第四百七十四話【反転】
状況は圧倒的に優勢だと思った。それはきっと、私だけがそう思っていたのではない筈だ。
ミラは魔術による攻撃を封じられているに等しかった。けれど同時に、ゴートマンの魔術を封じている状況でもあった。
そうなった結果、その戦いにはミラの武術だけが残った。自身よりもずっと大きな魔獣をも圧倒する技術が、力が、一方的な武器として残っていた。
それでも、決着はすぐには訪れなかった。その理由は、もしかすると――
「――フィリア――っ!」
ユーゴの声が聞こえた。その瞬間、馬車の外の景色が明るくなったのが分かった。
どうやら浮上したようだ。泥の湖の中から地上へと、馬車はゆっくり浮かび上がった。
それから周りを見回してみると、事態の異常さ……いや。異様さに、先ほど聞こえたユーゴの声の意味を理解した。
「――これは――っ!」
地上へと戻って来た私達を待っていたのは、空から飛来する無数の魔獣の影だった。
「ミラ――っ! どこだ! ミラっ!」
その光景を前に、私は息を飲んで震えるしかなかった。けれどその私のすぐ隣で、アギトは大声を上げた。
ミラ。と、何度も勇者の名を叫ぶ彼の横顔には、絶望感や恐怖は無かった。ただ……
「フィリア! さっさと奥に隠れろ! お前もだアギト!」
「ユーゴ……っ! い、いったい何があったのですか⁉ 先ほどまで――本当につい先ほど、ベルベット殿の力で地中に身を隠すその瞬間まで、ミラはゴートマンを圧倒していたではありませんか!」
……それでも、事態を把握出来ているわけでないことはたしかだった。
私もアギトも、隠れろと指示を出しにやって来たユーゴに向かって、これはいったい何があったのだと問うしか出来ない。本当なら労いの言葉を掛けてあげたいところを、問い詰めねばならないほどに追い詰められていた。
「……分かんない。ただ……とりあえずは見ての通りだ。ゴートマンが呼んだのかどうかは別として、バカみたいな数の魔獣がいる。それと……」
「……っ! そうだ……ミラの魔術は頼れない、ゴートマンに相殺されてしまう以上、彼女の力に頼ったせん滅は出来ない……」
私の呟きにも嘆きにもなっていない言葉に、ユーゴは苦い顔で頷いた。
そうだ。ミラの魔術はゴートマンによって無効化されてしまう。それがただ一対一での戦いならば、先ほどまでのように武術での打開も考えられる。だが……
相手は魔獣、それも空を飛ぶ個体だ。そんなものが数えることも嫌になるくらい大量に現れたのだ。
いくら彼女とて、ゴートマンを警戒しながらすべて叩き落すなんて芸当は出来っこない。
「もしや彼女は、この事態を警戒していた……? とどめを刺そうとした瞬間に、ミラひとりではなく、部隊のすべてを壊滅させる罠があるかもしれないと……」
可能性を考えた時、私の背筋は凍り付いた。ミラはゴートマンに対して、私が思っていた以上の警戒心を抱いていたのだ。そして……その警戒は、悪いことに的中してしまった。
やっと地上に浮かび切った馬車が揺れて、部隊は大急ぎで後退を始めた。この死地から脱出する為に。
この状況は――大群に追われながら逃げるしかない状況は、こちらにとって一番危険なものだ。
こうなることをまったく考えなかったわけではない。ただ……こうなってしまうと、ある程度の対策ではまるで意味が無い。
ひとつ幸いなことがあるとすれば、完全に囲まれる前に脱出を開始出来ていること。つまり、ミラの警戒と判断が、ギリギリのところで道を繋いでくれたというわけだ。
「っ。それで、ミラはどこに。彼女は今どこにいるのですかっ!」
「チビはまだアイツと……ゴートマンと戦ってる。こっからだと見えにくいけど……」
やはり……か。しかし、ユーゴが指差す方をじっと見ていれば、うっすらとだが青白い光が……雷光が見えてきた。あの場所でミラは……っ
「ユーゴ、貴方はミラの助力に向かってください。これだけ離れていれば、これほどの魔獣の群れとて撤退も可能です」
「……っ。分かった」
ユーゴは私の指示にすごく嫌な顔をして、けれど最後には首を縦に振ってくれた。この状況……そして、こちらに残される戦力に対して多大な不安を抱えているのだろう。
アギトの強さは、こういった戦いの場において輝くものではない。たしかに彼の魔具への理解と熟練度は素晴らしいが、それらだけでこの数をなんとか出来るわけではない。
ベルベットにもきっと同じことが言える。部隊をわずかな時間で反転させ、こうして撤退させられていることこそ、彼の能力の真骨頂と言えよう。
