第四百八十一話【定義されるもの】
アギトの意見は聞いた。ユーゴは主人公であり、彼がこの国を……この世界を守り、救世主となることは、運命によって定められているのだ。と、彼はそう言った。
それを妄言とは思わなかった。あらゆる出来事が事前に決められてしまっているという彼の考えを、まったく意味の無い妄想だと切り捨てられなかった。
だって、他の誰よりも数奇な人生を送った彼が言葉にしたのだ。それが、決められていたことだったのだ、と。そんなもの、どうして私などにひっくり返せようものか。
けれど、それはそれ。彼の意見と人生観は、私にとって大きなものではあったが……しかし、これからの戦いに対してはひとつの意見でしかない。誰の考えも等しく同じ価値でなければ、尋ねることにさえ意味が無くなるだろう。
だからミラにも相談して、もう一度話を聞こう。そう思って、彼女が起きるのを待って、ずっと待って、そして……
「むにゃ……んふふ。すやぁ」
「ど、どうするんですか、これ……っ」
やっと目を覚ましたと思ったミラが、目をしょぼしょぼさせながら私の膝の上にやってきて、そこでごろんと丸くなってしまったから……つい、背中を撫でて甘やかしてしまって……
「ど、どうしましょう……ミラ、起きてください。聞きたいことがあるのです。起きてください」
つい……そのまま寝かしつけてしまった……。どうにも私は、この子に甘えられると拒めなくなってしまう悪い癖が……
「……ちゃんと止めなかった俺も悪いですけど、フィリアさんももうちょっとミラに対して厳しくして貰わないと……」
「うっ……す、すみません……」
しかし、本当によく眠る子だ。さっき起きたばかりなのに、もうぐっすり眠ってしまっている。
もしかして、普段はきちんと眠れていないのだろうか。あるいは……こんな小さな身体だから、あの大規模な魔術が過剰な負担を掛けてしまっている……とか。
と、そんな懸念は今すべきことではない。私もアギトも、気持ち良さそうに眠るミラの背中を優しく叩いて、起きてと何度も呼び掛ける。が……
「……もうちょっと強く叩きましょう。その……多分、逆効果です、これ」
「やはりそう思いますよね……しかし、ううん……」
ぽんぽんと背中を叩いていると、ミラはむしろ気持ち良さそうに顔をほころばせて、もっと小さく丸まってしまった。その……子猫のようですね、貴女は。
そんな姿を見ては、なんだか起こすのにも罪悪感を覚えてしまうし、もう少し撫でてあげたいようにも思えてしまうし……
「……はあ。フィリアさん、ちょっとすみません」
「え? あ、ええと……アギト? な、何をするつもりで……」
ぱぁん! と、大きな音が響いて、ミラは慌てて飛び起きた。大慌てで、驚いて、怒って、そして……音の正体が思い切り手を叩いたアギトだと理解するとすぐに……
「――ふしゃーっ!」
「いたい――っ! 痛い痛い! 噛むな!」
獰猛な顔付きになって飛び掛かり、彼の首に思い切り噛み付いた。ですから、どうして人体の急所を躊躇無く噛むのですか……?
