第四百十三話【王に相応しいもの】
誰をも信じない、この世で唯一孤独なもの。イリーナはヴィンセントをそう評した。
私にはその意味が分からなかった。
警戒心が強い、慎重な人物という意味かとも思った。
だが、もしもそうなら、孤独という言葉の意味が分からない。
他者を信用せず、自らの能力だけを武器に進む苛烈なものという意味かとも思った。
だが、唯一という言葉はどうやっても不可解だ。
そんなイリーナの言葉を、ヴィンセントは黙って聞いていた。
自らの発言を遮ってまで発せられた、罵倒もかくやと言わん評価を。そして……
「……っ⁉ た、叩こうとするんじゃないわよ、何度も何度も」
黙ったまま……片手を上げて、ゆっくりとイリーナへと迫った。
なんだか子供の悪口に折檻をする大人のようにも見えるな……
「……先の発言を撤回してください、市長」
「繰り返し申し上げますが、こちらの方こそが現アンスーリァ国王陛下。その方を前に、他の人間を王に相応しいなどとは、無礼な妄言も甚だしいですよ」
「妄言って……貴方ねぇ」
そんなヴィンセントの様子にイリーナが必死で逃げるものだから、彼は上げた手をどこに降ろせば良いか分からなくなって、ため息をついてしまった。
そして、またしても発言の撤回を求める。
彼は自らが王に相応しいと言われることを……いや、私の前でそれを口にされることを嫌がっている……のかな。
もちろん、それが本心かどうかは関係無い。
彼は私に――現在の王政を纏める人間に気を遣って、アンスーリァとサンプテムとの関係を悪いものにしないようにと努めているのだ。
そういう人物である……と、それは分かった。
ただ……気に掛かるのは、それくらいはとっくに理解しているであろうイリーナが、彼を困らせると知りながら、同じことを繰り返している点……だが……
「貴方は王になる、私に見初められた以上それは変わらないわぁ。能力には義務が付いて回るものよ、自覚はあるのでしょう?」
「そういう話をしているのではありません。庶民を王にという言葉だけでも不敬であるのに、あまつさえそれを国王その人を前に発言する精神性を咎めているのです」
だから、私はあの娘を王とは認めていないのだからぁ。と、イリーナがそう言えば、ヴィンセントはまた手を掲げて彼女へと迫った。
あ、あの……喧嘩はしないでくださいね……?
「……あの、ヴィンセント殿。そのくらいにしてさしあげてください。その……このままでは話も進みませんから」
「……申し訳ございません、国王陛下。この会談の後、必ずや振る舞いを正させますので、どうかこの場この不敬をお許しください」
いえ、何も私が怒っていたわけでもないので……
ヴィンセントは私に深々と頭を下げると、一度だけイリーナにも視線を送った。
だが……彼女がそれに嫌な顔をすると、また私に対して、もっと深くまで頭を下げて謝罪の言葉を述べる。
どうにも……うん。やはり、このふたりの関係は、上司と部下――市長と付き人という感じではない。
互いに敬意がありながら、対等な関係を築いている……ように見える。
「それでは、早速本題へと入りましょう。陛下、まずはこちらからの要求を再度提出させていただ――」
「――つまらないわぁ。つまらないつまらない、心底退屈だわ、そんなのは」
見える……のは、私ひとりだけの勘違いだろうか……?
ヴィンセントが襟を正して私と向き合ったと思えば、イリーナはまた退屈そうな顔で口を挟んだ。
もちろん、すべきこととしての会談を進めなければならない……と考えているだろうヴィンセントからすれば、それはとてもとても面白くないことだろう。
だから……また彼は片手を上げて、先ほどまでよりも少し急ぎ足でイリーナへと迫る。
「ど、どうどう。落ち着いてください、ヴィンセント殿」
「その……イリーナ殿の発言にも、理解や賛同は難しいですが、納得も出来るだけの理由は見て取れます」
「こうして放棄された街があった以上、今の王政に対して強い不信感があって然るべきでしょうから……」
「あらぁ、案外話が分かるじゃない。やっぱり手元に置いて愛でる分には、他に無いくらい素晴らしいものを持っているわねぇ」
それは褒められている……わけではなく、思い切り馬鹿にされているのだろうな。
だが、そう思われても仕方が無いのだと、私は……王家は、これまでの振る舞いを反省せねばならない。
「……私は今のこの国の形を認めていない。だからこそ、こうして新たに王として相応しい器を見付け、育て、そしてその支えになろうとしている」
「そこへいきなり王を名乗る小娘が現れたなら、立場を分からせるのは当然のことよねぇ」
「当然……かどうかを私の立場から判断するのは難しいですが、しかしまるで見当違いのことを言っているとも思いません」
イリーナは私の発言にどんどん機嫌を良くしていって、反対にヴィンセントはどんどん困り果てた顔になっていった。
イリーナの反応については、昨日とはまるで真逆だな。と、不意に思い出すのは私を徹底的に見下した笑顔だった。
それが今日はまだあまり見えていない……いや。
見下してはいるものの、それ以上に、ヴィンセントに対してじれったさを……自らが王であると主張しないことへのもどかしさ……のような感情を向けている気がする。
「――なら、まずはこの場で誰がもっとも王に相応しいのかをはっきりさせるべきでしょうねぇ」
