第三百九十四話【朧に触れて】
船がナリッドに到着するまでミラの話は続いた。
のうめんすいまーという、アギトとユーゴのもと居た世界に存在する英雄、その活躍の一端を。
それを語っている間のミラの表情は、まるで父や上の兄弟の武勇伝を自慢する無邪気な子供のようだった……が……
「……ユーゴ。もしや、彼女の語ったすいまーという存在は、神話に登場する英雄なのでしょうか。あるいは、それに近しい伝承に名を連ねる英傑だとか……」
船から荷物を降ろし、馬車の準備をしている最中。私はユーゴを呼び出して耳打ちをした。
ミラには聞かれないように、怒られないように、怒ってアギトに噛み付いたりしないように、と。
聞いた話をどれだけ反芻してみても、それが人間の物語のようには思えなかった。
いえ、その……現実に目の前に存在するアギトとミラも、十分に人間離れした活躍をしてみせているのだけれど、そうではなくて……
その世界には魔術というものが存在しない、魔獣のような脅威も存在しない。
だからこそ物語が生まれ、夢想の中に英雄を作り上げることには不思議も無い。
だが……脅威が存在しないのならば、いったいどうしてそこまでの強さを綴る必要があるのだろう。
それを考え、伝えられる物語の根源を探ってみようと思うと……この世界にも存在するように、古代の神話や伝承に端を発したものである可能性に行き着くのだ。
つまり……すいまーとは、この世界よりもずっと後の未来にすら語られる神話のひとつなのではないか……と。
それからもうひとつ。そんな話を、どうしてミラはここまで信じ切って……現実に存在する人間の逸話であると思っているのだろうか……という疑問も浮かぶ。
ミラはその話を――もうひとつの世界に存在する伝説を、きっとアギトから聞かされたのだろう。
この時点で、あくまでも伝聞でしかない――彼女にとっては真実味の薄い、実感の無い話になる。
それが更に、想像し難いほどの天変地異を操ると言うのだ。
魔術師であるミラならば、そんなものは所詮作り話だろう……と、そう断言してしまってもおかしくない。なのに……
ミラはそのすいまーという英雄を、現実に存在するものとして信じ込んでいる様子だ。
しかし、それを伝えた本人である筈のアギトは、あくまでもそれは作り話なのだと理解しているらしい。
そして、それを真実であるように誇張したつもりも無さそうで……
「どうにもあのふたりの間に認識の食い違いがあるようで、しかし……彼らが互いを正しく理解出来ていないとは思えませんから」
「となると……どちらかは相手の間違いに気付いていて、その上で……」
「……? なんでそんなめんどくさいこと考えてんだ……?」
めん……いえ、その…………そうですね。
たしかに、今考えるべきことではないのかもしれませんが。しかし……
ミラがあそこまで夢中になって語るのは、それこそ彼女の師である大魔導士マーリンの話をする時以来なのだ。
もっとも、それだってアギトが説明してくれる機会の方が多かったから、彼女がああまで興奮した姿を見るのは……怒ってアギトに噛み付いている時以外にはなかなか無いだろう。
それが頻繁に行われていることは一度無視する前提にはなるが。
「……私達は、彼らの在り方を――関係性、その後ろにあるものを、思ったよりもずっと把握出来ていなかったのだな……と、そう思ったら……少しだけ寂しくなってしまいまして」
「もう少しだけでも、彼らを良く知りたいな……と」
なんにせよ、ミラがあれほど憧憬を抱く存在があるのだ。それも、彼女では決して辿り着けない別なる世界に。
聞いた話だけであれだけ人を惹き付けるほどの何かがあって、それをあのふたりが共有しているというのは、ありていに言えばすごく羨ましいことでもある。
羨んでしまうと……私も混ぜて欲しいと思ってしまうものだから。
「なんか……アイツらが来てから変わったよな」
「前までは間抜けでアホでどうしようもなかったけど、最近は…………もっとダメになってる気がする」
「っ⁉ それは……その……ふたりに依存して、人間として堕落し始めている……と、そういうことでしょうか……?」
どうしても彼は私をこき下ろさねば気が済まないのだな……
しかし……彼の言うことには思い当たる節があって、そして……今更どうしようもないと諦めてしまうところもある。
彼が言っているのは……私が変わってしまったところとは、悪い意味での人間味の無さ……だったのだろう。
人でなしであると自覚して、自分にはまっとうな感情が残っていないと――他者を慈しむ心はあれど、それはただ自己保身に起因するものでしかないと思っていた頃の私を見て、彼は……今よりは比較的マシな、行動や思考が引き締まったものだと認識したのだ。
