第五百十一話【戻る、戻らず】
奇襲があった。けれど、それには対処出来た。
前方からも後方からも魔獣の群れが襲ったが、それらはアギトとミラ、そしてユーゴの力を以って払われた。
そして、今も着々と撤退の……ベルベットの錬金術の準備が進められている。あるいは、私が気付いていない間に完了している可能性もあるだろうか。
部隊に被害は出ていないように見える。少なくとも、それぞれの馬車が指示に従って整列する余裕は残している。
それらを鑑みれば、この対応は完璧なものだった……と、そう思って良い筈なのだが……
「……ミラは何をやっているのでしょうか。何と戦っているのでしょうか。戦って……無事にいてくれるでしょうか」
もうすぐに撤退命令を出す。たとえ全員が揃っていなくとも、これは確定事項だ。たとえ誰かが欠けていたとしても。それが誰よりも重要な人物だとしても。
「雷鳴が聞こえない以上、彼女は雷の魔術を行使していない……と、そう考えて良いのですよね。彼女が最も得意とし、最も多用する魔術を」
奇襲があって、ミラが飛び出して、彼女の姿が見えなくなって以降、何度も目にした大規模な魔術の気配をどこからも感じなかった。
雷を放てば雷鳴が轟く。焼き払ったなら煙が見える。あるいは他の魔術だとしても、彼女の行使する術の規模を考えれば、何かしらの形跡が見て取れる筈なのだ。
今、ミラは魔術を使っていない……と、そう考えるべきだろう。そして……そうであるなら、事情があることも揺るがない。
彼女は自ら口にした。自分の魔術はゴートマンを相手には通用しない。ゆえに、魔術を用いない戦いをする。そう口にして、実行してみせた。
単純に考えるのならば、またしてもあの男と遭遇し、交戦状態にある……とするべきだろう。しかしながら……
「……もし、アイツが出て来てたんだとしたら……それで、ミラが本当に戦力として俺を前に出そうとしてたなら……」
彼女は自ら口にした。徒手による戦いにおいて、ユーゴではなくアギトを前線に送り出すのだと。そしてそれは、ユーゴに奮起を促す為の文言ではなく、現実的に考えた末の決定なのだと。
もしかすると、ミラひとりではあの男に敵わないかもしれない。そして、ミラが今のこの状況を私が思う異常に重篤に考えている……とすれば……っ。
「……私達が撤退する時間を稼ぐ為に、単身でゴートマンを抑え込んでいるのだとすれば……っ。アギト、ベルベット殿の術はまだ発動出来ませんか。ここに部隊を残したままでは、ミラの足を引っ張ってしまうことになりかねません。一刻も早く撤退を……」
私達は本当に対処出来ているのだろうか。この攻撃に、この悪意に、正しい対応をしたと言って良いのだろうか。
ミラの力は知られている。少なくとも、あのゴートマンは十分な脅威として彼女を認識している筈だ。
ならば……ならば、この待ち伏せが私達を全滅させる為のものではなく、攻撃力に秀でたミラひとりを戦闘不能にする為のもの……だったとすれば……
「……大丈夫です。アイツは大丈夫、負けません」
「……アギト……」
まさか……まさか……と、悪い考えがぐるぐると渦を巻く私の頭に、アギトの声が届いた。大丈夫。と、肩を震わせる彼の声が。怯えながらも、信じ切った顔の彼の想いが。
「一応、根拠はあります。もしやられたとしたら、それを報せる合図を出してる筈ですから。そういう決めごとをしたんです、昔に。だから、アイツは絶対にそうします」
「……その報せが無い以上、まだ彼女は無事でいる……少なくとも、自らの手で対処出来る相手と向き合っている……わけですね」
私が問い返せば、アギトは力強く頷いた。その部分については絶対だと、そう言わんばかりに。
「……っ。分かりました、貴方達の絆を信じます。後ろ向きな考えは一度棄て、今すべきことを徹底的に詰めましょう」
ミラの安否はどうしても気になる。だが、それを気に掛けて手を遅らせた所為で彼女が犠牲にならざるを得なかった……などという事態は絶対に避けるべきだ。
「後退時、部隊はこれまで取ったことの無い隊列で進行することになるでしょう。であれば……道順を再確認……いえ、再構築する必要に迫られかねません。あるいは、以前のように……」
「……道を塞がれて、部隊前部が足止め喰らう可能性も……」
もしそうなれば、ミラが時間を稼いでくれた意味も無くなってしまう。追い付かれて、追い込まれて、彼女ひとりに大勢を守りながらの戦いを強いる羽目になってしまうだろう。
「だったら、ベルベット君の乗ってる馬車だけは先頭で固定にしたらどうですか? あの子がいれば地形での足止めは無視出来るし、俺じゃ想定出来ないような事態にも対処してくれる可能性が高いです」
