第四百五十九話【雪崩のような】
ミラが声を掛けたからか、指を差したからか。あるいは、私が振り返ったからか、そこを見たからか。きっかけは分からない。だが、その異変は当たり前のことのように起こった。
部屋の一角、何も無い――筈だった場所が、突然ぐにゃりと歪んだのだ。当たり前が、普通が、不変が崩れ去った。そして……
「紹介するわネ。こいつがベルベット……ベルベット=ジューリクトン。ハークス、トリッドグラヴと並ぶ、ユーザントリアが誇る術師五家がひとつ、ジューリクトン家の末子であり、マーリン様の部下のひとりヨ」
気付いた時には、そこにひとりの人影が存在した。さっきまではたしかに何も無かったのに、誰もいなかったのに。そこには紛れもなく、ユーゴと変わらないくらいの少年が……
「……こ、子供ではありませんか」
……ユーゴと変わらないくらいの、まだ幼い少年がこちらをじっと見つめて座っていた。
もちろん、その登場には驚かされた。魔術なのか錬金術なのか、あるいは最近何かと話題に上がる結界というものなのか。理屈は知らないが、たった今まで誰にも認識されずにそこに座っていたのだ。それはとんでもないことだろう。
だが……だが、だ。今この部屋の中を冷静に見回してみると…………まだ青年とも呼べないアギトがいて、それよりも更に幼いユーゴがいて。少女とも童女とも呼べるミラがにこにこ笑っていて。それに加えて、また新たに……
「わっ。な、なんでしょうか……?」
今この部屋には、この国の命運を左右しかねない戦力が揃っている……筈なのに。と、そんなことを考えていた私に向かって、紹介されたばかりのベルベット少年は怒鳴り声を上げた。のだが……
「え、ええと……」
彼が発するのはユーザントリアの言葉で、それもまくし立てるような早口だから、私にはとても聞き取れなくて……
「フィリア、初対面でいきなり怒られるなよ。普段から礼儀がどうこうとかうるさい割に、そこら辺テキトーだよな。コイツの言う通りだぞ」
「うっ……そうですね、たしかに無礼極まりない態度で…………? あれ……?」
おや? と、私が首を傾げると、ベルベット少年はまた更に怒気を強めて詰め寄って来た。ご、ごめんなさい、違うのです。その……他のことを考えていて、きちんと向き合えていないのを咎められているのなら……その通りですが……ではなくて。
「……ユーゴ、どうして貴方は彼の言葉を……?」
「……? どうして……って……何がだ?」
どうして……ユーゴがユーザントリアの言葉を聞き取れるのだろう……? 彼はこの国から出たことも無いし……あ、いや。
もしや、アギトやミラから、それに他の騎士達から習っていたのだろうか。好奇心旺盛で飲み込みの早い彼のことだから、鍛錬の合間を縫って、休憩がてらに外国の言葉を学んでいた……とか……?
「悪いな、フィリアはああいうやつなんだ。良いやつではあるから許してやって欲しい。ちょっとアホなだけで、人を馬鹿に出来るほど立派でもないし」
ど、どうしてそこまで私をこき下ろすのですか……っ。たしかに、他者を下に見られるほど優れた人間でもないが、しかし不相応ながらにも王として頑張っているではありませんか。そこそこくらいには立派と褒めてくれても…………? うん?
また、違和感があった。いや、違和感が“無かった”……のか? 本来ならばあってはならない当たり前がまかり通っているような……いえ、つい先ほどにもベルベット少年には理不尽な登場を当たり前のようにされてしまっているが、そうではなくて……
「……え、ええと……はじめまして、ベルベット殿。私はフィリア=ネイと申します。遠いユーザントリアより、よくぞいらしてくださいました。お話はミラから窺っています。大魔導士マーリンに見出された、稀代の錬金術師である、と」
ユーゴとベルベット少年は、当たり前のように会話を交わしている……な。
ユーゴがベルベットの言葉を理解出来るのは、それを学んだから……私の知らないところで勉強したから……だろう。
では、ベルベットがユーゴの言葉を聞き取れているのは……彼がこのアンスーリァの言葉を、喋ることは出来ずとも、聞き取る為の練習くらいはして来ているから……だと……思うのが当然なのだが……
「……? あ、あの……」
私が話し掛けると、ベルベットは首を傾げてしまうばかりで、これっぽっちも会話など成り立たなくて…………
「フィリア。ベルベットはアンスーリァの言葉を知らないから、私が通訳するわヨ」
「え……? しかし、ユーゴはこうして……」
な、何かがおかしい。だって、ユーゴの言葉は私にも聞こえている――理解出来る、アンスーリァの言葉なのだ。それがどうして、彼の言葉だけがベルベットに……
「ベルベット君、その……この方は女王様で、とっても偉い人だから。マーリンさんじゃないんだから、もうちょっと礼儀を……」
