第四百八十四話【胸の内】
ミラはユーゴを戦わせることに、やはり首を縦には振らなかった。彼は他人の悪意に対して恐怖心を抱き過ぎているとして、そんな精神をあのゴートマンに……悪意を振りかざす人間の前に晒すわけにはいかないと。
それで……話は終わってしまった。私はもとより、アギトもそれ以上ミラを説得する言葉を持たず、そうなればもう話し合いをする余地などは残らないから。
それでも、私は部屋を出られなかった。もう少し……まだ何か、相談出来ることが――打開する手段がある筈だ……と、そう考えたから。けれど……
打開……という言葉が頭に浮かんだ時にはもう、それが不可能に近いものなのだと理解していた。今のミラを説得し、もう一度ユーゴを前線に送り出すことは、現時点では避けるべきものなのだと……打開せねば通せない筋なのだと、自分でそう考えていると分かったから。
「……朝早くにもかかわらず、相談に乗っていただいてありがとうございました。今日は遠征の予定もありませんから、ふたりともゆっくり休んでくださいね」
「……フィリアも、あんまり思い詰め過ぎちゃだめヨ。ユーゴの件は、何かが悪いわけじゃないんだかラ」
それが分かってしまったら……もう、何も出来ることなど無いから。私はミラに頭を下げて、アギトにも深く頭を下げて、そして部屋を後にした。
いつもなら抱き着いて背中を撫でてくれるミラが今日は静かに見送ってくれたから、彼女もまたその決定を残念に思っていることも分かっている。
それでも……やはり、ユーゴが戦えないのだと――今までずっと私を助けてくれた、すべてを守ってくれた彼の力が、想像していたものとは違うのだと思い知らされたことが、じんじんと胸の奥を焼き続けた。
「……私は初めから間違っていた……のでしょうか。もしもそうならば、皆が託してくれた願いは……」
ユーゴと共に戦い、大勢の頼もしい仲間が出来て、けれどそういったものがすべて間違った前提の下に成り立っていたのだとしたら。
ジャンセンさんは、マリアノさんは、バスカーク伯爵は。アルバさんは、エリーは。ヴェロウは、ランディッチは、イリーナは。パールは、リリィは。皆は、抱いた希望と預けた未来を諦めなければならないとでも言うのか。
一番初めに気付かなかった所為で、大勢に間違った希望を見せてしまっていたのだとしたら。ならば、私は――
「…………あ……」
気付けば私は、ユーゴの部屋の前にいた。彼の部屋……と、そう決められているわけではなかったが、今は彼が泊まっている部屋の前へ。今朝、私を起こしに来てくれなかった彼の……
「……っ。おはようございます。ユーゴ、起きていますか?」
いいや……違う。彼は私を起こしてくれなかったのではない。そもそも、起こす必要などは無かったのだ。
私は自ら起き上がり、立ち上がり、そして進まなければならない。それを、今までは彼が手伝ってくれていただけ。違うのだ、根本的な認識が。
意を決して私はドアを叩いた。違うのだ。違うのだ。と、何度も胸の奥で叫びながら、この瞬間から今朝を始める為に。
ユーゴが起こしに来なかったのではない。私が彼よりも早くに起きて、これから彼を起こしに行くのだ、と。
「……? ユーゴ、入りますよ」
ノックに返事は無かった。もとより返事など待たずに部屋へ入られているのだから、その逆をやられて文句を言われる筋合いも無い。そんな勝手な理屈で私は黙ってドアを開けて、そして……
「……ユーゴ? どこですか? ユーゴ、いませんか?」
……その向こうで、無人の部屋を見た。誰もいない、気配も無い、隠れている様子も無い、何も無い部屋を。
シーツは奇麗に畳まれていて、隠れられる隙間らしいものも無くて、荷物すらも残っていない部屋。その光景に、私はどっと汗をかいた。
