第五百十話【防戦】
罠があるとすれば。と、そう仮定した際に挙げられたポイントを抜けてすぐ、私達は予想通りの待ち伏せに遭ってしまった。
想定していても、分かっていても防ぎようのない攻撃で、部隊は急停止と撤退を求められる。
しかし、こちらがそう動くことを想定してか、魔獣の群れは前方にも後方にも発生し、撤退の為の停止さえ容易なことではなくなってしまっている。
「アギト、左方にまた魔獣の群れが見えました。距離は――」
一台。また一台と、後続の馬車が私達の隣で停止するのが見える。後方の魔獣の群れを蹴散らすユーゴの姿が見える。そして、この馬車を襲う魔獣を蹴散らす、凄まじい威力の雷撃と火炎が見える。
大丈夫。この状況が危機的なものであることは間違いないが、しかし大丈夫だ。私達は……ユーゴは、アギトは、ミラは、このような状況下でも万全の働きをして、敵の攻撃を完全に防ぎ切ってくれている。
「――魔弾の射手――ッ! よし、とりあえず全部いなくなった! フィリアさん、次そっち倒します! こっちの見張りお願いします!」
ここへ来るまでにあんなに青ざめて緊張していたアギトも、機敏に動いて目まぐるしく変わる戦況に対処出来ている。慌てず、焦らず、当たり前のように。
そうだ、この状況は想定されていた範疇なのだ。まだ準備によって対処出来る範囲内、巻き返せないほどの劣勢に追い込まれたわけではない。
アギトの指示に従い、私達は互いに場所を代わり、今度は私が馬車の右方の警戒を受け持つ。
背後から魔具を起動させる言霊が聞こえる度に、目の前が明るく照らされる。比喩や感情的なものではなく、雷光や炎の照らす範囲がそれだけ広いのだ。それだけ威力の高い攻撃が、正確に魔獣の群れだけを焼き払っている。
「……これでどうして自信無さげに振る舞えるものでしょうか。まったく、貴方も英傑と呼ばれる素養を十分に持っていますよ」
こんなにも頼もしいアギトが、今こうして戦ってくれている三人の中で最も自信が薄く、技量について乏しいと言うのだから。気を緩めてはならないと分かっていても、どうしたって安心感を覚えてしまう。
そして、先ほどまでの景色から変わって、私の眼前に広がるのは、馬車が進行していた方角……つまり、ミラが飛び出して行った方向なのだ。
そこに広がる光景は、先ほどまで見ていたユーゴの戦いぶり……魔獣の群れをも軽々と蹴散らしてくれる彼の活躍すらもが霞んでしまうほど、圧倒的に蹂躙された痕跡だけが見て取れる。
「……っ」
きっと大丈夫。敗北などあり得ない。今の私には、こんなにも頼もしい仲間が付いているのだから。
――そんな希望は、あの時にも胸の中にあったのではないか――
「っ――アギト。右方、後方にはもう群れの姿はありません。そちらはどうですか」
誰よりも頼もしく、カリスマに溢れた指揮官がいた。
魔獣の群れなどものともしない豪傑がいた。
そんな彼女よりも更に強いユーゴがいた。
それでも、私達はあの時――
お腹の奥の方に嫌な熱がこもって、息をする度に口先がじんじんと痺れる錯覚に陥った。ああ、いや……違う。
「……ふっ……ふう……っ。すう……はあ……」
手も、足も、唇も。どこもかしこもが冷たく痺れて、体内の熱を過剰に感じ取ってしまっている。
優勢に安堵した私の胸に去来したのは、どうしようもない絶望感だったらしい。
「こっちはまだもうちょっと掛かりま……? フィリアさん、大丈夫ですか? 顔色悪いですけど……」
「……すみません、大丈夫です。こういった窮地も久しいものですから」
想定外などはあの瞬間まで無かったのだ。あの時だって、あらゆる危険を想定し、それを乗り越える策を講じ、策を成功させるべく尽力した。それでも……っ。
「……っ。アギト、貴方からこの状況はどう見えますか。もしも、この状況があちらの思惑の内だったならば……と、そう仮定して」
「アイツらの思い通りだったら……ミラを釣り出されて、ユーゴをフィリアさんから引き離された……って考えたら、この馬車が一番ヤバい状況……ですかね」
なるほど、どうやら私もアギトも同じ考えのようだ。ただ……ひとつだけ、前提条件は違えているようだが。
「……この馬車に乗っているのは、何も女王ひとりではありません。国の長と共に、魔女に恐怖を打ち込んだ楔を載せているのです。もしも、あちらがこの馬車の孤立を目論んだのだとすれば……」
「……っ。お、俺が一番に狙われてるかもしれない……ですか。それはまた……お、脅かしてくれますね、珍しく」