ベルベット少年はアンスーリァの言葉を……私が理解出来る言葉を聞き取れない……のだよな? だから、私が声を掛けても首を傾げるばかりで……なのに……
また、違和感があった。私に対して首を傾げて、次第に眉間にしわを寄せ始めた少年に向かって、アギトが声を掛けたのだ。私にも聞き取れる、アンスーリァの言葉で声を掛けて……そして……
「ちがっ……嘘じゃないよ、本当だよ! 本物の女王様だって! マーリンさんだってそうだろ! 威厳があるとか無いとか、そういう話じゃなくて……」
「っ⁈ あの、アギト……それはどういう意味で…………ではなくて!」
また、ベルベットとアギトとの間には会話が成立していた。アンスーリァの言葉を発するアギトと、ユーザントリアの言葉を発するベルベットとの間に。
もちろん、アギトがユーザントリアの言葉を聞き取れるのは当たり前だ。だって彼はその国に召喚されて、ずっとそこで暮らしていて…………
「……? おい、フィリア? どうかしたのか? アホな顔して」
「……ユーゴ。貴方は……その、彼の言葉を……ユーザントリアの言葉を理解出来ている……のですよね……? それは、アギトやミラから習ったから……」
私の問いに……なんとか絞り出した言葉に、ユーゴは目を丸くして首を傾げてしまった。何を言っているんだ、お前は。と、そんな言葉を添えて。
「理解も何も……なんか違うのか? まあ、チビはちょっと変だなとは思うけど……」
「っ⁈ ユーゴ、貴方には彼の言葉がどう聞こえているのですか!? 違わないと……アギトやミラと、私と、変わらないものに聞こえている……と、そう言っている……のですか……っ!?」
はあ? と、ユーゴはすごくすごく怪訝な顔になって、私の頭や背中を撫で始めた。病気か? どこかぶつけたか? と、心配までし始める始末で……
「……? フィリア、どうかしたノ? なんだか顔色が悪いわヨ」
「ミラ……その、私には何が起こっているのか……」
何か、とてつもなく大きな勘違いが――根底に存在する当然に食い違いが発生しているような気がする。けれど、それがなんなのかがまったく分からない。
ミラは混乱する私を気遣ってくれて、抱き締めてくれて、また顔を舐めてくれて……そして、ベルベット少年に私の紹介をしてくれた……らしい。らしい……というのは……
「……そう……そうですよね。彼と話をするのならば、ユーザントリアの言葉を介さねばならなくて……」
ミラが彼と話をしている時の言葉を、私が聞き取れなかったから。ミラとベルベットとの間では、ユーザントリアの言葉でだけやり取りが交わされていて……
「……ミラ。アギトとユーゴは、ベルベット殿と話をしている時、いったいどこの言葉を用いているのですか……? アンスーリァですか、それともユーザントリアですか……? しかし、そのどちらであったとしても、私かベルベット殿のどちらかはそれを聞き取れない筈で……」
「……? ああ、そういうことだったノ。フィリアはあんまり召喚術式について詳しく理解してなかったのネ」
召喚術式……? それがこの違和感に……違和感が無いという異常に対して、何か作用している……と言うのか。
「術式の中には、召喚された世界への適応も含まれてるのヨ。当然よネ、常識の一切が違う可能性の方が高いんだもノ。ただしそれは、当人の認識を改ざんする……ってものじゃなくテ、入力と出力……つまり、見て読むことと、口から発することとを書き換えてしまうってものみたいなのよネ」
「……え、ええと……? すみません、どうにもすぐには理解出来なくて……」
それは……ええっと……彼らは――ユーゴとアギトは、この世界の文字を習わずともそれを読み解くことが出来、言葉を聞いて理解することも出来て、その上で知らない言語を知っているかのように発することが出来る……と?
私がそう尋ねると、ミラはちょっとだけ困った顔で小さく頷いた。その通りなのだ、困ったことに。と、そう言いたげに。
「あの魔術式にはいろいろと不可解なところが多い……ケド、それらの不可解は、召喚された人間とその周りの人間が普通の接する為の、強引な橋渡しばかりなのよネ。あの儀式を作った魔術師は、相当な身勝手で、魔法の領域に足を踏み入れた才能を持っていたんでしょウ」
とにかく、アギトとユーゴは言葉について絶対に不自由しないとだけ理解出来てればいいワ。と、ミラはそう言うと、またベルベットに声を掛けた。どうやら、私と会話をさせたい……通訳として、交流を取り持ちたいらしい。
しかし……また、とんでもない事実が今更になって浮き彫りになったものだ。ミラの言う通り、そのおかげで普通が成り立っている……のではあるが、それにしても理不尽なことがあったものだ。認識とは無関係に、言葉を理解出来て、理解して貰うことも出来る……とは……




