第四百十七話【交わされる約束】
マリアノさんの訃報を知らされ、イリーナは崩れ落ちた。
涙をこぼし、ずっと余裕の笑みを浮かべていた顔を悲痛に歪めて。嗚咽を噛み殺してその事実を受け止めようとしていた。
その反応に……今、考えるべきではないこととは分かっているが……私は少し、安堵した。
イリーナとマリアノさんの過去を少しだけ聞いた。ほんのわずかだけ、表面上だけ。
それでも、その結末だけは理解出来たつもりだ。
ふたりは志を分かち、道を違えた。
その最後は別離で、あるいは恨みや憎しみさえあっても不思議ではないとすら思えた。
それだけの信頼を、イリーナはマリアノさんに寄せていた……のだろうから。
だから、もしかしたら……と。
その報せに、笑みでも浮かべられてしまうのではないか……と、下らない、あまりに人を見下げた考えが頭にあった。
イリーナはもうマリアノさんを敵として――裏切ったものとして認識していて、その最期を悲しんでなどくれないのではないか……と。
けれど、イリーナはこうして悲しんでくれた。
私にとっても大切な人の死に、悲劇に、胸を痛めて苦しんでくれた。
そのことが――そんなことも信じられなかった自分がとても恨めしくて、少し頭が痛くなった。
「――イリーナ殿。私達には――アンスーリァには、特別隊には、私には、マリアノさんですら乗り越えられなかった障害を踏み越える義務がある」
「そして……それを可能と信じられるだけの力が、希望がある」
「……っ。お、おい。フィリア……」
そう。悲しんでくれた……のだ。
まったく望外なことだったが、イリーナに精神的な動揺が見られた。
なら――踏み入らぬ理由など無いだろう――
「――どうかご助力を。このサンプテムも、ほかの三都市も無関係な話ではないのです」
「今それは北に――ダーンフールよりも更に北に拠点を構えている……と思われます。そちらへの遠征に、私達は全勢力を傾けなければなりません」
おい。と、声が聞こえた。ユーゴの声だった。
少しだけ彼らしくない、どこか怯えたような声……だったかな。
それから背中を叩かれた感覚があった。振り返らずとも分かる。ユーゴが私を咎めているのだ。
今、目の前の人物は悲しみに暮れている。そんな話に耳を傾ける余裕も、正しい判断を下す能力も無いだろう。だから……と。
「フィリア、出直そう。ちょっと無理だろ、あの感じじゃ。話し合いなんて……」
「――いいえ。この時、この場にて決定していただきます」
「まだブラントとカンタビルへの訪問も控えていますし、ランディッチ殿には帰路にて合流すると約束を交わしているのです。一日の猶予すら惜しい」
やはり、ユーゴは優しい子だ。
その優しさ、人を想える懐の深さは、私にとっても誇らしいし、目指すべきものだろうとも思う。
けれど――
「……フィリア……?」
私はユーゴの制止を跳ね除けた。
そして……それを、ミラは咎めなかった。
ミラもアギトも、言いたいことがあると言わん顔をしていたが、それを飲み込んで私の背を睨んでいる。
「――イリーナ殿、ご決断を。ウェリズの港は譲渡出来ませんが、しかし見合うだけの報酬は準備していますから。さあ」
――これが、貴女のやり方なのだろう――
私の頭の中には、そんな下卑た言葉を投げ掛ける自分がいた。
けれど……私はそれを、追い払えずにいた。いいや、追い払うわけにはいかなかった。
「……ふふ……うふふ。貴女……そんな顔もするのねぇ……っ。少し、余計なお話をし過ぎてしまったかしらぁ」
「……そうですね。もし、貴女の人となりを――理念を知らねば、こうも踏み込めなかったでしょう。しかしながら……」
私は貴女のやり方で、私の信念を貫き通す。
まだ立ち上がることも出来ないイリーナに向けて、私はそう宣告した。
「うふふ……手を取り合うことが貴女の外交だったのではなくってぇ? それがまた、ずいぶん乱暴な態度を取るのねぇ」
「はい、その通りです。申し訳ありません、イリーナ殿」
「私から見て、貴女はとても……私よりもずっと、他の為政者と比べてもひと際優秀な人物ですから。学ぶべきところは、真似させていただくこともありますでしょう」
うふふ。と、イリーナは控えめな笑い声をあげた。
けれど……まだ、表情は暗いままだった。思っていた以上に動揺が大きいようだ。
――これはなんと都合が良いのだろう――
「……っ。イリーナ殿。貴女が王政を認めないことも、マリアノ殿よりもヴィンセント殿をより相応しいものと思っていることも理解しました」
「しかしながら、私は貴女に手を取って貰わねばなりません。でなければ、立ち行かぬのですから」
「……ふふ……互いにとって釣り合いの取れる妥協点を押し付けて、懐にまで踏み込んで手を握るだなんて。案外……悪くない器だったのかもしれないわねぇ……」
私は今、どんな顔をしているのかな。
もともと表情の乏しい方だから、きっと冷たい顔をしたままなのだろう。
