第四百七十五話【戻る、戻る、戻る】
部隊は順調に撤退を始めている。魔獣の群れはたしかに迫っているが、しかし逃げる馬車に追い付くほどではない。
そうなれば、問題はひとつだけ。気に掛けるべきは、ミラとユーゴの無事……ゴートマンとの戦いの結果だ。
先ほどまで、ミラはゴートマンを圧倒していた。そう見えた。けれど……
一瞬の隙を……おそらくはミラが誘導したのだろうわずかな瞬間に、ゴートマンは魔獣の展開と自身の変貌を行った。その結果……
「……フィリアさん、そっち見張って貰っても良いですか? ベルベット君もお願い。俺は……チャンスがあればアイツの手助けをしなくちゃ。ほんの一瞬でも、隙さえ作ればアイツは魔王だって倒してくれるから」
……状況は、ミラがやや不利……になってしまった。少なくとも、アギトが魔具による手助けをしなければならないと――勇者ミラ=ハークスひとりに任せるわけにはいかないと判断する程度に。
「分かりました、任せてください。ただ……あまり無茶はしないように。目立ち過ぎれば貴方が狙われかねませんし、そうなれば魔女との戦いに支障が出かねません」
「はい、分かってます。そもそも、外せばミラの邪魔になるだけですから。絶対のチャンスじゃない限り、俺じゃ首突っ込めない自覚は持ってます」
自分では関与することも難しい。と、アギトはそれを苦々しい顔で口にした。けれど、その目には希望が……勇気が灯って見えた。
ミラが言っていたのはこれだろうか。いざとなった時、最後の最後にどうしようもなくなってから、彼は本領を発揮するのだ……と。
それは、窮地に追い詰められてこそ、高い集中力を発揮する……そして、望むと望まないとに関わらず経験した、数多くの終焉を乗り越えたという事実を力に出来るということなのかもしれない。
相変わらず、肩は震えていた。はたから見ても分かるくらい緊張しているし、冷静とは呼び表しがたい精神状態であることも間違いない。
だが、その冷静さを欠いた状態こそ、アギトが勇者としてもっとも輝く瞬間なのだとすれば……
「……っ。前方の状況を報告してください。部隊の撤退は順調かどうか……障害は起こっていないか。軽微なものでも構いません、行きに無かった変化があればすべて教えてください」
今この馬車の中には、案外高い戦力が揃っているのかもしれない。そして……それでもなお、ゴートマンから逃げきれるかどうかは……
アギトはきっと頼りにして良い。ベルベットについては言わずもがな、彼がいなければ話にならない。であれば……私さえしっかりすれば、こちらは最大のパフォーマンスを発揮出来る。
そうなれば、ミラにもユーゴにも負担を掛けずに済むだろう。ふたりが万全で立ち向かえるのなら、きっと無事に逃がしてくれる……と、そう信じて……っ。
馬車の中から話し掛けてしばらく、馭者から返事があった。現時点では異常無し、魔獣も出現していない、と。
その朗報に、私は一度だけ安堵した。気を緩めない程度に、けれど悲観的になり過ぎないように。
何も起こっていない。つまり、ここまでは何も待ち構えてはいなかった。少なくとも、あの時のように罠を仕掛けられてはいなかった……と。
同時に、懸念も残されている。あの時の溝……河川からの濁流のあった場所。あそこまで撤退した時、何が現れるのか。
またしても地形への攻撃が行われたならば、それはベルベットの力によって対処可能だろう。ただ問題は、あちらがそれを想定した行動を選んだらどうなるか……だ。
こちらの手は一度見せている……と、そう考えて良いだろう。こうしてゴートマンが現れた以上、ここまで来るのに使った手段はすべて見られていると思うべきだ。
となると……ベルベットの力は、事態の解決……つまり、状況を把握した上での選択肢が多いというものだ。
それを打破する手段となれば……
「……この位置に私達がいるのは、ある種幸いだったと言えますね。本当に……っ」
ぎゅっと奥歯を噛み締めて、私はその事実を喜んだ。この人でなしと、自らを罵倒しながら。
部隊はベルベットの力を以って反転している。その向きをぐるりと変えたのだ。部隊の並びを変えることなく、馬車だけをその場で。
だから、戦闘を走っていた筈の私達が最後尾について、最後尾を走っていた部隊が私達の前を走っている。私達よりも前に、待ち伏せがあるかもしれない地点を通り過ぎてくれる。