「私は現王政を認めない、けれど貴女は現王政の代表としてこの場にやって来ている。ここが食い違ったままでは、とてもじゃないけど建設的な話し合いなんて出来っこないもの」
「……? え、ええと……」
おや。なんだかよく分からないところへ話が着地してしまいそうだな。
しかし、それでイリーナの気が済むのなら……彼女が納得して、そして話し合いを――協力をしてくれるのならば、それに文句も無いが……
「フィリア=ネイ=アンスーリァ。王に相応しい人物がどのような素質を備えているべきか――その最たるものがなんであるか、貴女は理解しているかしらぁ?」
「もっとも重要な素質……ですか。それは……ふむ」
また難しい問いを投げられたものだ。
王に必要な能力、素養についてはいくらでも思い当たるものがあるが、しかし……最も……と、たったひとつに答えを絞れと言われてみると、なかなか……
「陛下、真面目に取り合わないでください。今、あの方は躍起になっているだけなのです」
「これまではひとつの街の長として、いつかの将来にはもっと大きな領地を治めるのだと息巻いていたところへ、貴女が訪ねていらしたものですから」
「ただ負けず嫌いに張り合おうとしているだけで……」
「ちょっとぉ、聞き捨てならないことを言わないで頂戴」
「それと、陛下自らがこうして私の問いに耳を傾けてくださっているのに、それをやめろと言う方が不躾なのではないかしらぁ?」
あ、ああ、また喧嘩が始まってしまいそうになっている。
こうして私が考え込んで黙っている間にも、ふたりの間ですごくピリピリした空気が緊張の糸を張り始めていて……
「……こほん。私は何よりも、民を愛することを――国を、国民を、すべてを。愛し、守り抜くと誓う心こそを重要だと思っています」
「自らの内に誓いを秘め、そしてそれに殉ずるだけの気高い精神性こそが、民に称えられる存在に必要な覚悟である、と」
答えを急いで出さなければ。と、焦ったわけではなかったが、思いがけず言葉が口からこぼれた。
そしてそれは、形にしてみれば最も大切なことのように思えた。
「父に――先王にそう習ったから……と、そんな言葉だけで片付けてしまうことは、この問答においては相応しくないでしょう」
「ならば、私自身の言葉で、その考えの裏付けを語る必要もあるでしょうか」
王とは、国ありきのものだ。
国とは民ありきのものだ。
ならば、王は国を――延いては民を愛し、敬い、守らなければならない。
王は民に愛されて初めて王に足る。
最終防衛線の外では国王の名などに価値が無いことと同じように、民に愛されぬ――支持されぬ王になど、なんの価値も無い。
父は言った。民を愛せと。
すべての民が私を愛してくれるように、それ以上の愛をすべての国民へと向けるのだと。
その言葉の真意は――私の解釈は、自らを王として成立させてくれているすべてへの感謝を忘れないことだ。
私がそれを言い終えると、誰よりもまずヴィンセントが反応した。
手を叩き、感服しましたと言葉にし、そして私を称えるように笑顔を向けてくれる。
そんな彼の反応に続いて、ミラも手を叩き、アギトもそれに続いて、ユーゴは……しばらくむっとしていたが、渋々といった顔で合わせてくれた。
けれど、やはり……
「……子供ねぇ。理想論としては美しく健気で、素晴らしいものかもしれないけれど」
「でも……それを掲げた貴女の父は、いったいどうなったかしらぁ?」
「……そうですね。父は、それでも民に愛されず、民の放った凶弾によって倒れました」
「父はその理想を叶えられず、王に相応しくないと、そんな意見の爆発によってこの世を去ったのです」
イリーナだけは、やはり納得などしていない様子だった。
そして、そんな彼女からの反論は、あまりにも耳が痛い、どうしようもないほどの正論だった。
「ヴィンセント。貴方も語りなさい。私が貴方を王に相応しいとした理由を――貴方の根源を」
「思考の、行動の、すべての根幹となる、貴方自身の在り方を」
「ヴィンセント殿の……すべての根源、ですか」
彼こそが相応しい。と、イリーナほどの人物が――無から街を興し直した彼女がそう言うのだ。
その言葉には、私への対抗心だとか、ただの期待で済まされる程度の感情などはこもっていまい。
私も知りたい。と、そんな念が本人にも届いたのか、ヴィンセントはすごくすごく苦い顔で私をイリーナとを見比べていた。
そして……観念したようにため息をついて、ピシと背筋を伸ばして私と向き合った。
「……私は私が王に相応しいとは思っていません。それは……私が、誰をも信じないからです」
「ですが……市長は言います。それこそを、王に相応しい素養である、と」
誰も信じない。と、本人の口から語られてみると、それがとても嘘くさいもののように感じられた。
ヴィンセントには温かみがあった。
他者を寄せ付けないような冷えた振る舞いは無くて、むしろアギトやミラのような、他人を信じているからこその振る舞いにすら思えるくらいで……
「……私は、誰も信じません。人は必ず自らの利の為に行動するのだと――いえ、すべきだという理念の下に」
「……自らの利の為に……行動すべきである……ですか?」
ヴィンセントはこくんと頷いて、顔を赤くしながらまたため息をついた。
彼自身はそれを好ましいものと思っていない……のか。
けれど、そんな彼の姿を、イリーナは誇らしげに見ていた。
彼女はそれを――今の彼を、どこか自信無さげである少年こそを、王に相応しいと言いたいようだった。




