第四百四十八話【痛みと共に】
ミラから魔具を受け取って、励ましを貰って、そして私は馬車へと乗り込んだ。その手に力を――アギトの変性を食い止める鍵を握り締めて。
「……それでは出発してください。目的地はマチュシー、翌日にはハル。その翌日にヨロクを訪れ、その次には……」
真っ直ぐにネーオンタインまで向かう。安全が確保されているダーンフールでも、協力者のいるカストル・アポリアでもなく、まだ未開の道を進んで、閉ざされた町を解放するのだ。
私の号令によって、馬車はゆっくりと進み始める。先頭のこの馬車が進めば、後方からも車輪が地面を掻く音が聞こえ始めた。
「……ふう。まだしばらくは安全な道行が続く……とは思いますが、念の為に再確認しておきますね」
さて。不安と胸の奥にある後悔とを必死に抑え込んで、私は一度馬車の中へと――同じ箱の中に座っているふたり、ユーゴとアギトへと視線を向けた。
「これからヨロクへ到着するまで。その間に魔獣が出現したならば、それへの対処はユーゴひとりで受け持つこととなります。それが可能だから……というのもありますが……」
「その方が良いだろうな。これだけ大人数だと、足止めて戦ってなんてやってたら、いつになるか分かんないし」
私の説明を切って、ユーゴは小さくため息をついた。
今更確認するまでもない、か。そうだな、ユーゴはずっとそのつもりで戦っていたのだから。しかし……
「念の為、ですよ。言葉にして再認識することが大切なのです」
ユーゴにはもう動揺は見られなかった。それでも、内側がどうなっているかまでは分からない。
出発前、今朝のこと。私はユーゴに、すごく冷酷な命令を下してしまっている。
誰かが傷付こうとも助けるな。先頭を走り、後ろを振り返るな。犠牲を嫌がるな、成功だけを求めろ。と、そんな命令を。
だからこれは、ユーゴの精神状態の確認の意味が強い。
普段の彼とどれだけ変わってしまったか……良い意味でも、悪い意味でも、変化がどの程度なのか、と。それを知る為に。
「こほん。ヨロクまでに関しては、外に出て戦うのはユーゴひとりに限定します」
「先日の工事の成果もあって、街と街とを繋ぐ道路にはあまり魔獣も出現しません。ですので、この間は出来る限り最速で……長い部隊列の後方に食い付かれないように、とにかく速く駆け抜けるようにします」
しかしながら。と、話を転換すると、ユーゴは苦い顔で私を睨んだ。呆然とするのはやめて、私に怒るくらいの元気は取り戻した……と、そう捉えて良いのかな。
「……ヨロクへ到着した後。準備を整え直しての再出発以後、ネーオンタインに到着するまで。騎馬隊を展開し、ユーゴを先頭にして、襲い来るであろう魔獣の群れの中を突き抜けます」
その際に、魔獣が部隊の横っ腹、あるいは後方に食い付いたとしても、ユーゴは先頭から動かさない。
「ユーゴ。今朝も確認しましたが、何かあれば貴方は進行速度を上げてください。後方にはヘインスや他の手練れを配置していますから、その力を信じて前だけを向いて進むのです」
すでに部隊には伝達してある。もしも何かあったならば、ユーゴの見えないところで激しい戦いが繰り広げられることになるだろう。
まったく、我ながら汚い……美しい言葉で、おぞましい命令を下したものだ。
仲間を信じろ。これまでに頼りにしてきた大勢を信じろ。と、そんな言葉で諭したものが、他人の死を無視することだなんて。
しかし、今回に限ってはそうするしかない。あらゆる前提がすべて仮定の上に成り立っていて、何かがひとつ間違っていたならば、すべてが台無しになりかねない危うい橋の上を渡るのだから。
「……それから、アギトも。貴方は基本的には攻撃に参加しないこと。緊急時……部隊の前方、ユーゴの周囲に危険が迫った場合に限り、魔具による支援をお願いします」
「はい。分かりました」
分かりました……とは答えてくれたが、きっとその本当の意味を理解してくれてはいないのだろうな。アギトもまた、ユーゴと同じか、それ以上に正義感の強い少年だから。
ユーゴの周囲に危険が迫った場合に限り。その言葉が意味するところに、後方や他の部隊の危機は見過ごせ……というものが含まれるなどと、考えてもいないのだろう。そういう顔を、目をしている。
「別に、俺は援護とかいらないけどな。アギトは出来るだけ顔出さずに、静かにじっとしてればいい」