ふむ、なるほど。もしミラが戻るよりも前に出発するとなれば、魔術に対処出来る人員はベルベットひとりになるだろう。
ならば、アギトの言う通りに彼を先頭にして……最後尾をこの馬車で守ることで、少なくとも前方に発生する罠と、後方からの追い討ちには対処出来るだろうか。
「……っと。準備出来たみたいです。この馬車も一回沈みます、一応気を付けてください。沈んでる間は良いと思いますけど、浮かんだ瞬間に襲われる可能性もありますから」
部隊の反転を完了した瞬間……本来あるべき視界を取り戻した瞬間への奇襲……か。まったく、心臓が凍り付きそうなほど恐ろしい話をしてくれるものだ。
けれど、それに覚悟を決める暇も無く、足下が……今座っている床板のその下、車輪が地面を透過し始めたのが感覚的に分かった。ずるり……と、まるで泥沼に足を突っ込んだような、慣れない感覚だ。
そしてすぐ、馬車の覗き窓からは何も見えなくなった。空も、魔獣の死骸も、他の馬車も。アギト以外の無事を一切確認出来ない状況になったからか、途端に強い不安が見舞った……が……
「……浮かびます。念の為、窓から離れててください。壁にくっ付いて、姿勢低くして、荷物の陰に」
やはり、それを振り払う間も無く時がやって来る。船が波に持ち上げられる時に似た感覚がお尻から伝わって来て、そして馬車の中に陽光が取り戻されて――
「――っ。何も無いこと無いとは思ってたけど……っ。連なる菫――っ!」
泥臭さから一転、キツイ獣臭が鼻へと届けられた。窓から見えたのは、先ほどまでとは違う魔獣の姿だった。
「一気に突破します! ベルベット君! 指示出して! 君のとこが先頭になって砦まで戻って!」
アギトはベルベットに……いや、部隊全体に、か。初めて聞くくらい大きな声で指示を出すと、またすぐに魔具を持ち換えて魔獣へと目を向けた。
「フィリアさん、もうちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、逃げる心構えしててください! 思ったより多い! 俺の持ってる魔具で捌き切れるか――」
すべてを相手出来るか分からない。と、アギトがそう言い切る前に、甲高い風切り音が聞こえた。彼の大声に比べればずっと聞き馴染んだ、勇気を貰える音が。
「――前は片付けて来た――っ! フィリア! 無事か!」
「ユーゴ……っ。はい! 私もアギトもだいじょうぶです!」
そのすぐ後に声が聞こえて、それを聞いたら私もアギトも少しだけ緊張を緩めてしまった。決して油断ならない状況、危険地帯のど真ん中でありながら。
「アギト! もうちょっと……さっきも言ったけど、それよりもうちょっとだけ踏ん張れ! 前も後ろも俺がなんとかするけど、両方いっぺんには無理だ!」
「っ! 任せて! 気持ち後ろ優先気味に、でもベルベット君だけは何があっても守って! いや、間違えた! ひとりも余さず全員完璧に守ってくれ!」
がこん! と、天井に何かが着地した音が聞こえると、覗き窓からユーゴがちらりと顔を覗かせた。
ユーゴとアギトとがわずかなやり取りで役割を分担すると、馬車はすぐに動き始める。この馬車以外の馬車は……だが。
「もうちょっと……走り出せば全然楽になるんだ、あともうちょっとだけ凌げれば……」
この馬車は最後尾を走る。この危険地帯に一番長く残る馬車である……とも言い替えられよう。
アギトはそのことを気に掛けてか、魔具の幾つかを丁寧にさすった。とても頼もしい武器を、とても不安げな顔で……
「……それぞれの魔具の残弾はもう多くないのでしょうか」
「ぎりぎり……見えてる魔獣が相手なら、とりあえず全部倒してももうちょっと残る計算です。でも……」
この戦場に限り、見えている敵がすべてではない。魔女がその気になれば――こちらの戦力を徹底的に潰すと決めたなら、途方も無い消耗戦に持ち込まれる可能性がある。そうなれば、アギトの魔具ももちろん、ユーゴの体力も底を尽きかねない。部隊に持たせた武器だって……
「……だけど、俺の残弾を把握してるのは俺だけじゃないですから。それまでには戻ってくれると信じてますよ、不安ですけど」
「……はい、その通りです。私達の戦闘続行不能を、ミラが見落とす筈がありません」
ふう。と、アギトはゆっくりと息を吐いて……そして、また窓の外へ向けて魔具を放った。残量を気にしながらも、しかし出し惜しむことなく。
しばらくして、この馬車もゆっくりと揺れ始めた。長くも感じられたが、しかし実際に掛かった時間からは撤退が順調に行われたことが予想出来る。
部隊は後ろ向きに走り始めた。先頭はもうすぐにでも山間部を超えるだろう。それまでに何が起こるか……そして、ミラがいつ戻ってくるのか。気を抜けない状況はまだ続く。