しかしそれが、あの敗戦によって崩壊してしまったから……自分の中にも寂しさや苦しさに負けてしまう心が残っていると自覚してしまったから。
それ以来の私は、あの頃よりも分かりやすく弱い人間になっただろう。
「……たしかに、自覚はあります。ですが今回は、それ以上に好奇心が勝るのです」
「以前より貴方から聞かされていた世界の話が、彼らと出会ってからはまた更に鮮明なものになって来ましたから」
アギトとミラについても知りたい、もっと打ち解けてみたい。
そして、アギトの知るもうひとつの世界について、もっと知りたい。
なんと言うか……子供に戻ってしまっているのかもしれないな、私は。
「出来れば貴方からも、もっともっと話を聞かせていただきたいのですが……どうでしょうか」
「ミラもまだまだ話し足りないといった顔をしていましたから、街へ向かう馬車の中もきっと賑やかになるでしょうし」
「……チビが話すなら俺が話す必要無いだろ、別に」
いえ、やはりそれを実際に体験した人間の言葉を聞きたいものだから。
当然だが、ミラの言葉にはどうしても憧れが多分に含まれてしまう。
そうではない、実際にそこで暮らした人間の話も聞きたいのだ。
「……ま、チビが順番譲ってくれたらな。あの調子だと街に着いてもずっと喋ってそうだし」
「ふふ、そうですね。あの子は本当にすいまーという英雄が気に入ったようです。まるで本当に見て来たかのような語り草でした」
もしかしたら、今は隠しているだけで、アギトには詩人としての……語り部としての才覚があるのだろうか。
あるいはそれを、ミラがここまで妄信してしまうほどのものだから……と、自ら封じている……なんて、そこまでは流石に大袈裟か。
そんな話をしているうちに準備は完了した。
私達はすぐさま馬車に乗り込んで、そしてまたミラがすいまーについて語り始めるのをじっと待つ……ではなくて。
合図をして、ナリッドの街に向けて馬車を出発させる。
「――さて。それじゃ、そろそろあの魔獣についても纏めとかないとネ」
「オクソフォンって街は内地にあるらしいケド、だからって無関係なわけじゃなイ」
「それに、今回の最終目的地であるサンプテムは、海に面した街なわけだかラ」
「無用に怯えさせる必要は無くても、だからって現実にある脅威を黙っておくなんてあり得ないワ」
「あ、あれ……? 魔獣……? え、ええっと……」
フィリア……? と、ミラに困り果てた顔で首を傾げられてしまった。
い、いけない……すごくすごく真面目な話が始まってしまった……っ。
船を降りる瞬間まであんなにもキラキラした目をしていたミラが、まるで武術の達人のような真剣な目をしている。
いえ、実際に達人ではあるのですが……
「もうしばらくスイマーの話をすると思ってたんだってさ、フィリアは。間抜けだから、今ある問題より楽しい話を優先したかったらしい」
「っ⁈ な――そ、そんなことはひと言も……っ!」
自分だって少し乗り気だったのに……っ。
ユーゴに裏切られ、私は静かな馬車の中、たったひとりだけのんきに英雄譚へ思いを馳せる間抜けになってしまった……
「すいまーさんの話をもっと聞きたいノ⁉ ふふん、じゃあしょうがないわネ!」
「魔獣の話なんていつでも出来るんだし、そんなの後回しヨ! フィリアにもあの方の素晴らしさがしっかり伝わったようで何よりだワ!」
「あ、あの……いえ、その……魔獣についての話をすべきだと言うのなら、そちらを優先しても……」
あんなの私が全部倒せば良いんだから、平気ヨ! と、なんだかユーゴのようなことを言い始めたと思えば、ミラはまた目をキラキラ輝かせて私の膝の上に登って来た。
嬉しそうなのは何よりですが……せっかく真面目な話をしようとしてくれていたのに、私が邪魔してしまった……
「でも……そうネ。ユーゴの力について説明するついでだったからすいまーさんを引き合いに出したケド、あの世界にはもっと素晴らしい勇者がいらっしゃるワ! それがばいかーさんヨ!」
「他人を思い遣れて、悪にさえ情けを掛ける、ユーザントリア全土よりも広い懐を持った最高の勇者様!」
「ば、ばいかーさん……ですか。ええっと……」
それも……やはり、また別なる伝承なのだろうか……? と、そんな疑問に答えを得るべくアギトへと視線を向けると、なんだか諦めたような顔で頷かれてしまった。
そ、そうか……彼らの世界にはいろいろな伝承が、神話が、英雄が……それも、ミラほど現実離れした強さを持つ勇者から見ても憧れられるほどの逸話が、いくつもいくつも存在するのだな……
そして馬車がナリッドの街に到着するまでの間、ミラはやや早口でふくめんばいかーについて語り聞かせてくれた。
彼女曰く、すいまーよりも偉大な勇者……とのことだが……