「うぐ……まあ、魔獣が相手なら俺が出張るまでもないとは思うけどさ。でも、ちゃんと準備はしておくよ。ユーゴに何かあったら、今回の作戦の意味も無くなっちゃうんだし」
それはお前だぞ。と、ユーゴは大きなため息をついて肩を落とした。
そう……だな。もっとも失ってはならない、欠かしてはならないのはアギトだ。
次の作戦……魔女との戦いにおいても、その戦いを起こすまでの平穏の維持においても、彼の存在は何よりも重要なのだから。
「程度はどうであれ、ふたりとも作戦の全体について把握してくれているようですね」
「ユーゴもアギトも、どちらが欠けてもこの先に大き過ぎる障害が残ってしまいます。無茶をしないこと、無理をしないこと。そして、危険が迫ればすぐに防御に専念すること。よろしいですね?」
「欠けない、少なくとも俺の方は。フィリアはアギトの心配だけ……してても何も変わんないか。いつも通りぼーっとしてろ」
その……そうですね。私が心配したとて、戦況に些細な影響も無いというのは痛いほど理解しているつもりだ。
だが……ううん。面と向かって言われるとすごく頭が痛いな……
「大丈夫ですよ、フィリアさん。ユーゴはもちろん、俺だって逃げ延びることについては自信があります。なんだかんだと色んな危険を掻い潜って来ましたからね、今までにも」
「はい、頼りにしています。しかし、先ほども言った通り、貴方が前に出ることはあってはなりませんからね? あくまでもミラがいるように見せる為に、陽動の意味を強める為に同行していただいているのですから」
どうにも……ううん、不安だな。逃げ延びるとは言っても、そもそもアギトが逃げている時点で……逃げなければならない時点で、作戦は失敗しているのだし。
もっとも、彼の経験は頼りになる。ユーザントリアのものとは違ったとしても、彼は多くの魔獣を目にしているのだから。
それぞれへの対処も、国が違うからとそう大きく異なるとは思わないし。
それに、魔王との戦いや、異世界を救うなんて経験を積んで、胆力が鍛えられぬわけもない。
そういう意味で、私の指示を咎めたり、正したりする役割も期待して良いだろう。
「……では、ふたり共お願いします。作戦を完遂出来るか否かは貴方達に掛かっていますから。決して気を緩めず、しかし気負い過ぎることなく、その力を発揮してください」
私のお願いに、ふたりは黙って頷いた。
そしてすぐ、ユーゴは周囲の……いや、前方の警戒を始め、アギトは渡された魔具の再確認に取り掛かった。
「…………ふう。きっと、無事に」
ふたりが各々のすべきことに取り掛かったのを見ると――自分だけの考えごとをする時間が生まれると、不意にミラの顔が頭に浮かんだ。
ミラは言った。何かがあれば、アギトはきっとあの力を……あの異変を、また起こしてしまうだろう、と。
そして……その力がもしも必要になったならば、躊躇無く振るうべきだ、と。
そんな選択をさせてしまったことを、私は恥ずべきなのだろうか。いや、そこに悩む余地は無い。
これ以上無いと、己を恥じて後悔し、懺悔を口にし続けるべきだろう。だが……
今、それをしていて良いのか……と、そんな焦りが生まれてしまう。私はもっと、今この瞬間の問題に向き合わねばならないのではないか、と。そう思ってしまう。
ミラを軽んじてはならない。アギトを軽んじてはならない。もちろん、友軍の皆も、ユーゴも、何もかも。
軽んじて良いものなどどこにも存在しない……ことは分かっている。それでも……
「……っ」
ぱち。と、両手で腿を打って、悪い想像を振り払う。違う、私は誰をも軽んじてなどいない、と。
今この瞬間だけには、私は皆を信用し、信頼して、この望みを託したのだ、と。身勝手にもそれを押し付けることで、戦う気持ちを萎えさせないようにと。
ネーオンタインの解放が済めば、きっとミラにも謝ろう。もしかしたら、謝らずとも良いと言ってくれるかもしれない。だが、それでも謝ろう。
この作戦さえ完了すれば、何もかもが未明であるという最悪の状況は抜けられる。
ここさえ切り抜けられれば、もう誰にもこれほどの無理を強いらずとも良くなるのだ。
頭の中でそんな言い訳を繰り返しながら、私は馬車に揺られ続けた。
ランデルからマチュシー、マチュシーからハル。そしてハルからヨロク。ただのひと時すらもその後悔から逃れることなく、じくじくと胸を痛めながら。




