第四百五十五話【視えたもの】
ふと、床の冷たさに目を覚ました。ユーゴの声ではなく、ひやっとした感触で。
そのことがずいぶん久しぶりに感じて、私は瞼を開けるのに少し戸惑ってしまった。
「……どうして彼が来ないと起きてはならないと思っているのでしょうか……」
なんと言うか……もはや調教に近しいものを感じてしまうな。
家畜に言うことを聞かせる為の条件付けのように、ユーゴの接近が私にとっての朝を意味し始めている気がする。
これは……うん。すごく間違っているだろう。
しかしながら、目を覚ましてしまったなら、その過程や理由はなんだって良いわけだから。
ユーゴに起こされようと、冷え切った夜風に起こされようと、結果は同じ。ただここに覚醒したという事実があるだけで……
「……? ここ……は……」
……はて。ここはどこだろう。と、そんな間抜けな独り言をつい口にしてしまった。そう、独り言。誰に尋ねたのでもない言葉。
その意味はふたつあって、ひとつは尋ねようという意図が無かったことを指し、もうひとつは……
「……ユーゴ? アギト? 皆、どこですか?」
この場所に、話し掛ける相手がひとりも存在しないことを指した。
私はたしか、ネーオンタインの解放作戦を決行して……そして、無事に町まで辿り着いた筈だ。
そして、そこでひと晩を明かす為に…………そう、馬車で眠ったのだ。
しかしながら、今の私は地面に寝ている。ゆっくりと起こした身体のその下には、ずいぶん綺麗に舗装されたコンクリートの地面が広がっていた。
冷たかったのはこれか。なんて、納得している場合ではない。
「……さらわれてしまった……? いえ、しかし……」
もしや、ネーオンタインの解放作戦を読まれて……いや。魔人の集いがこの作戦を私達の想定以上に重く捉え、妨害に割って入った……という可能性があるだろうか。
そして、現時点での指揮権を握る私をさらい、部隊の無力化を図った……とか。
まずそんな考えが浮かんで、それもたしかに間違っていない……まったくあり得ない可能性でないことを理解して…………
……けれど、そうではないとすぐに考えを改めた。
「……ここは……? アンスーリァ……ではない……のでしょうか……」
手を突いてゆっくりと起き上がって、そして地面に座り込んでから見た眼前の景色は、高い高いコンクリートの壁に覆われていた。
高い……魔獣除けの柵ではない、砦の壁もかくやと言わんほど高い壁だ。
けれど、その形に――建築様式に、まったく見覚えが無かったのだ。
だから私は、それをアンスーリァのものではないと判断した。判断して……
「……夢……でしょうか」
もしもこの時この場にユーゴがいたなら、たとえそれが幻想の彼だとしても、のんきな阿呆だと怒られてしまっただろう。
しかし、これはきっと夢で間違いない……だろう。
いえ、思ったよりも自分の意識と思考がはっきりしているので、逆に夢ではないようにさえ錯覚するのですが……
「ここはアンスーリァではない。けれど、さらわれたのならば、拘束もせずに放置されている理由も無い。とすれば……」
冷静に考えてみれば、この状況は不可解極まりないのだ。
だから……うん。冷静に考えた結果、これが夢である……なんて結論を出している筋道の立っていない思考回路そのものもまた、夢ならではのものに思えてくる。
しかし、これが夢ならば……ここはなんの風景なのだろうか。
夢というからには、私の知る景色である筈だ。何かの間違いで、私に予知夢が見えているのでなければ……だが。
「……進んでみましょうか」
前を向けば壁があり、右を向いても壁がある。そのまま初めの向きから後ろを見ても壁があって……もう少しだけ右を向けば、その壁にだけ切れ目が――壁と壁に挟まれた、狭い道が伸びていた。
この先には何かがあるだろうか。と、私は自分自身の好奇心に従ってその先を目指した。
もっとも、これが夢ならば、決定に私の意思が反映されているとも限らないのだけれど。
冷たい床をひたひたと歩いて進み、壁と壁の間の道を抜けて、そうして辿り着いた先には……また、壁があった。
今度は横に広く、長く続く壁だ。高さについても、先ほどまでのものと変わらない。私は今、丁字路の分かれ目に立っていた。
「……っ。私は……ここに来たことがある……のでしょうか……?」
右へ行くべきか。左へ行くべきか。私はまずそれに悩んだ。悩んだつもりだった。
けれど……視線はわずかほども迷わず、戸惑わず、ある一点へと向けられる。
そこには、金属製の看板が……細く長い、見たこともない目印があった。それには、右向きの矢印が書き込まれていた。
私はここへ来たことがあるのだろうか。一度経験しているから、すぐにその答えを見付けられたのだろうか。
そんな疑問……不安には、結論が出ない。
私はその指示に従って、来た道を背に右を向いた。
すると、視界の右端に少しだけ映り込んだ先ほどの道の暗さが、なんだかとても恐ろしく感じた。
それからまたしばらく、ひたひたと冷たい道を進んでいるさなかに、遠くにまた壁を見付けた。けれどそれは……
「……建物……ですよね、あれは」
いいや、壁も建造物で間違いないのだけれど。そういう意味ではなくて。
現れたものは、恐らくは屋敷か、あるいは何かの施設……窓があり、部屋があり、人が出入りする用途のある建物だった。
私はそれを知っている……わけが無い。なのに、そこにそういった建物が出現することが丸で分かっていたようだった。
やはり、私はここを一度訪れて……?