もしや――もしやユーゴは、ミラの言葉を悪く受け止め過ぎてしまったのではないか。
荷物を纏め、痕跡を残さず、私達の前から姿を消す。そうして向かう先は……いったいどこだ。
考えろ。今までどれだけの時間を共にした。彼とどれだけ窮地を乗り越えた。今までどれだけ彼の手に惹かれて死地を潜り抜けて来たのだ。
彼はどうする。彼ならばどうする。精神的に追い詰められているとしたら、彼は何を選択する。
考えても考えても答えは出なかった。だって、そんな彼の姿を知らないから。そんな彼がとった行動を、たったひとつしか目にしていないから。
たとえどれだけ打ちのめされても、彼は帰るべき場所を、いるべき場所を、してはならないことを間違えなかった。その事実だけに安心して、勝手に信頼して、見て見ぬふりをしていたのでは――
「――っ! ユーゴ!」
大急ぎで踵を返し、私は廊下を駆け出した。目指す場所など無い。彼を探すアテなどありはしない。ただそれでも、探さなければならないから。
ひとつひとつ部屋を確認するか。いや、そんな必要は無い。彼は隠れない……と思う。
少なくとも、隠れるとすれば誰かが来る可能性の高い砦の中よりも、市街地に残る廃墟の中だろう。ならば、この建物の中を探し回る必要は無い……と思う。
アギトとミラに手伝って貰おうか。ミラの嗅覚ならばすぐに見つけられるだろう。もしも難しくとも、彼女ならば魔術による探知が可能だ。ならば、真っ先に頼るべきはミラで――――
「――はっ――はっ――っ! ユーゴ! ユーゴ――っ!」
顔を叩いて考えを振り切って、私は一目散に建物の外へと向かった。ミラには頼らない。いや、誰にも頼らない。今だけは、私が彼を迎えに行く必要がある。
アギトは言った。ユーゴは英雄となる運命の下に生まれているのだと。
ミラは言った。運命がどうであれ、怯えた子供を悪意の前に晒すわけにはいかないのだと。
大人の都合と、大人の矜持。ふたりが示してくれたものは、本来は私が手にしていなければならないものだ。私が掲げ、貫くべき決めごと。ユーゴに甘えて今まで曖昧で済ませてしまっていたもの。
私が決めろ――。そうだ、簡単なことだった。私が決めるのだ。彼の立つ場所は、すべきことは、させることは、私が決めるのだと約束したのだ。
アギトは道を示した。ミラは理を示した。だが――それはそれだ。彼が望んだのだ。私に決めて欲しいと。ならば――
「――――ユーゴ――――っ!」
砦から出て、街の方へ走って、そして……いつか部隊を集合させた空き地に向かうと、そこには小さな人影が見えた。
「ユーゴ――っ! はあ……はあ……こ、こんなところにいたのですね」
「……フィリア……?」
地面に座り込み、ぼうっと空を見上げて、彼は何かを待って……いいや。何も待っていなかった……のかな。
考えごとをしていたのだろうか。悩みごとをしていたのだろうか。あるいは、ミラの言葉に打ちのめされて、これからどうすべきかと考えることもままならずに呆けていたのか。
今のユーゴの心境は分からなかった。ただ……彼の姿が――荷物を手にして、装備も身に着けて、今からでも戦いに繰り出さんばかりの装いに、ひどく焦りを感じてしまった。もしや彼は、ミラの言葉を覆す為に、単身でゴートマンのところまで行くつもりでは……
「なんかあったのか? そんなに慌てて…………あっ。悪い、起こしに行くの忘れてた。もしかして寝坊したのか?」
「ち、違いますっ。いえ……貴方が起こしに来なかったことで、不安に思ったのはたしかですが……」
誰が起こして貰わなければ朝もロクに迎えられない子供ですか。と、怒っている場合ではない。ない……が……
案外……平気そうだな。焦燥感にあてられているとか、無力感に落ち込んでいるとか、そういった様子は見えない。もちろん、隠している可能性もある……のだが……
