第四百二十話【行って行って帰って帰って】
サンプテムでの交渉は完了した。
契約書類も、その日の晩とその後の移動先での作業で完成させられた。
ブラント、そしてカンタビルの街においては、特別に時間を割くほどの交渉は行われなかった。
いや、行わなかった、か。
協力の見返りに国土を譲渡する。そう約束して、候補地を提出し、その事実を確認しに行っただけ。
つまるところ、まだ協力をお願いする段階にはないから、欲しいものだけ決めておいてくれ。と、念押しに行ったに過ぎないのだから。
そんなことだから、サンプテムを出発してブラントへ向かうのに一日。
翌朝から挨拶と交渉を行い、その日の内にまた出発してカンタビルへ。
まったく同じことをそこでも繰り返して、そこからはもう真っ直ぐに戻るだけ。
夜が明けて、カンタビルを出て、またその翌朝にブラントを出発してそのまま……
「――お早いお戻りねぇ、アンスーリァ国王陛下。もしかして、あとのふたつの街では取り付く島も無く断られてしまったかしらぁ?」
「少しぶりですね、イリーナ殿。それと……相変わらず手厳しいことをおっしゃられます」
「ですが、そうではないこと……そうならないことは、貴女も理解していたでしょう」
また、私達はサンプテムの街まで戻っていた。今度は正式な契約を締結する為に。
「市長、言動にお気を付けください。先日も、その後にも申し上げましたが、こちらの方は……」
「分かっているわよぉ。だからこそ、こうして嫌味を言いたくなるんじゃないのよぉ」
嫌味……か。
数日ぶりに再開したイリーナに、顔を突き合わせた瞬間から早速突っ掛かられてしまった。
しかしながら、こんな関係をなんとなく心地好く感じている自分がいた。
それはきっと……彼女がマリアノさんの訃報に涙したから――私と同じく、あの方を心から尊敬し、愛していたのだと知ったから、だろう。
偶然にも、私達は同じ人物に助けられ、ここまで進んできたもの同士なのだ。と、そんな仲間意識が生まれているのかな。
「それでは、書類に目を通していただいてもよろしいですか? 貴女に同意いただければ、今度こそ契約は成立です」
「あっ。あれはあくまで念書だからと、今になってひっくり返すのはダメですよ」
「いくら意地悪したいからって、そんな無様な真似はしないわよぉ」
「もっとも……言われちゃったなら、やりたくもなってしまうのだけれどぉ」
っ⁈ よ、余計なことを言ってしまった……?
それは困る。今日はもうこのまま真っ直ぐオクソフォンまで戻りたいのだ。
予定にはまだ間に合うが、しかし一刻も早くランデルへ帰りたい理由もある。
そんな焦りを見抜かれたのか、イリーナは普段よりもずっとずっと嬉しそうな顔で私を見て嗤っていた。
「……市長」
「わ、分かっているわよぉ。はあ……貴女が私の部下だったなら、毎日がどれだけ面白おかしいことか。とても惜しいわねぇ」
部下……か。
それを女王相手に言う胆力を持ち、何も無いところにこれだけの街を作ったこの人物をもしも配下に加えられたなら、それこそ私もどれだけ心強いことか。
私は彼女とは対照的な生き方をしてきた。そして、対照的な在り方をしている。と、そう思った。
けれど、その本質は案外近いのかな。
「優秀な人材はどれだけいても困りませんからね」
「……別に、優秀さを買っているわけではないのだけれどねぇ」
うっ。仲間意識に似た感情はたしかに抱いているが、それはそれとして……どうにもこう揚げ足を取られるばかりの関係性は好ましくない。
私が余計な発言をする度に、イリーナは嬉しそうな顔で私を見下すのだ。
「うふふ。今日のところはあまりいじめないでおいてあげるわぁ」
「貴女の話が真実ならば、ここで無駄な時間を使わせるのはこちらの損益にも繋がりかねないのだしぃ」
「……そうしていただけると助かります」
さてと。と、イリーナは満足げな顔で私から目を切ると、もうにやにや笑いなどはどこかへやって、真剣な顔で書類に目を通し始めた。
書いてあること自体は先日話し合った通りだ。
それに抜けが無いか、私が勝手に書き換えてやしないか。と、念書と照らし合わせて確認するだけ……だが……
もちろん、私もその念書をもとに作成しているわけだから。基本的には抜けや嘘は無い。
そのくらいは彼女も分かっているから、もう少し手短に……悪い言い方をするのならば、手抜きをした確認をするかな……と思っていたのだが……
「……案外、警戒されているのですね。貴女から見た私は、取るに足らない、器として相応しくない王だと思っていましたが……」
