第五百五話【浮かび上がる影】
かつて私達の退路を断った不自然な濁流。それを作ったものがなんであるか、それはまだはっきりしていない。
していないが、しかしここにその候補が……考えられるひとつの可能性が示唆された。
無貌の魔女。もちろん、その時に私達を待ち伏せたその存在が仕掛けた罠だった……と、そう考えることは以前から出来ただろう。だが……そうではない。
ユーザントリアの魔術の権威、魔術翁が直接現場を調べてくれた。その結果、とてつもなく大掛かりな魔術儀式が行われた形跡がある……と、そう報告されたのだ。
それだけの術を行う為には、相応の準備と多大な魔力が必要となるだろう。だから、それをやったのがあの魔女か、あるいはふたり目のゴートマンだと予想するのは簡単だ。
しかし、状況証拠から私が推測するのと、現場に残された情報からミラや魔術翁と呼ばれる人物が推察するのでは話が違う。
魔術翁の得た情報から推理したミラの結論こそが、あの無貌の魔女が魔術によって河川を破壊した……と言うものだった。
そしてミラは、その事実を……魔女が用いたものが、魔術であることを重要視した。そう、魔法ではなく、魔術であることを。
「――魔法ってのは魔術の延長線上にあるものじゃないワ。前提条件が違う、根底が違う、何もかもが違うものヨ。だから、魔女が魔法を使えるからって、そのまま魔術にも精通してるとは限らないノ」
「しかし、無貌の魔女は魔術を……それも、河川を破壊し、新たに流れを作ってしまうほどの規模の大魔術を行使した……のですよね。であればそれは……」
それは……凶報ではないだろうか。
これもやはりミラから聞いた話、説明だが、魔法とは、マナの……大気中、自然の中に存在する魔力を用いた、超自然現象のことを指す言葉……だと言う。
先ほどのミラの言葉の通り、魔術とは根底が違う。自然現象を再現することが目的である魔術と、すでにそれを超越している魔法は、目的も結果も何もかもが違っているのだ。
しかしながら、分かっていることはひとつある。それだけの力があるのならば、今更になって魔術などと言う矮小な力に頼る必要など無い……と言うことだ。
それでも魔女は魔術を行使した……となれば、浮かび上がる解はひとつ。そうする価値があり、そして――価値を見出したものをすでに会得している事実だけだ。
「貴女が魔法と呼んだ力が、まだどれだけ隠されているのかも分からないのに。まだ他にも力を蓄えている……なんて。たしかにこれは大ごとですね……」
この先にもしも魔法への対抗策を手に入れたとしても、それでもまだこちらが有利にはならないことの証明でしかない。そう考えたなら、魔術翁が私達を直接呼び集めたことにも納得がいく。
しかし……どういうわけか、私の言葉にミラは少しだけむっとした顔を見せた。そして、私の手を優しく噛んだり舐めたり……それは、じゃれている……のではなく、怒っている……のでしょうか。
「あむ……それは違うわヨ。この事実は、こっちにとって大きな利益になる情報なノ」
「こちらの利益に……ですか?」
ふむ。やはり、ミラはその点に何か光明を見出しているようだ。それを私が勝手に悪いように解釈したからか、怒って噛み付いている……らしい。
しかしながら、先の話をどう解釈すれば朗報と捉えられるだろう。あるいは、魔女とて魔術のような技術に頼らねばならない……とも捉えられるが、しかしそれも喜んで良いのかは分からない。
だってそれは、魔女が自らの不出来を……不完全を認め、研鑽を積んでいる証拠なのだ。
魔女を打倒する策として、アギトが注意を引いてその隙をユーゴとミラが突く……と、そう提案しているのだから、ひとつでも多く隙を潰す為に努力しているとすれば、それは悪い報せで……
「難しく考える必要は無いのヨ、フィリア。話は単純。私達は魔法に対応出来なイ。でも、魔術にならいくらでも対処出来ル。相手の事情とか考えとか一切抜きに、突破口が存在するって事実がひとつ増えたノ」
「突破口……ですか」
魔法でも魔術でも、攻撃の時には防御が出来ない。ならば、その瞬間のどれかにこちらが反撃する機会を設けられれば……か。
「元が絶望的な相手なんだもノ、ひとつでも勝ちの目が見付かったならそれは朗報デショ。少なくとも、魔女はどこかで魔術を使ウ。一切対処出来ない魔法じゃなくて、反撃の隙になり得る魔術をネ」
「こちらから隙を作る為に動かなくとも、場合によってはあちらから隙を作ってくれる……かもしれない、ですか。ううん、それは……」