ベルベットの弱点があるとすれば、それはきっと把握から解決までが遅いことだろう。もちろん、彼ほどの錬金術師を相手に、そんな文句を上から言えるだけの人間などほとんどいないのだろうが。
しかし、この事態において求められる最良には届かない。彼がどれだけすごかろうとも、いきなり現れた窮地に対応出来るわけではないのだ。
たとえば、いきなり魔女が現れた……とか。いつかのように、魔獣の群れが上から降り注いだとか。
反応して、式を組み上げて、そして部隊を避難させるには、その攻撃はあまりにも早過ぎる。およそ回避可能なものではないだろう。
だが、これだけ長い部隊の後ろに付いていれば、前を走る誰かがその予兆に気付く可能性がある。
そういう意味で、この隊列は望外の理と言えよう。まったくもってなんと外道な指揮官だろうな、私は。
「それでも……っ。ベルベット殿……と、私から何を言っても伝わらないかもしれませんが……」
私が声を掛けると、流石に名前を呼ばれたことくらいは分かったのだろう、ベルベットは真剣な顔つきでこちらを振り返った。
なんとも頼もしい姿だが、そんな彼に掛けてあげられる言葉が無い。文字通りに。
そういうわけで、必死になって身振り手振りで激励の言葉を……頼りにしているのだと伝えようとする私を見てか、ベルベットはなんだか冷たい目をして……
「……こ、こらこら。相手は女王様だからね? 違うから。マーリンさんとは違うから。そういうこと言わないの。伝わんないと分かってて言うの、めっちゃ失礼だからね」
「っ⁈ わ、私は何を言われたのでしょう……」
相変わらず私では聞き取れない言葉で、どうやら罵倒の言葉を口にした……らしい。その……どうしてだろうな。何を言われたのか、アギトの反応が無くてもなんとなく分かってしまう。このベルベットという少年は、ユーゴと性格が似ている気がするから……
「……でも、その考え方には賛成だよ。マーリンさんよりはずっとしっかりしてるけど、今は俺達で守ってあげないといけないんだ。万が一フィリアさんに何かあったら、いろんなことが全部台無しになる」
っ! どうやら……うん。本当にベルベットはユーゴと似ているようだ。きっと、どうしようもなく頼りないから、じっとして守られていろ……なんて言われたのだろう。
その表情のふてぶてしさと言うか、気負った様子の一切無いさまは、やはりユーゴ同様に頼もしい。今はその既視感にしっかり頼らせて貰おう。
「アギト。ふたりの様子はそれからどうですか。ゴートマンに動きはあったでしょうか」
さて。頼るものは頼るとしても、すべきことはせねばなるまい。前方の安全を確認して貰った次には、もう一度ユーゴとミラの……ゴートマンの様子を確認しなければ。
私の言葉に、アギトはしばらく黙っていた。そして……判断に困ってしまったのか、悩みに悩んだ挙句に、よく分からないと返されてしまった。な、なんて頼りない言葉だろう……
しかし、その意味を私もすぐに理解した。道を進むにつれて馬車は向きを変え始め、後方を――ふたりの戦っている場所を望めた後方の出入り口からは、何も見えなくなってしまった。代わりに……
「……これはたしかに、またよく分からないとしか言いようの無い……っ」
私が見張りを任された覗き窓から、遠く遠くに雷光が瞬いているさまが見えるようになった。なったが……
「……撤退は順調に進んでいる……ふたりはゴートマンをしっかり足止め出来ている……と、そう捉えて良いのでしょうか」
遠過ぎる。と、文句を言いたくなるくらい、その光は遠いのだ。
そう言えば、もうミラの声もすっかり聞こえなくなって久しいな。気合を十分に感じるあの子の雄叫びも届かないくらい、もう遠くまで馬車は逃げられている……ということか。
「ミラとユーゴを俺達から引き離すとしたら……狙いは当然こっちですよね。それでこっちに何も起こってないなら……」
「……ゴートマンがあのふたりを引き付けているという可能性は低い」
魔獣は追って来る。だが、ゴートマンは追って来ていない。もっともユーゴとミラも合流出来そうにないのだが。
まだ……まだ、安心などは一切出来ない。これから戻った先に魔女が待ち構えていれば、私達は最大戦力と引き離されて、まんまと罠にはまってしまったことになるのだから。
それでも部隊は進むしかない。来た道をまっすぐに、大急ぎで。そして雷光の青白い輝きすらもが朧になって、いつかの濁流の痕跡をも乗り越えて…………