「え、ええと……ミラ、おはようございます。すみません、乱暴な起こし方になってしまって。どうしても貴女に話を伺いたかったのです。そして、聞いていただきたかったのです」
「ぐるるるる……ぺっ。んむ? 私に話……?」
このままではアギトが食い殺されてしまいかねない。と、そんな危機を脱するべく私から声を掛けると、ミラは目を丸くしてこちらを向いた。
その時にはもう穏やかな顔をしていた……のだが、どうしてかアギトを思い切り蹴飛ばして、踏ん付けて、それから私の方へとやって来た。眠りを妨げた代償が大き過ぎる……
「その……こほん。アギトとも話をしたのですが、やはりユーゴの力は必要になるのではないか……と。貴女の力は信頼していますが、しかしそれでも……」
「ゴートマンと戦うとなれば、私とアギトじゃ足りないと思った……ネ」
私自身はミラに不足があるとは思わない。だが……ミラ自身がそれを懸念している節があるのだ。
自分ひとりで対処し切れるか分からないからこそ、あの時はユーゴを、そして次以降はアギトを同行させ、共に戦うのだと。
けれどそれは……アギトを同行させるという決定は、ユーゴの力に頼れなさそうだからと、次善手として挙げられたものだ。それはつまり、アギトでも十分だとは思っていない……という意味だろう。
アギトならば、ミラの戦いぶりのすべてを把握し、長く共にあり続け、他の誰よりも上手く連携出来る相手だろう。そんな彼を差し置いてまでユーゴを前に出そうとした、戦わせようとしたのだ。
それが意味するとこはつまり、アギトでは不足がある……と、ミラ自身がそう考えているということに他ならない。私はそう思った……のだが……
「あの男を倒すだけなら、私ひとりでもなんとかなるでしょウ。アギトも一緒なら、ほぼ確実に仕留められるワ。もっとも、三回も戦ってそれが出来てないんだから、何言っても信用なんて無いでしょうケド」
ふう。と、ため息をつくと、ミラはそんな言葉を口にした。
倒すだけならば、ひとりだとしても問題無かっただろう、と。アギトが共にいるのならば、なおのこと確実だろう、と。
そんな、私の推測とは反対の言葉を。
「……ここからは今までにアイツを倒せなかった言い訳になるけど、それでも聞いてくれル?」
「はい、もちろんです」
言い訳……と、ミラはそう前置きをした。倒せたものを倒さずにいた理由があった……と、そんな話なのだろうか。
しかし、その理由とはなんだろう。ゴートマンの危険性は私も理解しているつもりだ。そして、ミラは私以上に把握し、警戒し、注意していた筈。
それでもなお、もっと優先されるものがあった……とは……
「……まずひとつ。あの男を殺してしまうと、あの男の後ろにあるものが見えなくなる可能性があったかラ。それがあの無貌の魔女なのか、他の魔女なのか、それとももっと別の存在なのか。それが知りたかったのヨ」
「……あのゴートマンの後ろ盾となっているものを探りたかった……ですか? それは……ええと……」
そんなものがあるのだろうか……? と、私が首を傾げると、ミラは少しだけ自信無さげな顔で頷いた。きっとある。おそらくある。多分ある。そんな曖昧な言葉が、口からこぼれずとも聞こえた気がした。
「最初、アイツの能力を把握していなかった時。あの時は……うん、普通に不覚を取ったワ。魔術師であることはひと目で分かってたケド、まさか強化魔術を逆用されるとは思わなかったもノ」
でも、二回目の接触で話が変わったワ。と、ミラはそう言って……苦々しい顔で、まだそこら中をさすりながら痛がっているアギトへと目を向けた。え、ええと……?
「あの時、アイツの背中には真っ黒な翼があっタ。あの翼が意味するものが何か、私はそれが知りたいのヨ」
「翼……はい、覚えています。まるでカラスのような、艶のある真っ黒な翼でした」
それが意味するもの……とはなんだろうか。
あの時たしか、ゴートマンは自ら説明していた。自分には魔女の力があるのだ、と。
その翼を見せ付けながら、自らの魔力が無限に等しいと……大気中のマナを自在に操るのだ、と。
「私の知る限り、魔女には必ず翼があるワ。そしてそれは……きっと、全員もれなく銀色の筈なのヨ。でなければ、マーリン様が灰色と呼ばれて蔑まれたことに説明が付かない」
「……なるほど。皆が皆綺麗な銀の翼を持つからこそ、そうではないものへの偏見と侮蔑が生まれた筈だ……と」
誰もが違う色の翼を持つのならばそうはならないだろう。その予想はなんとなく筋が通っている。ただ……
