第四百五話【統治者イリーナ】
「――今更だけど、名乗っておきましょうか」
真剣な顔で、そしてしばらく沈黙した後で、女はそう言った。
軽々しい言葉でも冗談でもなく、真意として。これまでは名を名乗る意義すらも見出せなかったのだ、と。そう言っていた気がした。
「私はイリーナ=グラーヴ。この街を……サンプテムを、アンスーリァが捨てた民を見つめるもの。そこのところの理解、区別はもう済んでいて?」
「っ。はい……痛いほどに」
よろしい。と、女は……イリーナは、少しだけ満足げな声色でそう言った。
私達が捨てた民を……か。
自分でも何度もそういう言葉を使ってきたが、いざ目の前で……それも、当人側から告げられると、痛むものがあるな。
「それで……フィリア=ネイ、貴女の隣にいる子供達は何かしらぁ? まさかとは思うけれど、ここへは家族旅行に来た……なんて言わないわよねぇ」
「家……こほん。すみません、先に事情を説明すべきでした。こちらは私の護衛を務めてくださっている、現アンスーリァでも屈指の戦士で……」
ユーゴ、アギト、ミラ=ハークス。と、それぞれの名を紹介すれば、彼らは一様に…………ユーゴとミラはどことなく怒ったような顔で、アギトだけは真っ青な顔で、けれど一様に私の前へと歩み出た。
「……なるほどねぇ。おままごとか何かかと思ったけれど、顔付きは貴女より幾分かマシみたい。それに……ふぅん」
「……? あの、ミラがどうかしましたか……?」
女は三人を値踏みするようにじっと見つめ、そして最終的にはミラひとりだけを睨み付け始めた。
もしや……と、不意に頭に浮かんだのは、ミラの強過ぎる正義感だった。
まさかとは思うが、ここまでの扱いに憤慨して、イリーナを睨み付けるようなことをしてしまっているのでは……
「……なら、こちらも名前を偽るべきじゃなかったわねぇ」
「初めまして、アンスーリァの王様。そして王様をお守りするお子様騎士の皆様」
「私の名はイリーナ――イリーナ=トリッドグラヴ。よろしくねぇ、ハークスのお嬢さん」
「――っ! トリッドグラヴ……まさか、でも……なんデ……」
トリッドグラヴ……? それは……彼女の家の名前だろうか。
しかし……どうしてだろうか、私には聞き馴染みの無い名だ。
少なくとも、この国の貴族にはそのような名前の家は無かった筈だ。
であれば、王家や政治とは関わりの低い、けれどそれなりに大きな家系なのだろう……とは思うのだが。
しかし、ならばそれをどうしてミラが知っていて、そして……どうしてイリーナは、ミラを特別扱いするような言動を……?
「……あの、ミラ。貴女と彼女との間には面識がある……のでしょうか。それとも、もしや彼女は……」
考えられる可能性は……彼女がアンスーリァではなく、ユーザントリアの出身であること……か。
ユーザントリアの貴族姓のひとつ……なのか。
勇者であるミラを知っているのならば、ここへ移住してきたのはまだ最近のこと……?
しかし、それでひとつの街の長にまで上り詰めるには時間が短過ぎる。なら……
「――術師五家、星読みの家系。未来を司る者――トリッドグラヴ」
「私と――ハークスと同じ、ユーザントリアの魔術師家系のひとつヨ。でも……」
「不思議に思う……わよねぇ。まったく、奇妙な縁があったものだわぁ。話でだけ聞かされていた五家の人間に、まさか国外で出会うだなんてねぇ」
術師五家……? それは……ええと、聞いた覚えがある……な。
ユーザントリアに存在する、五つの魔術家系――それも、ミラのような傑物揃いの血族だった……だろうか。
しかし、そうであるならばどうしてそんな人物がここに……と、その疑問は、目の前でゆらゆら揺れているオレンジ色の頭に叩き伏せられる。今更なことだったな……と。
し、しかし……
「そうよ。私は魔術が使えない。貴女が見ればすぐに分かるでしょうねぇ」
「……それで……家を追われて、国外へと逃げ込んだ……のネ」
言い方が悪いわねぇ。と、イリーナはむっとした顔で、けれど怒っている様子も無くそう言った。
国外へ……ユーザントリアから、このアンスーリァへ……
家を追放された……そして、外国にまで逃げ込んだ……か。
言い方が悪いとは言ったが、イリーナはミラの言葉を否定しなかった。では……やはり……
「……まぁ、そのことは今は関係無いわねぇ。国王様、お外へ散歩に参りましょうかぁ」
「え……あっ、は、はい」
ふたりのやりとりに悩む私へ、イリーナは急かすように声を掛けた。
その声色は……これまでに聞いたものよりも少し……寂し気に思えた。
「こうも子供ばかりだと、暗い部屋に閉じこもる気分にもならないわねぇ。もっとも、それを魔術師家系の人間が言うのもどうかと思うけれどぉ」
先ほど降りて来た急な階段を上る最中、イリーナは少しふざけたような口調でそう言った。
どう反応して良いかは分からなかったが、しかし……言葉の表だけを捉えて良いのならば、ひとまずは賛成したいと思った。
