第四百十四話【理念と思惑】
 
「――フィリア=ネイ=アンスーリァ。貴女には不思議に思えているのではなくってぇ?」
短い沈黙が訪れた。そして、それはイリーナの手によって破られる。
ヴィンセントは言った。人は自らの利の為に行動するのだ……いや、すべきだ、と。
そんな理念の下に、彼は誰をも信用しないのだと。
イリーナは、それを聞いた私に対し、疑問を抱いているのではないかと言った。
少年の発言の後に少しだけ生まれた沈黙を破って、せせら笑うような態度で。
「……不思議……疑問……そうですね。しかしながら……」
ふたりの言葉の意図が掴めない。掴み切れない。正直なところ、これが本音だった。
ヴィンセントの言っている言葉は理解出来る。
だが……本当にそう考え、その理念の下に行動しているようには見えないのだ。
彼は私達を温かく歓迎してくれた……ように見えた。
もちろん、それが政治的に必要な行為だったから……と、笑顔の裏で歯を食い縛っていたのだと言われてしまえばそれまでだ。
だが……そうであるようには見えなかった。
イリーナの言葉は……そもそも理解が難しい。
いいや、言葉そのものは分かっている。それの意味も分かっている。
ただ……それが指すものが――不思議を、疑問を、何に感じていると思われているのだろうか、と。
「……ふふふ。ヴィンセント、それではまだ足りないわぁ。そこの女王様は、まだ貴方の真贋を測り損ねるとご立腹よぉ」
「ほぅら、きちんとその胸の内のものをすべて吐き出しなさいな」
は、腹を立てているわけではないが……しかし、そうだな。
何に疑問があるか――最大のものは何かと問われれば、やはりヴィンセント少年について――彼の言葉の、その真意についてだろう。
「……市長、お戯れはこれまでに。私は貴女の付き人で、ただ拾われただけの孤児で――」
「――続けなさいと言っているでしょう」
「貴方は王になるの。他でもない私の手によって見出され、そして私を越えて王になる。その意味が理解出来ないわけはないのだけれどぉ?」
ばつの悪そうな顔で撤回を求めるヴィンセントに、イリーナは真剣な眼差しを向けて突き放した。
突き放した……冷たく、あしらうように拒んだ……のだと思えた。
「ヴィンセント。貴方には義務があるのよぉ。能力に伴う義務がねぇ」
「そしてそれは、この場において現国王を納得させる……いいえ。屈服させるという過程も含んでいるわぁ」
「っ。市長、撤回なさってください。屈服などとは、国王陛下に向けて発せられて良い言葉では――」
ヴィンセント。と、イリーナは静かに少年を呼んだ。
それは……子を叱る親のような言葉だった。
先ほどまでは少年に諫められ、叱られ、折檻さえされているように思えたふたりの関係が、突然ひっくり返ってしまったようだった。
「……っ。申し訳ございません、国王陛下。市長はどうやら、私を貴女と問答させたいようなのです。願わくば、しばしお付き合いいただけませんでしょうか」
「これまでの不敬も償えぬうちの、厚かましい願いとは思いますが……」
「いえ、私は構いませんよ。それに、私も貴方には興味があります」
「こうして街ひとつを興したイリーナが、王の器とまで褒め称える貴方の在り方について。聞かせていただけるのならば、むしろこちらから頼みたいほどです」
ヴィンセントは私の言葉に耳を赤くして、申し訳ございません。ありがとうございます。と、頭を深く下げてそう言った。
嘘は言っていない。私の今の言葉に、嘘偽りは一切無い。
ただ……その言葉に込められた意味は、今と少し前とでは――話を始める前とでは、大きく変わってしまっているけれど。
私はヴィンセントを、イリーナに認められるだけの人物であるとして、それに興味を持った。持っていた。だが……
今の私は、それには興味が無い。むしろその逆だ。
今のこの少年の振る舞い、姿は、とてもではないが王に相応しいとは――人を使役し、統治し、そしてあらゆるものごとにおいて矢面に立つ位に座る人物には思えなかったのだ。
イリーナは何を以ってこの少年を王の器とまで呼ぶのか。
私の興味自体はそこから動いていないが、その意味はずっとズレたものになっている。
「……私は思うのです。人は、必ず敵になり得るものなのだ、と」
「たとえどんな人物であろうと――どんな関係であろうと、どれだけの時間を共に過ごそうとも、敵になり得るものとして在るのだと」
「……敵になり得る……ですか。それはなるほど、たしかに誰をも信じないという言葉に当て嵌まりますが……」
少年はゆっくりと顔を上げると、まだ恥ずかしそうに目を背けたまま語り始めてくれた。
その内に秘めた、誰をも信じないという理念について。それを話せとイリーナに言われたから。
「……ヴィンセント殿。しかしながら、私には貴方がそれほど周りを信用していない……疑って、警戒して振る舞っているようには見えません」
「むしろ貴方は、初対面である私達を厚くもてなそうとしてくださいました」
さて。話を始めた動機はなんでも良い。
問題なのは、この問答によって何が導かれるか……でもないのだろう。
きっとこの話し合いには、イリーナが望む結末が訪れるか否か以外に意味は無いのだ。
ただ、それでも疑問は疑問。気になることは明かしておきたい。
そこで、私はひとつの問いを少年へと投げかけた。
「誰もが敵になり得るのだ……と、そう考えたならば、むしろこれほどの厚遇は必要無かったでしょう」