ユーゴは案外不器用で、自分の気持ちを隠すのは苦手な子だ。考えを隠すことは出来ても、感情までは操れないのだろう。まだ幼いからこそ……ではあると思うのだが、それが彼らしさだと私は思っている。
では……今の彼は何を考え、何を隠し、その上で……どうして、こうも穏やかにいられるのだろう。私の知る彼ならば、あんなことをミラに言われて、そしてその事実を受け止めたなら、悔しさから感情を爆発させていてもおかしくは……
「……っ。ユーゴ、その……」
たしかめねばならない。私が、その心境をたしかめねばならないのだ。
もしかしたら、ユーゴは諦めてしまっているのかもしれない。諦念がゆえに穏やかにいるのかもしれない。
もしもそうなら……それはダメだ。そんなもの、彼らしくない。彼が散々重要視していた、らしさからかけ離れた心情だ。
ユーゴは負けず嫌いで、心配性で、自分にも他人にも厳しくて、けれど誰よりも他人想いな、そういう強い子だ。それから遠く離れた諦めなんて感情は、今は絶対に不必要なもので――
「まあいいや、なんでも。フィリアに聞いて欲しい話があったんだ。あ、いや……ちょっと違うか。フィリアに聞かせて欲しい話がある……のか」
「……? え、ええと……私が、貴方に聞かせる話……ですか?」
そんな私の考え、理念などは無関係に、ユーゴはのんびりした顔でそう言った。私に尋ねたいことがある。その上で、私に聞かせたい話がある、と。
彼の言葉に、私は首を傾げてしまった。今になって……悩んでいるこの時に限って、私に聞きたい……私の経験に求めるものとはなんだろう。アギトやミラではなく、私に。
悩んでしまったから……そして、それを見透かされてしまったから。ユーゴは呆れた顔になって小さくため息をついた。質問しても良いか。と、そのタイミングを見計らっているようだった。
私は急いで背筋を伸ばして、もう一度ユーゴと向かい合った。すると彼も姿勢を正して、そして……
「……フィリアも結構大変な……結構じゃないな。かなり大変な人生送って来たわけだけどさ。その……全部捨てたくなったことって無いのかな、って」
「……すべてを捨てる……ですか?」
飲み込み切れずに聞き返す私に、ユーゴはゆっくりと頷いた。何もかもを投げ捨てて、逃げ出したくなったことは無いのか、と。
その問いに、私はまた首を傾げてしまった。そんなもの……そんなもの、一度や二度では済まないから。それが無かった瞬間の方が少なかったから。
その上で……それをユーゴが知りたがる意味が分からなかったから。
なんと答えて良いか判断に困った私を見て、ユーゴはまたため息をついた。こちらの考え……胸の内は読み取られている気がした。
それで……なんと答えて良いか困っていることではなく、逃げたいと何度も何度も思ってしまった情けなさにため息をつかれている……ように思えて……
「……でも、ちゃんとこうして投げずに続けてるんだもんな。フィリアはすごいな。アホだけど」
「……? あの、ユーゴ……?」
ふう。と、ユーゴはまたため息を……いや、違う。何か腹を括ったように息を吐いて、穏やかな顔で……先ほどまでよりも更にのんびりとした――心のすべてを弛緩させたような目で、私を見つめた。そして、ゆっくりと口を開く。
「――俺は生きるのを諦めたんだ。だから――だから、ここにいる――」
彼の言葉が分からなかった。意味が、意図が、意思が、まったく飲み込めなかった。ただ……胸の奥、忘れた筈の痛みと熱がまだ残っていたことにだけ気付いた。
穏やかな顔で、穏やかな目で、穏やかな声で。のんびりと、ユーゴはその過去を口にした。それは、いつか見た悪夢と同じものだった。