「……っ。なんなのでしょうね、これは」
じ……っと、その建物を睨み続けて進んだ道の途中、私はある違和感に見舞われた。
突如景色が変わったのだ。いや……より正確には、視界が広がった……のか。
左右を挟んでいた壁が途絶えていた。それに気付いてから振り返ると、そこには左右に分かれた壁が見えた。
塀で守られているのはそこまで……ということだろうか。
その事実に気付いてから、私の目はもうその背の高い建物ばかりを映すのをやめた。
前を向いて、左右を見て、そして足下にも目を配る。
すると、少し先に川が見えた。河原を、河岸をコンクリートで舗装した、ずいぶん立派な……けれど、窮屈な河川だった。
川に近付くと、その水面には真っ赤な色が映り込んでいた。
それからやっと、私は背後に太陽が……夕日があることに気付いた。
それに照らされて目の前に伸びた自分の影にも、その日の温かさにも、そこでやっと気付けた。
「……なんなのですか……っ。この先に、何かがあると言うのですか……」
その光景が……川に映り込んだ夕焼けが、私には強い毒に思えた。人を惑わし、誘い込んで殺してしまう毒に。
けれど、私はそれに抗えなかった。その赤を追うように、私は水の流れに逆らってその川を辿り始めた。
決して手の届かないその赤を手にしようとして。
ひた。ひた。と、草木も見え始めたコンクリートの地面を進み続けて、次第に道が川から離れ始めたことに気付いた。
少し難儀するかもしれないが、遠目に川を見ながら進むしかない。まさか、水の中に飛び込むわけにもいかないのだし。
そうしてまたしばらく進むと、橋が見えた。大きく立派な、川を渡る為の橋だ。
それを目にした時、私の中にひとつの確信が芽生えた。
私はここに来たことがある。そして、もう一度ここへ来る必要性に迫られたのだ、と。
こんな場所は知らない。私の知る河川とは大きくかけ離れたこんな景色など知るわけもない。だが――私はこの場所を知っている。
そして、この場所で何かを確認せねばならないのだ。もう一度、この場所を。
ただの一度も訪れた筈の無いこの場所を――――
「――っ!」
そんな思いが芽生えたから、私は一目散に川へと走り出した。
橋を無視して、コンクリートの地面を駆けて。小石や小枝を踏んで足が切れようとも、何をも無視して真っ直ぐに。
ばしゃ――と、水の中に飛び込んで、一気に深いところまで進んで、ついには膝から上……腹のすぐ下までが濡れて、それでもまだ……
腹が濡れて、手で水を掻き分けねば進めないくらい抵抗を受け始めて、胸まで濡れて、ついには喉元にまで水が来て――
「――――私は――私はこの場所で――――」
――ごぼ――と、水を飲んで、息が苦しくなった。頭の先まで水に浸かって、もう前などまともに見えなくなっていた。
ここは川で、私の背よりも深いわけなど無いから。だから、これはやはり夢なのだ。夢……で、それが意味するところは――――
「――――貴方は――――この場所で――――」
人の影が見えた。暗い、暗い、水の底で。
黒い服を、金のボタンに飾られた服を着た人の影が見えた。まだ幼い、小柄な人の影が見えた。
まだ私の知らない、人の影が見えた。まだ――まだ、私と出会う前の、その人の影が――
「――――ユーゴ――――」
水の底には、私の知っている顔があって――――
「――――っっ!」
びく――と、身体が跳ねた。それからしばらく、自分の身体の下敷きになっていた手に痺れを感じた。
床は冷たくない。硬いし、冷やされてこそいるが、しかし温かみを感じる板の床だ。
ゆっくり……ゆっくりと、瞼を開いた。見えたものは、まだ真っ暗な馬車の中だった。
壁にもたれて眠っているアギトの姿と、出入り口に一番近いところで眠っている――――
「――――違う――――今のは、ただの夢で――――」
私は夢を見た――――のだ。
夢だ。今のは――今までの光景は――――いつか、もう一度だけ目にしたその過去は――――
「――貴方は――――」
その光景は、過去の焼き直しなのではないか――
そんな思いと、それを必死に否定する本能とがせめぎ合う。
そうであってはならない。そうであって欲しくない。
そうであったならば――私は――――
私は――――自死した少年を無理矢理に戦わせてしまっていたのか――――




