第四百八十五話【怖いやつ】
いつか、夢を見た。それはたしか……そう、ネーオンタインを解放した直後のことだった。
けれどその時、それと同じ夢を以前にも見た気がした。同じ景色を、結末を、目にした気がして……
その時は目を背けてしまった。その終わりに……夢の意味に、勝手に絶望して諦めてしまったのだ。
あんなものは所詮夢だから。私の記憶にある嫌なものと、あるかもしれない嫌な未来とを勝手に組み合わせた、とにかく悪いイメージだけを映し出したもの。そう思って……思い込んで、逃げ出したのだ。
その苦みを、安堵と安心とで勝手に飲み下した。飲み下して忘れたつもりになって、痛みにも熱にも目を向けないようにしていた。けれど……
目の前で、彼が――ユーゴが。夢に出て来たあの少年が、びりびりと痺れるような苦みの伴う言葉を聞かせるから。嫌な気持ちがまたゆっくりと飛来して……
「……生きることを……諦めた……? ユーゴ……? い、いったい何を言っているのですか……?」
……また、目を瞑ろうとしている。ユーゴの言葉に耳を傾けず、何を言っているのかを理解しようとせず、彼の心と向き合おうともせずに。
生を――生存を、生きることを諦めた。そして、だからこそこの場所に……この世界に、私の目の前にいる。そんな言葉の意味を考えてしまったら……理解してしまったら、とてつもなく大きな後悔に見舞われる気がして……
「そのまんまだよ。言葉の通り、俺は生きるのをやめたんだ。やめて……そしたら、あの部屋にいた」
「――っ。ユーゴ……それは……」
けれど、ずっと目を背け続けられるわけもなくて。
目の前にはユーゴがいる。その旨の内を語ろうと決意してくれたユーゴが。他でもない、私と共に戦ってくれる彼が。
そんな相手を無視し続けることなど出来ない。出来たとしても、彼の方から視界に入ってくれば否応にも見えてしまう。
目を瞑っても声を掛けられてしまうだろう。耳を塞いでも肩を叩かれてしまうだろう。ここから走って逃げだしても、彼は追い掛けて来てしまうだろう。いいや……追い掛けるまでもない。逃げた先は、彼と共に帰るべき場所なのだから。
私は意を決してもう一度彼と向き合った。もう一度……そう、もう一度。
ずっと向き合って、見つめあって立っていた……つもりだったけれど、そう踏ん切りを付けるまでは、私の目は地面ばかりを睨んでいたらしい。それにも、今やっと気付いた。
「……っ。それは……貴方が……生前の、もうひとつの世界で暮らしていた貴方が、自死を選択した……ということでしょうか」
「……うん」
自らの手で、自らの命を終わらせる。その行為に至ったのだ……と、目の前の少年ははっきりと答えてくれた。穏やかな……とてもとても清々しい顔で。
「俺は自殺したんだ。橋から飛び降りて、深い川に飛び込んで。こっちにあるような川とは違う、もっと……狭くて、冷たくて、なんか……嫌な空気の川だった」
嫌な場所だった。と、彼はそう言った。だというのに、彼の表情は穏やかなままだった。
今のユーゴの心境はとても読み取れなかった。嫌な思い出を、最悪の結末を語るその口が、すっかり緩んだものなのだ。食い縛るか、あるいは唇を噛んでいて然るべきその口が、どこかだらしなくも思えるくらい緩いまま。
いや、口だけではない。目も、眉も。表情を作るあらゆる要素から、力みというものがすべて抜けている。しかめるべき顔をしかめず、むしろ呆けているとすら感じる表情を浮かべている。
そのことが理解出来なくて……その表情で自死を語ることが納得出来なくて、私はしばらく彼の言葉を飲み込めなかった。
もしかして、彼はそれを良い出来事として語ろうとしているのではないだろうか。よもや、悲劇的な結末をただの区切りとして受け止めようとしているのではないだろうか。
そう思ってしまったら、途端に汗が噴き出した。まさか……この子はまさか、戦うことを自己の確立の柱としていて、それを失いそうになっているから、あらゆることに投げやりになってしまっているのでは……っ。
「……おい、フィリア? ちゃんと聞いてるか? 一応大事な話だから、最後まで聞いて欲しいんだけど」
「……っ! す、すみません。急でしたし、想像もしなかったことですから。理解に時間が掛かってしまって……」
それから、説明するでも語るでもなく、ユーゴは私に声を掛けた。これからもう少し話が続くが、きちんと聞いているか。と、それを確認する為に。
大切な話だと言った。大きな話だと、問題だと。彼はそれを認識している。出来ている。自死が重大なことだと分かって……いるのに……
まだ、彼はのんびりした顔をしていた。日向に座り込んだ老人のような、穏やかで優し気な顔。それが……どうしてもそれが納得出来なくて……
「……ユーゴ。その……自死を選んだ理由については説明して貰えるのでしょうか。どうして、貴方がそのような行為を……」
「うん、それもちゃんと話す。と言うか、それを話すつもりだったんだ」
珍しくせっかちだな。と、ユーゴは少しだけ笑って……やはり、この時この場、この話のさなかに見せる表情、感情としては相応しくないものを表に出して、私にしばらく話を聞くようにと手で指示を出した。
「別に、大きな理由じゃなかったんだよな、今になってみると。嫌な奴がいて、嫌なことがあって、嫌なことから逃げる場所が無くて。生きてる理由がどこに行っても手に入らなくて。だから、めんどくさくなって逃げたんだ」
「……生きている……理由……ですか?」
ユーゴは私の問いかけ……いや、聞き返しに、苦い顔で頷いた。申し訳無さそうな、ばつの悪そうな顔だった。