たしかに、元々はまったく期待出来なかった弱点なわけだから。そうとだけ考えれば朗報……ではあるのかもしれないが……
「それに……おじいさんが魔術の痕跡を見付けて来た以上、その特性や魔力の質なんかも調べられるでしょウ。そこからまた弱点を探せると思えば……」
「っ! そ、そうです。そういった明確な前進があることを喜ぶべきで……」
そ、そうだった。ミラが自分以上の魔術師とまで呼んだこの人物が、魔女の行使した魔術の痕跡そのものに触れているのだ。ならば、何を見るより多くの情報を手に入れている筈だろう。
「こほん。魔術翁殿……っと、この呼び名はすでに敬称でしょうから、改まって殿と付ける必要は無いのでしょうか。どうか、貴方が見て、知った情報について、話していただけませんか」
私の頼みに、魔術翁はうんむと唸るように頷いた。相変わらず顔も姿も曖昧なままなのに、そのしぐさがとても頼もしく思えた。
「まずひとつ。先にも説明した通り、残された痕跡からその術式の規模が推測されるじゃろう。そうじゃの……術に詳しくないものも多いこの場でならば、そこな娘っ子の術よりもふた回りは大掛かりなものであったと想像して貰うとしよう」
「ミラの魔術の……そのふた回り上……ですか。そ、それは……」
彼女の魔術の上限もまだ把握出来ていないのに、それの更にもうひと回り上の更に上……と来たか。
もはや私ではぼんやりと想像することしか出来ないその言葉に、アギトは頭を抱えてしまって、ユーゴは……どこか、苦々しい顔で目を瞑っていた。
もしかしたら、彼ならば想像出来ているのかも……とも思ったが、そうではないのだろう。彼が苦心しているとすれば、それはきっと“想像出来ないから”だ。
想像出来ず、模倣出来ず、自らの糧に出来ず、越えられない。目の前のものがそんな規格外の壁だから、苦しんでいるのだろう。
「魔術……と言う観点から見て、あれは芸術のひと言に尽きるじゃろう。練り上げられた魔力に一切の無駄は無く、伝達される力は一点のみに集中され、あらゆる要素がただひとつの事象の発生に向けられている。考え得る中でもっとも術の最奥に近しい術と呼べるじゃろうのう」
「最奥に近しい……ネ。もっとも、最奥にあるものより向こうを知ってるアイツからすれば、それも当たり前なのかもしれないケド」
自然現象を超越している以上、その再現などは簡単に成し得てしまうかもしれない……か。ミラの言葉には、私も……彼女とは比べられない程度でも、魔術を齧った私も悔しさを感じてしまう。
「……でも、そうならなおのこと隙があるわネ。魔女の魔術が、ある意味でもっとも魔術師らしい魔術なんだとすれば……」
「うんむ、そうだの。お主やマーリンのように、魔術を何かの手段として捉えたならば、その純度はさして重要ではないじゃろう。まったく理解し難い話じゃがのう」
どうしてその熱量を真っ直ぐに向けんものか。と、魔術翁はどうにも渋い顔……いえ、顔は見えないのですが。声色から、しぐさから、雰囲気から、怪訝な顔をしてミラを見た……のだろうと思える。
しかし、ミラはそれに胸を張って答えた。自分は魔術師であるかたわらに、天の勇者として人々を救う使命があるのだから、と。誰かを守る技術としての魔術ならば、誰にも負けるつもりは無いのだと。
「副次的な効果に目を向けていないなら、その魔術は反応が単純で介入もしやすいでしょウ。なら、私達には策があるワ。バカアギト、死ぬ覚悟しときなさイ」
「おう! 任せ……えっ? 死……えっ?」
誰かを……大切なものを守る……為の……魔術……と、そんな話だと思っていたのだが……。どうしたわけか、ミラはアギトにとんでもない覚悟を要求し……それに驚いた張本人に、すごくすごく冷たい目を向ける。死んで当然のように考えさせないでください……
「……ほんっとうにバカアギトよネ。察しも悪い、覚悟も無い、考えも遅い、動きが鈍い。そんなんだと本当に死ぬ羽目になるわヨ」
「ひぐぅ……そ、そこまで言わなくても……」
ど、どうどう……それくらいにしてあげてください……。ミラはどうにも……どうしても、アギトに対して冷たい態度を取ってしまうのだな。信頼の裏返しなのかもしれないが……
それからもしばらく、魔術翁による魔女の残した魔術の特徴を聞かされ続けた。私やユーゴには……私達とアギトにはなかなか理解が難しい話だったが、しかしミラがとても納得した顔をしていたから……きっとこれは良い収穫があった……と思って良いのだろう。