冷たい顔をして、じっと彼女を見下しているのだ。
そんな私を睨み返して、イリーナは揺らりと立ち上がった。
そして……まだ涙の止まらない目を細めて、先ほどまでのように私を嘲笑ってみせた。
「けれどぉ……うふふ。人を見定める力についてはまだまだみたいねぇ。この程度の動揺で、私が考えを間違えると思ったかしらぁ?」
「いえ、まさか。きっと賢明な判断を下すだろうと信じております」
イリーナは私の言葉に目を伏せた。
もしかしたら、これまでの自らの行動――言動を悔やんでなどいるだろうか。
いや、そういう雰囲気ではない。
彼女はきっと、私の選択に面食らっているだけだ。
思いもよらぬ角度から、それも偶然だけを原因に、まったく予期しない揺さぶりを受けたのだから。
「……良いでしょう。ウェリズは諦めるわぁ。けれど、港の利用権は許可していただきたいわねぇ」
「占有権を問題視していたのであって、私達が港を使うこと自体は問題無いのでしょう?」
「はい、それは構いません。ウェリズとナリッド、それにカンスタンの港と、この南部の港とが繋がれば、私達にも理がありますし、軍事派遣に際しても利便性が向上するでしょうから」
港の使用権くらいはもともと解放するつもりだったが、それを言えば、では他の要求を……と、強かに攻められるだろう。ここは黙するが吉か。
イリーナは私の返答に小さく頷いて、それから何かを思い出すようなしぐさをしてみせる。
しかしながら、やはりと言うか……それは演技でしかないのだろう。
今やっと思い出したと言いたげな顔を見るに、きっとそうだ。
「協力の見返りには、バリスを頂戴させていただくわぁ」
「バリス……ですか。意外ですね。候補の内には入れたものの、見返りとしては弱いかと思っていましたが……」
バリスの街とは、このサンプテムから北西に進んだ先にある街だ。
カンビレッジを訪れる際に経由することもある、小さくは無い街。
そう、小さくは無い、程度の街。
そしてそこは、天然の資源に乏しい街でもある。
河川こそ隣接しているが、カンビレッジやバンガムの開発の折に森林は拓かれ、目ぼしい鉱石資源も発見されていないところだが……
「資源が欲しいわけじゃないわぁ。ウェリズの港を使えるとなったら、そこまでの中継点が欲しいのよねぇ」
「貴女だって、ナリッドの港から直接ここまで来ることは出来ないでしょう?」
「……では、街の中の公地の所有権を譲渡する……あるいは、すでにある公的施設を引き渡す……ということでよろしいでしょうか?」
そうなるわねぇ。と、イリーナは目を細めた。
たしかに、海路だけでは交易も立ち行かない。
ジャンセンさんが盗賊団の活動拠点を各地に作っていたのも、移動の際に足を休める場所を確保する為だっただろう。
それを思えば、なるほど納得な理屈ではあったが……
「うふふ、そうやって深読みして疑心に浸ってくれれば幸いだわぁ。すでにこの瞬間から国盗り合戦は始まっているのだと自覚することねぇ」
「国盗り合戦……ですか。ともすれば、差し詰め私は国売りの暗君……でしょうね」
差し詰めずともそこは事実じゃなくってぇ……? と、イリーナはなんだか憐れむような目を私へ向けた。
その……違うのです。自覚が無かったわけではなく、少し話を合わせようとしただけで……
「……それじゃあ、バリスの街にて、公地の所有権、及び工事の許可を条件に、ランデルの防衛戦力の派遣を。国との約束は違えないわぁ」
「はい、ありがとうございます。では、約定についての書類はこれから作成しますので、ふたつの街を訪れた帰りに、もう一度立ち寄らせていただきますね」
ひとまず念書だけを製作し、正式な契約書は道中に仕上げよう。
もう一日ここに滞在するよりも、帰路にて足を止めざるを得ない時間を有効に活用すべきだ。
「……ねぇ。それから……これは個人的なお願いなんだけれどぉ……」
「……? はい、なんでしょうか。」
よし。これでサンプテムでの仕事はひとまず片付いた。と、胸を撫で下ろす私に、イリーナは暗い顔を向けた。
その目にはもう嘲笑の意図は無く、言葉の通り私をアンスーリァ王ではなく個人として見ているように思えた。
「……マリアノの墓前に花を添えたいの。私にとって彼女は恩人で……何より、かけがえの無い友人だったのだから」
「……はい。では、近くランデルへとお越しください」
マリアノさんに花を……か。結局、誰の骸も連れて帰れなかったのだよな。
公的にも認められた組織だったし、国王直属の部隊ということもあったから、慰霊碑は立てられている……が……
私はその事実を伏せ、イリーナと別れた。
部屋を出て、建物を出て、そして馬車に乗り込むまで。
その間は、私も王として――毅然とした振る舞いが出来ていた……と思う。
それから後のことは……私もしっかりとは覚えていない。
ただ……罪悪感と喪失感に、強い倦怠感を覚えたのはたしかだ。
やはり、私には難しいことだったようだ。