「……そうだよ。俺は、本気でなんの為に生きてるのか分からなかったんだ。その時は、だぞ。流石にこっちでそんなこと言う気は無い、あんな良いとこで暮らせてるんだし」
それは……きっと、世界が違い過ぎるが故のすれ違いなのだと思った。
彼は自死の理由を、嫌な出来事の多さと、好ましい出来事の手に入れ難さに見出したと言う。
だが……そのそれぞれの因果を、この世界では当てはめようのないものだとも捉えている。
生きるのが苦しくなる出来事など、数え始めるだけ馬鹿らしくなるくらい溢れている。生きる理由など、求めたところで一生手に入らないかもしれない。少なくとも、彼から見たこの世界では。
魔獣などという不要な危険がそこらを跋扈している。死がすぐそばに転がっている。そして、彼からすれば娯楽らしい娯楽などどこにも存在しないだろう。
食事は質素に思えるだろう。寝床だってきっと、宮のベッドですら物足りないだろう。親しい友人こそ出来たものの、遊びに出掛ける機会もほとんど無いのだ。
目を背けたい現実と、活気となる出来事との釣り合いは、きっとこの世界の方がずっと取れていない。崩壊している……からこそ、それを正す戦いに身を投じている。
そんな自覚が彼の中にあるから、彼はそれをこちらでは当てはめない。
「……嫌なことがあったんだ。嫌な奴がいたんだ。だから……俺はそれから逃げたんだ。チビは多分、そのことを言ってたんだと思う」
「……? そのこと……ミラが……ええと……」
ユーゴはミラの名前を出すと、少しだけ不満げな表情になった。やっと負の感情を表に出した。出した……が……
どこか諦めにも似た、けれど清々しさを感じている顔をしていた。自身のことで不満があり、けれどミラの在り方に納得し……そして、憧れを向けている……らしい。
「俺はゴートマンが嫌いだった。女の方。ウザいし、邪魔だったし、声キモかったし。それに……嫌なものも見せられた。だから、アイツは心底嫌いだった。だけど……」
俺はアイツを殺せなかった。ユーゴはそう言うと、腰に提げた剣に手を触れた。強い後悔がにじみ出ているような気がした。
「同じことが、あのゴートマンの時にも起こったんだ。いや……違う。もっとひどい。俺は……チビがアイツをボコボコにしてるの見て……なんか、嫌な気分になったんだ。その時……怖いって思ったんだ」
怖い。その言葉の意味を、彼の口から語られた場合に限っては解釈し直さなければならない。私は本能的にそう思った。
怖い……と、彼は頻繁に口にしていた。それは、自らの感情の揺らぎの話ではなかった。在り方の――理想から離れた、悪い結末を指し示すものとして。彼はそれを、避けなければならないものとして語ってくれている。
「……貴方からは、その瞬間のミラこそが……」
「そう。怖いやつに思えたんだ。良いやつだって知ってるのに」
自らの大きな力を指して、その使い方を決して間違えてはならないと彼は言った。頻繁に、私にも自らにも言い聞かせるように。でなければ、怖いやつ……理不尽な存在となってしまいかねないから、と。
「……ずっと。ずっとずっと、なんとかして復讐したいって思ってた。しなかったけど。前の世界で、死ぬまで、死ぬその時まで、絶対やり返してやるって、呪ってやるとまで思ってた。でも……」
でも。と、その言葉の後に、ユーゴは私をじっと見た。じーっと、私から何かをするのを待っている……かのように。
けれど、私が何をするまでもなく、彼はまた語り始めた。その復讐心は、ある時にふと消え失せたのだと。その瞬間が……
「こっちに来ても消えなかった。フィリアに会っても消えなかった。でも……あの力を自覚した時、すぐに消えて無くなった。強くなって復讐が簡単になったからじゃない。もう会うことが無いって実感したからでもない。俺はその時……間違えたらアイツと同じになると思って、それが嫌だったんだ」
「……では、貴方がずっと口にしていた怖いやつ……という言葉は……」
その、彼が死ぬ理由としてまで挙げたひとりの人間だった……その在り方のなぞりだった、と。
ユーゴはそれを言うと、首元をがりがりと引っ搔いて苛立ちを見せた。その出どころは……きっと自分の内側なのだと、やっと彼の気持ちが理解出来た。
「ダサいと思った。ウザいと思った。キモいと思った。だから、ああはなりたくなかった。絶対、何がなんでも。チビが言ってたのは、この部分だと思う。俺は……」
自分よりも弱い人間を虐げるようなことはしたくない。出来ない。
ああ、なるほど。と、すぐに納得してしまった。
彼はこの世界で一番強い。それは絶対で、たとえ彼よりも強い存在が居たならば、彼はその場でその人物を乗り越える。乗り越えてしまう。
けれど、彼は弱い人間を攻撃出来ない。それは……ある意味、呪いのようなものなのだ。その能力の制約……とでも言うのか。
彼は心で強くなる。心に思い描いた強さを手に入れる。ゆえに――自分よりも弱い人間を虐げる強さは、決して手に入れられないのだ。
「……チビの言う通りにするべきなのかもな。俺は魔獣とは戦う。でも……ゴートマンとは戦わない」
「……相手がどれだけの悪人であれ、人間を相手には戦えない。少なくとも、殺してしまいかねないような攻撃は加えられない。そう……ですね。それならば……」
アギトは言った。彼は戦う運命にあるのだと。けれど……こうは言わなかった。ユーゴは、人と戦う運命にあるのだ、と。
理解した。納得した。そして……諦めがやってきた。ユーゴは、人々の為に戦う運命にあるのだ。善人であれ悪人であれ、そこに差異は無い。彼はすべての人間を護る為に、この世界へやって来たのだ。




