きなため息をついていた。


 たった一頭の討ち漏らしも無く群れをせん滅してくれたユーゴの強さに、なんだか忌々しささえ感じているようだ。


「まだ油断はなりませんよ。それに、貴方の強さも本物です。少なくとも、簡単に的に当てられるわけではない魔具を、こうも見事に使いこなしているのですから」


 励ましが必要だとは思わなかったが、それでも私は声を掛けずにいられなかった。それだけ大きな感謝があったから、奇妙な劣等感なら抱かずにいて欲しかったのだ。


 そんな私の目論見通りに行ったのか否かは別としても、アギトはまた真剣な表情を取り戻した。彼はユーゴを羨んだが、ユーゴもユーゴでアギトを羨んでいる節がある。それについては……言わないでおいた方が良いのかな、ユーゴの性格を鑑みると。


「ふう。群れが追い払われた以上、後ろばっかり見張ってても仕方ないですかね? その、追い掛けられる……ってことはないでしょうし」


「ええと……なるほど、そうですね。追い掛けて来る群れはもう残っていないわけですから、攻撃があるとすれば前で待ち伏せていた魔獣か、あるいは……」


 魔女によって新たに出現させられた魔獣か……だが、後者については見張りが意味を成さない。その気になれば部隊の真上に出現させられるのだから、見張っていたとしても避けることも倒すことも間に合わないだろう。


「……ここまでにその手の攻撃が無かった……と言うことは、魔女はこちらの位置を正確に把握出来ていない……あるいは、今の魔獣はゴートマンによって出現させられていて、あの男では魔獣を狙った場所に発生させることが出来ない……のでしょうか」


 今のところの状況から推測するに、あのどうしようもない攻撃はあり得ない……と、そう考えても良いのだろうか。もちろん、あったとしてもこちらから出来る準備は一切存在しないのだが……


「楽観視は出来ませんが、最悪の状況は免れられているのかもしれませんね」


 ひとまず、致命的な攻撃が来ていないこの結果だけを喜ぼう。まだ分からないが、とりあえずは全員無事なのだ、と。


「あとはミラがさっさと合流してくれれば文句無し……なん……だと……思ってたんですけど……」


「……? アギト? 何かありましたか?」


 はて、様子がおかしい。と、声色からそれを察して、私は目線を窓の外から馬車の内側……アギトの方へと向けた。


 するとそこには、顔を真っ青にして遠くを睨む彼の姿があった。遠く……高く、遥か向こうを。まるで空を眺めているようで……


「……っ! アギト、私にも見せてください! まさか……まさか、あの時の……」


 一瞬だけ、ゴートマンによる待ち伏せがあったのではないか……と、そう考えた。けれど、それはすぐに否定された。


 あの男ならばそんなにも遠くを見る必要が無い。そんなにも遠くで目視出来る筈が無い。


 では、何か。アギトが見たもの、恐怖したもの、そして私の記憶の中にもあるものとはいったい何か。


 答えは……頭上から降り注ぐ魔獣の群れなどよりもずっとずっと致命的なものだった。


「――――あれ……まさか、あんなのも魔獣……だとか言わないだろうな……っ」


「――っ。やはり……」


 見えたものは、空高くに浮かぶ魔獣……の、その頭部だった。私はそれを、以前にも一度だけ目にしている。


 初めて無貌の魔女と戦ったあの日。懸命に戦うユーゴを嘲笑うように、何もかもを踏み潰そうとしたあの巨大過ぎる魔獣の、それが現れつつある予兆だった。


「……あの時と同じ場所……っ! いけない、またしてもあんなものが現れたら……現れて、暴れ始めてしまったら……」


 あの時、私達はアレを倒せていない。攻撃を退け、足に傷を付けることは出来ていたが、しかしあの瞬間のユーゴでさえ巨大過ぎる魔獣の命までは断てなかったのだ。


 今のユーゴであれをどうにか出来るだろうか。魔女と競り合った末に異常な力を手にした時ですら倒し切れなかったあんなものを、今のユーゴで――


「――――百頭の龍雷エル・ヒドル・ヴォルテガ――――ッッ!」


 瞬間。空が黒く染まった。いや、そうではない。瞬きよりも短いわずかな間に、強過ぎる光がすべてを照らしたのだ。照らされて、そして目が眩んで暗く見えたのだ。


 声が聞こえた。言霊を唱える、勇気をくれる少女の声。ずっとずっと待っていた、誰よりも頼もしい勇者の帰還を報せる声が。

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