「それでも貴方は私達をもてなそうとして、イリーナ殿との間を取り持とうと必死になった。それはどうしてでしょう」
ヴィンセントは私の問いに首を竦め、まるで叱られている子供のようになっていた。
けれど、そうでありながらきちんと私と向き合って、探すまでもなく手に持っていただろう答えをゆっくりと言葉にし始める。
「……それは逆なのです、国王陛下。誰もが敵になり得るとは、何をしてもいつかは裏切られる……と、そういった意味合いではないのです」
み私が思うのは、自らの振る舞い如何によって、誰もが私を見限り、敵として立ちはだかり得るのだろう、と。そう考えるのです」
「……貴方の振る舞いによって、周りの人間が敵になり得る……ですか」
それは……そうだろう。まったくその通りだ。
そして……その考えは、決して特別なものではないように思える。
私とてそのくらいは考える。
のんきで間抜けで……と、いつもユーゴに言われる私でも、議会や貴族を敵に回さぬようにと振る舞いに気を付けて生きて来た。
もっとも……最近はそれもお構いなしになりつつあるが……
もしやとは思うが、イリーナはこれを――こんなにも当たり前の、普遍的な考えを王の素養と呼ぶのだろうか。
いや、そんな筈は無い。では、ヴィンセントの抱く理念とは……
「国王陛下。私には……人が善良なものに思えます。誰もが自らの善性に則り、己を律し、正義ある行動を心掛ける、貴い存在であるように」
「……私も同じ考えです。人は幸福を望むものであり、それは決して悪性によって成り立つものではありません」
「ならば、個人に程度の差はあれど、皆が正義を掲げて暮らすことに不思議は無いでしょう」
少年は私の言葉に、目をキラキラさせながら頷いた。
同じ考えであると肯定されたことが嬉しい……いや、違う。
もしや、彼はこれまでに自分と考えを同じくする人物と出会わなかった……なんてことがあるだろうか。
しかし、人は善良な生き物である。と、そんな大雑把な考えすら共有出来る相手がいなかった……なんてことは、イリーナがよほどの悪人でもない限りはあり得るわけも無い。
「――善良であるがゆえに、人は悪行を重ねるのではないか、と。私はそう思うのです。それがゆえに、人は容易く敵になり得る、と」
「……? 待ってください、その言葉は前後が繋がりません」
「善良であることと悪行を重ねることが矛盾するとは言いませんが、しかし……」
それと敵対とはまた別の話ではないだろうか? と、私がそう問うと、少年は小さく首を横に振った。
違わない……と、強くそう主張しているようだった。
「悪行とは、すなわち法によって定められた規範を逸脱する行為を指します」
「ですがそれは、あくまでも大衆にとって正しいとされたもの」
「人は誰しもが善良であるように生まれ、過ごしますが、しかし、芽生えた正義が、必ずしも大衆に迎合するものとは限らないのだと思うのです」
自らの中に掲げた正義が、規範に則らない悪行と呼ばれるものであったならば。ヴィンセントはそう言った。
その言葉には……何か、切実な思いが滲んでいる気がした。
「……大衆が悪と呼ぶものを、正義として認識してしまったならば」
「それに背くことは、善良な生き方をやめるということ。それを貫くことは、善良な振る舞いをやめるということ」
「ふたつにひとつで、人は悪行に身を染めるのです。在り方を善として貫く為に」
「……哲学じみた話になって来ましたね。しかし、貴方の言いたいことは理解出来ます」
「そして……そうですね。とても頭の痛い話ですが……」
少年ヴィンセントの言葉に、私はついある人の顔を思い出してしまった。
ひとりではない、何人かの顔だ。私にとって、とても大切な人達の顔だ。
ある人は、善良な統治者としてあった。
けれど、その人の掲げた正義は、いつの間にか大衆からは悪行であるようにと捉えられてしまった。
いや……あるいは、それを悪としたのはごく一部の正義だけだったのかもしれない。
またある人は、盗みを働く悪人として在った。
その人の掲げた正義は、守られなかった弱い人々を救うことにあった。
そしてその悪行は、いつの日か正しい行いとして、公に認められる日が来た。
「……なるほど。イリーナの言葉の意味が――私と貴方とを対極にあるものとした意味が理解出来ました」
「貴方はそれを――その変化、変位、変転を、恐ろしいものとして捉えている……のですね」
少年は私の言葉に力強く頷いた。
そうである。そうでなければならない。そうであるからこそ……と、その理念の下に行動しているのだと。
なるほど、対極だ。
その正義の失墜を、その悪行の浄化を是とした私とは、まるで対極にあると言って差し支えない。
視線をヴィンセントからイリーナへと向けると、私はまたあの嘲笑うような細い目を見付けてしまった。
そして……やっと、それの意味が分かった。
「……イリーナ殿。貴女は私を……いいえ。私達を、特別隊を――かつてあった盗賊団を、ジャンセンさん達を知っているのですね」
「……あらぁ。きちんと答えに行き着くなんて、案外まともな頭も持っているのねぇ」
彼女はすべてを知っていたのだ。
私が王位を継いでから、特別隊を結成するまでの闇雲に走るしかなかった時間を。
隊が出来上がってから真っ直ぐに走るようになった時間を。
そして……立ち止まり、膝を折り、絶望する、その瞬間の一歩手前までだけを。
 