ユーゴにもミラにも、明るい日差しの下が似合う。それは私も思うところだから。
そして段を上り切って、また紙とインクのニオイに満たされた小屋の中へと戻ると、私達はそのまま外へ――街中へと飛び出した。そこで……
「――まったくもう、予定がめちゃくちゃに引っ掻き回されてしまったわぁ。本当なら、驚いた顔の貴女に向かって、ここでしっかり種明かしをするつもりだったのに」
「……? あの、種明かし……とは……」
いったい何を……? と、私が首を傾げると、イリーナはものすごく苦いものを齧ったような顔になってしまった。その……すみません……
そんな彼女の反応を見れば、私もすぐに答えへと辿り着く。
そうだ、そうだった。私達は……いや、私は、この光景に疑問を持ち、それがなんであるかと尋ねるべきだ……と、そう言われていたのだ。
「イリーナ殿、この場所はいったいなんなのですか?」
「街を模しただけのもの……でないことは、なんとなく分かっています。生活の痕跡もあり、その上で手入れもされている」
「ならば、ここにはたしかに人が暮らしていて……」
「……なのに、今は子供のひとりも見当たらない……わねぇ。そう、そうよぉ。そういう反応を見たかったのよぉ」
イリーナは私の問いに、うっとりとした顔で頷いていた。
そして、嬉しそうに細めた眼を――先ほどまでは暗くて分からなかった、金色の瞳をこちらへと向ける。
「――ここは人が住む場所、暮らす場所。住宅街――――でありながら、誰の所有物でもない場所よぅ」
「そのすべてが――家も、家の壁も、壁を作るレンガの一枚、コンクリートの一片までも、あらゆるものが街に管理されているわぁ」
「……街が……? 個人が土地を所有し、家を建て、そこに暮らすのではなく……」
土地も、建物も、それらを作る資材に至るまで、あらゆるものがサンプテムによって管理されている……? それは……
ひとつ、理想だと思った。そして同時に、理想論でしかないとも思った。思っていた。
すべてを国が管理し、そうすることで誰にも平等な――不足の無い安寧を届けることが出来れば、と。
イリーナが語ったその形は、たしかに思い描いたことのある理想――論であった。
「……けれど、そんなことをすれば反発があった筈です。自らの生活のすべてを街に――公共に委ねるなどと……」
「――ちがぁう。それは違うわぁ。街に生活を委ねたんじゃない、街が生活を供与したの」
「もっとも……そうせざるを得なかった……のかしらねぇ」
せざるを……得なかった……
そう言ったイリーナの顔は、苦悶に満ちていた。
そして……その苦しみはきっと、私へ――アンスーリァへと向いているのだと思った。
「……イリーナ殿。貴女がここを統治し始めたのはいつ頃なのでしょうか。そして……その時、この街は……」
「さあねぇ。覚えていないわぁ、そんな昔のことなんて。でも……後ろの質問には答えてあげる。私がここへ来た時にはねぇ……」
――この街に、もう人は誰も住んでいなかったわぁ――
イリーナの言葉に、私は途方も無い勘違いをしていたのだと思い知らされた。
あまりにも気の緩んだ、怠惰な思惑だけで生きていたのだ、と。
「建物はあった、土地もあった、土壌も無事だった。けれど――ここにはもう、人はいなかったわぁ」
「もっとも……はじめはそれを都合の良いことだと思っていたけれどねぇ」
「……この街は一度滅んでいた……魔獣の脅威を払えず、人々を守ることが叶わなくなって……」
私の政治は――解放作戦は、すでに間に合っていなかったのだ。
ナリッドの惨状を見て、それでもなんとか間に合ってくれた……と、そう判断した。
カストル・アポリアを見て、私達は遅れてしまったが、その間にも人々は戦い続けてくれていた……と、そう喜んだ。
けれど、この街は――イリーナの知る、かつてのサンプテムは……
「――今のサンプテムはねぇ、全部私が作ったのよぅ。魔獣を払い、遺されたものを整備し、人を集め、そこに政治を建て直した。この街はねぇ――」
ここは――サンプテムは、イリーナそのものなのだ。と、そう言われた気がした。
そして、それを事実だと思った。
イリーナは笑っていた。嘲笑でもない、自虐的な笑みである筈も無い。
彼女は心から笑って――喜びを表に出して、両腕を広げて、彼女の背にあるものを――街の景色を、誇らしげに見せつける。
「――この区画は今、意図して空にしてあるのよぅ。ただのいたずらの為に、貴女をからかう為だけにねぇ」
「それが出来る――それが許される。そんな在り方を可能とする――それが、途上の街――サンプテムよぅ」
私達の来訪は予期されていた。そして、それに合わせて住民の居住区画を移動させた。
理屈は……単純なものだった。けれどそれは、完全なる統治を――政治による管理を意味していた。
私の背には冷たい汗が流れていた。
集落を繋いで街を作ったジャンセンさんとも、街を束ねて国としたヴェロウとも違う。
彼女は、無から街と政治を作り出したのだ。