「それとこれとは話が別よぉ。無能でも謀くらいはするわぁ」
「有能というのは、無能の考えをきちんと看破する人間を指す言葉よぉ」
「他者を見下して警戒しない人間は、無能にも至らないわぁ」
散々私を見下しても、バカにしても、決して油断はしない……か。
もとより騙してやろうなんてつもりは無かったが、彼女との駆け引きには、不必要な欲を出さぬ方が良さそうだ。
「……ん、確認したわぁ。それじゃあ……ヴィンセント、貴女が印を捺しなさいな」
「わ、私……ですか。しかしながら、サンプテムの現市長は貴女で……」
良いから。と、イリーナは優しい目でヴィンセント少年を促した。
この少年は、イリーナが王に相応しい器であると見出した、サンプテムを……いや、この街をずっと大きくした先に出来上がる国を治める、未来の統治者……だそうだ。
その能力については……正直、私からでは測り知ることが出来ていない。
もちろん、そう呼ばれるだけあって賢いし警戒深いことは分かっている。ただ……
「相手は国王、そしてこの契約は対等な関係を約束するもの。なら、私よりも貴方が同意しなければならないでしょう」
「それも含めて、私は貴方を王の器と呼んでいるのよぉ」
「……っ。しかしながら……」
私から見て、当のヴィンセント本人には、王になろうという野心と、それを発する自信が無いように見えた。
以前の訪問に際し、イリーナは彼を私よりも王に相応しいものとして紹介した。
そして、それを引き合いに出すことで、現王政を認めないという立ち位置も明確に示している。
そうまでされた……にもかかわらず、私には彼女の考えが――主張の根幹となるヴィンセントの素養が、掴み切れていなかったのだ……が……
「……イリーナ殿。その……もしや、ですが。貴女はヴィンセント殿の今ではなく、未来に――貴女の家に由来する占いの結果に、真なる王の姿を見出している……のでしょうか」
イリーナの振る舞いが、行為が、まるで子を育てる親のように見えた。
そしてそれは、今日に限ったことではない。
そう思ってしまったら、悪い言い方だとは分かっていても尋ねずにはいられなかった。
ヴィンセント少年には、可能性があるから賭けているのではないか……と。
今見えている能力ではなく、若さという可能性にこそ……
「……さあ、どうでしょうねぇ。少なくとも私は、もう占術なんてものはアテにしていないつもりだけれどぉ」
「王になると予言された器は、その位に座ることなく没しているのだしぃ」
「……申し訳ありません、失言をお許しください」
怒ってはいないわぁ。と、そう言ったイリーナの目は、どことなく素直なものだった。
そんな目で――見下すのでも嘲笑うのでもない笑顔で、じっと私を見ている。
「まあ、そんなことはどうだっていいじゃない。結論が分かった時には、貴女はすでに王位を追われている筈なのだからぁ」
「……なるほど、たしかにそうなりますね」
王位を追われる……か。
それについては、自ら手放すのだととっくに腹に決めているのだがな。
しかし……そうだな。あるいは、私が手放すよりも先に、彼女達に追い落とされてしまう可能性もあるだろうか。
そうなったら……流石に諸手を挙げて称える他に無いのだろうな。
「さ、我らの王は捺印を終えたわぁ。次は貴女の番よぉ。時間が惜しいのならば、ここへ来る前に自分の印は捺しておけば良かったのにねぇ」
「そんなわけには参りませんよ、重大な決めごとなのですから」
お堅いわねぇ。と、イリーナはまた目を細めて笑った。
そんな彼女に急かされて、私も契約書類に印を捺す…………前に、余計な文を書き加えられていないかを確認しておこう。
「……うふふ。自分で作った書類を今になって確認しているのかしらぁ? もしや、酒に酔った席で書いてなどいないでしょうねぇ」
「……そうですね。すべてを警戒することが、賢い王の条件とのことでしたから」
「未来のヴィンセント殿も、今の貴女も、そして……昨日の私も疑わねばならないでしょう」
改ざんの形跡は……無いな。では。と、私も契約書類に印を捺した。
書類の二枚の内の一枚を私が、もう一枚をこのサンプテムが保有することで、協力がここに約束されたことになる。
「では……近く、ランデルを伺うわねぇ。その時はきちんともてなして頂戴」
「はい、もちろんです。いつでもいらしてください」
そして私達は互いに手を取り合って、睨み合いながらでも助け合うことを誓った。
さあ、ではこのままオクソフォンまで戻ろうか。
ランディッチにことの顛末を伝えて、そしてそのまま派遣部隊と並走して陸路でランデルへと帰るのだ。