だが同時に、魔獣の大群を蹴散らす力があるわけではないのだとも判断出来る。それが出来るのならば、ミラにゴートマンを抑えさせている間に、この状況を打破してしまうだろうから。
ユーゴはそれをすぐに理解して、そして……懸念したのだ。逃げる背中は簡単に攻撃出来る的になる。ましてや反撃の力を持たないのだから、魔獣から見ても狙いやすい獲物だろう。
「……アギト。いざとなれば、貴方だけが頼りです。どうか、力を貸してください」
「もちろん、いわれなくても分かってるつもりです。少なくとも、アイツが戻るまでは……」
ミラが戻るまで……か。この事態を警戒していたということは、ミラはゴートマンの力を……強さ、一対一での厄介さを大きく想定していたということだろう。
それはつまり、誰かは足止めをしなければならないほどだ、と。そういう意味でもある。そしてそれは、ミラにしか出来ないことでもあるだろう……と。
「……っ! 見えた……アイツ、あんなとこで……」
「っ。見えた……とは、ミラのことですよね。私にも見せてください」
っ! アギトの声に、私も急いで覗き窓の外へと目を向ける。そこには、少し離れたところで輝いている青白い光と……そして、この場所からでも見て分かる、大きな翼を広げた人間のシルエットが浮かんでいた。
「――どうにも、貴女は私の想定よりも更に賢い方のようです。はい。迫真の演技だった……ように思えるのですが、こうも簡単に看破されては……ええ。どうやら、私は役者には向いていなかったようですね。はい」
「演技……ネ。全部が全部嘘じゃないなら、もう少し見破るのにも手こずったでしょうケド。何も本当のことを言わない嘘じゃ、誰も騙せないわヨ」
かすかにだったが、ふたりのやり取りが耳に届いた。そしてそれは、先ほどまで見せていたゴートマンの執念……魔術による決着を望む言動が、やはりミラを誘い込む為の罠であったと白状する言葉だった。
思い返せば、ゴートマンが魔術師としての矜持を――魔術での決着ばかりを望んでいる筈が無かった。
そんな誇りがある人間ではないと、二度目の遭遇の時点で……そして、先ほどまでに繰り返されたやり取りからも理解出来た筈だ。
あの男は、自らを術師と呼ばなかった。自らを卑下する言葉を使い、ミラをおだててバカにするような言動ばかりであった。
ただの嫌味な人間ならば、それも自信の裏返しだと考えることも出来ただろう。だが……その程度の人間に、ミラ以上の研鑽を積み上げられるだろうか。
ましてや、魔女などに与するだろうか。ミラの言葉を借りるのならば、自らの努力と成果を否定するような存在を前に、立ち向かわずにいられるだろうか。
あの男は、魔術へのこだわりをそう強く持っていない。そのことは、これまでの振る舞いから想定出来ていたのだ。だから、ミラはその嘘を……
「……っ。ヤバい……かもしれません。あの状況……空を飛ぶ敵と、魔術を無効化されるミラ。これは……ちょっとどころじゃなく不利です」
この撤退を、判断を、それらを総括したミラの指示を、感心して胸の内で称えていると、アギトから嫌な言葉が聞かされた。
不利……か。それはそうだ。飛ぶものと飛ばざるものとでは圧倒的に有利不利が付いてしまう。
鳥が昆虫をなんなく捕獲するように、そもそもは一方的な補色被食の関係にある。対等とはほど遠い、理不尽なアドバンテージだろう。
「ですがミラなら……彼女の膂力ならば、空中であろうと射程に入れてしまえるのではないでしょうか。彼女の瞬発力ならば……」
「……ダメです。アイツでも……いえ。ミラだからこそ、空の敵は厄介極まりないんです」
ミラ……だからこそ……? 私はアギトの言葉に首を傾げそうになった。だって、その言葉はおかしいと思ったから。
けれど、それを尋ねる時間は訪れなかった。じっと見ていたミラとゴートマンとの睨み合いが終わったのだ。宙を飛ぶゴートマンに向かって、ミラが真っ直ぐに跳び上がるのが見えた。そう、私の想定通りに……
「――ミラの技は、助走を付けた速さと勢いで威力を出してるに過ぎません。それを、上に向かって放ったって……」
想定通りに……ミラの蹴りがゴートマンを捉える。男はそれに反応も出来ず、防御もままならないままに腹部で受けた。だが……
先ほどまで一方的に痛めつけられていたのと同じとは思えないくらい、男は平然としていた。
ミラの攻撃は……魔術は、武術は、あらゆる手段は、この状況では輝かない。アギトはそう言って、シャツの下に隠された魔具へと手を伸ばした。