魔獣のせん滅を確認したのか、アギトは魔具を持ち換えてこちらを振り返った。真っ青な顔で、勇敢な面持ちで。
脅かすつもりなどはまったく無い。ただ、これが事実なのだ。
無貌の魔女はかつて私を標的として選んだことがあり、そしてアギトはそんな魔女に恐怖心を植え付けている。ユーゴもミラも特別ではあれど、それ以上に狙われる理由がこの馬車に乗っているのだから。
「こうして急襲されている以上、ミラならば私達を守ってくれるとばかり考えてはいけません。離脱を早める為にも手を打ちます。ここからベルベット殿へ呼び掛けていただけますか」
「ベルベット君に……はい、分かりました」
しかしながら、あの時と違うこともある。それは、私達があの魔女を前にして生還したということ。そして、また別の魔女を前に、全軍を撤退させた実績を持つ仲間がいるということだ。
「もしも返事があったなら、こう伝えてください。これから馬車が到着するであろう地点に術式を展開して待機するように、と。魔獣の数も減り、ユーゴとミラによって戦線は遠ざけられ、そして近寄る魔獣は貴方が排除してくれましたから。先手を打つ猶予がある筈です」
「な、なるほど……よし。おーい! ベルベット君!」
窮地を脱する為の号令にしてはなんとものんきな呼び掛けにも思えるが……しかし、効果があるなら形はなんだって良い。
聞いた話、そして見た事実から考えて、錬金術によって馬車を沈めるのにはそれなりの時間が掛かる。そして、その時間のほとんどは準備の段階に費やされていた。
それが可能かどうかは分からない。だが、もしも馬車の到着よりも前から術式を展開出来るのなら、それで撤退出来るのならば、判断は早いに越したことは無い。
「となれば……もう一度後方に信号を送らなければ。それに、ユーゴとミラにも連絡を……」
「多分、ミラには連絡しなくても平気だと思います。アイツなら術の発動を感知出来るし、感知すれば何をするつもりか察してくれますから」
個人の能力をアテにして連絡を怠るのはどうかと思う……が、しかしこの件に関してはこれほど説得力のある怠慢も無い。たしかに、彼女があれほど大掛かりな術式の発動を見落とす筈が無いだろう。
「では、信号は後方へ打ち上げます。ベルベット殿と連絡出来たなら、そのまま部隊全体に伝達させてください。反転を完了した馬車から至急撤退を、と」
アギトは私の言葉を聞いてすぐにまたベルベットへと呼び掛ける。それを見て、私も信号弾を打ち上げた。緊急停止、撤退の合図を。
それからすぐ、馬車の中へ声が飛び込んできた。
「――フィリア! 魔獣はひとまず片付いた、一番後ろの馬車ももうすぐ到着する。今のなんの信号だ」
それは、後方から迫る魔獣をあらかた倒して合流してくれたユーゴの声だった。どうやら、信号を見た時点で戦闘は終了しつつあったらしい。
「ユーゴ、無事でしたか。もしも可能なら、後方部隊に指示を出して回ってください。出来る限り近付いて整列するようにと。部隊を停止させ、ベルベット殿の力で撤退します」
「ん、分かった。アギト、もうちょっとだけ頑張れ。いざとなったら俺がなんとかするけど、一応は任せた」
一応。と、そうは付けたものの、ユーゴは信頼の目をアギトへと向け、そしてすぐに馬車から飛び出して行ってくれた。私の頼んだ通り、撤退を最速で行う為に。
「ああもう、ほんっとうに頼もしいな、ちびっ子ばっかり! ミラもユーゴもベルベット君も、どうして揃って俺より強いんだ! 俺も結構頑張ってるのに!」
「ど、どうどう……こほん。貴方も十分に頼もしいですよ」
ありがとうございます! と、元気良く返事をすると、アギトはすぐにまた魔具を構え、そして周辺の警戒に戻る。そうして安全を確認してから、ベルベットとの連絡に成功し、術の発動準備が進められていると私に報告してくれた。
「さて……では、後はミラが戻ってくれれば……」
後方部隊に被害は出ていない……と思う。もちろん、誰ひとり怪我もしていないなどとは期待しない。だが、撤退も出来ないほど破壊された馬車はどこにも見当たらない。
ミラさえ戻れば部隊は完全に揃う。そうなれば、これまで通りに逃げるだけで良いのだ。
結論を焦ったそんな考えと同時に、冷静な……いや、後ろ向きな考えもまたひとつ浮かぶ。もしやミラは、私達のもとに戻れないほどの問題と相対しているのではないか、と。
いつもならば離れていても分かるほど派手な彼女の魔術がどこを向いても見えないから、なおのこと不安は大きく膨らんで行った。