それでも、人は他人の目の色や髪の色の違い……どこを向いてもバラバラなものでも、迫害や差別をすることがある。
たとえば……そうだな。ミラのこの鮮やかな髪色は、ユーザントリアではそう珍しくないのかもしれないが、黒髪の多いアンスーリァでは不審がられたり、不気味がられたりする可能性があるだろう。まったくいないわけではないとしても、だ。
ならば、その……銀のなり損ないとしての灰色という侮辱の他にも、差別や偏見は存在しても変ではない。ゴートマンの黒翼などは、銀や白金からはもっとも遠い色に思えるから……灰色よりももっと忌避されるとか……
「……ミラ。それさ……もしかして、キルケーさんとヘカーテさんの……」
「……? ええと、その名前は……」
魔女の中にも差別があるのならば、それだけ多様性があるということではないだろうか。と、そんな私の考えを口にする少し前に、アギトがミラへ声を掛けた。私の知らないふたつの名前を挙げながら。
「……フィリア。私達は以前、魔女の世界へと行ったことがあるワ。文字通り、魔女という存在を前提とした世界にネ。そしてそこは……アギトの記憶、知識、認識によって成立した世界だったワ」
「……ええと……はい。その、詳しく理解したつもりではありませんが、伺った部分について、言葉通りには覚えています」
アギトという存在によって定義された、本来ならばあり得ない世界。召喚術式によって渡航した、彼の因果が創造した世界だ……とは聞いていたが、しかし……
それならば、そこに現れるものは彼の記憶……つまり、偏ったものによって作られている筈だ。となれば、彼が知らないもの……たとえば、あのゴートマンや無貌の魔女などは、その世界で見かけないものだとしても不思議では……
「アギトの記憶、記録、認知だけで作られたとしても、その世界は間違いなくこの世界と繋がったのヨ。だとしたら、そこには当然の理屈がひとつ生まれるワ。魔術や魔女という在り方について、あの世界に存在するものはこの世界のものと同じになる、と」
「……? ええと……」
それは……それを断定する理屈はどこだろうか……? と、私が尋ねると、それにはミラではなくアギトが答えてくれた。ミラのように冷静な表情ではなく、少し焦ったような……今になって真実を知ったような顔のアギトが。
「……その時、俺は魔女の翼が銀色だなんて知らなかった。魔女って存在をマーリンさんしか知らなかった筈なのに、キルケーさんもヘカーテさんも、もうひとりのマーリンさんも、みんな銀の翼だったんだ……っ!」
「アギトが知らない魔術、アギトが知らない錬金術、アギトが知らない魔法。あらゆるものがあって、けれどそれらに私が……この世界の魔術師が違和感を覚えなかっタ。それは、この世界にある当たり前が……自然の摂理が、その世界の骨組みとなっていたからヨ」
ッ! アギトの知らない常識が、その世界にも存在した……か。それは……なるほど、根拠として十分なものだろう。
その世界は彼の認知だけによっては成立していなかった。その世界は、この世界の一部を写し取ったものとして在ったのだ。だから、魔術や魔女というものはこの世界とほとんど共通していて、だからこそ……
「――だからこそゴートマンは人間で、人間でありながら魔女の力を身に宿すからこそ……」
「黒い翼を持っている……んじゃないかってネ。仮説だケド、そう大きく外してるとは思わないワ」
だから……あの翼を、魔女の力を、あの男は他の魔女から譲り受けているのではないか……と。なるほど、そうであればひとつ筋は通る……か。
「あの魔女には……無貌の魔女には翼が無かった。あるいはまだ隠しているだけかもしれませんが……」
「もしかしたら、アイツがあの男に翼を与えたのかもしれないわネ。そして……アイツが魔法を使っていた以上、マナへの干渉力を渡した存在が他にいる可能性も十分に考えられるワ」
渡すと力を失うとは限らないんだケド。と、そう付け加えて、ミラは爪を噛んだ。その表情は……大きな難題を前にした研究者のそれだった。
ゴートマンをただ倒すだけでは後にまた大きな問題が現れかねない。それを懸念して、これまではとどめを刺せずにいた。それを私は理解した。
理解したことを察すると、ミラはまた次の問題へ……どうしてこれまではユーゴに戦わせようとしていたのか。そして、どうしてこれからはそうすべきでないと考えるのかを説明し始める。悔しそうに、拳を握ったまま。




