第三百九十一話【取り戻される希望】
水中に棲む魔獣はまだ存在しない。それがこれまでの常識だった。
そして同時に、私達の中にあった小さくない油断だった。
「――――ヤバい――ヤバいヤバい――――っ!」
「ヘインスさん! 出来るだけみんなを船の真ん中に! 方向転換とか間に合いません! このままぶつか――――」
――ザバン――と、大きな水飛沫が上がって、それはそのまま甲板に降り注いだ。
その直前に見えたものは、市場に並ぶ魚のものとは比べ物にならない大きさの尾ひれ――――水中に適応した魔獣の証拠そのものだった。
魔獣はまだ水の中には棲めない。そう理解していた。誰もがそれは分かっていた。
まだ――そうなってはいないのだ、と。
いずれはそうなる可能性が十分に考えられると、私もきちんと理解していたつもりだったのに――っ。
「――ぶつかっては来なかった……? 挑発……? いや、そんなことする頭があるわけ……」
「アギト! ぼさっとすんな! ぶつかんなかったんなら急いで向き変えんぞ!」
「お前も手伝――――っ⁉ おい……あの魔獣、どこ行きやがった……っ!」
ただの魚ではない。遠洋に生息する巨大なクジラでもない。
ここに至ってそんなぬるい可能性に賭けるほど、事態は余裕のあるものではないのだ。
海の中に、今までは存在出来なかった筈の魔獣がいる。それも、かなりの大きさだ。
今までユーゴが倒してきた中でも上位に位置するだろう巨体が、私達からでは視認出来ない場所に隠れているのだ。
船の上にはもはや指示とは呼び難い怒号が飛び交っていた。
魔獣はなんらかの意図で――あるいは特に理由も無く、船にぶつかる直前で姿を消した。
海中深くに潜ったのだろう。問題は、それがどうしてそうなったのかが分からないこと。
そして――
「…………っ。ヘインス、皆を甲板の中央へ。こうなってしまってはもはや向きを変えるも逃げるもありません」
「あるいは、真下から突き上げられる可能性さえ考えられます。とにかく海へ落とされぬよう、皆を縁から離れさせてください」
――そうなってしまっては、こちらから何かをするすべが無いこと。
空を飛ぶ魔獣にはこれまでにも何度か遭遇したが、それらよりももっともっと性質が悪い。
飛び道具による攻撃は海の水に阻まれ、ユーゴやミラでさえも跳び上がって接近することすらままならない。
「――アギト! ミラを! ミラを呼んで来てください! あの子ならば――あの子の魔術ならば通用する筈です! ミラならば――――」
ミラならば――――とっくにこの襲撃には気付いている筈ではないのか――――?
それでも、騒ぎが大きくなるばかりの甲板にあの子の姿は無い。
誰よりも頼もしく、どんな時にも先陣を切っていたあの背中が、今この瞬間にこの場所に無い――のは――――
「――ミラは、ユーゴならばあの魔獣に対処出来ると――いえ、いいえ――っ!」
「ユーゴがあの魔獣に対処出来るようにならねばならないと、そう考えて――――」
――まさか――と、私はアギトと顔を見合わせ、それからすぐに船室のドアへと目を向けた。
そう、そうだ。あの子が魔獣の出現に気付かないなどあり得ない。
むしろ、船に乗り込んだ時点で――少なくともこうして沖にまで出た時点で、魔獣の気配は察知していた筈だ。
理屈は知らないが、あれだけ大きなものなら見付けられないとは思えない。
だが、それでもミラは部屋にこもることを選んだ。
そして――水質調査をするという建前を口にし、まだ理解させるには早いものだからとユーゴを部屋から追い出した。
わざわざ自分のいない場所で、ユーゴがこの巨大な魔獣と向き合うように差し向けたのだ。
ならば、その理由は――彼女の目論見は――
「――――うお――――っ!」
「――きゃぁあ!」
ドン――と、まるで地震のような強い衝撃が船を襲った。
それからすぐ、海面に真っ暗な影が現れる。
どうやら魔獣が船の底を叩いたようだ。
ぐらんぐらんと揺れる船上で、私もアギトも、それにヘインスや他の騎士達も、身を伏せてそれが収まるのを待つしかなかった。
「――――っ。不可能です。ミラが何を目論んでいるのか――どのような根拠でそれを可能なことだと判断したかは分かりませんが、あんなものはいくらユーゴでも倒せません。だって、こんな――」
影はまたすぐに薄くなって、消えてしまった。
また海中深くにまで潜ったのだろう。こちらを牽制している……とは思えない。
今までにこういった魔獣による被害の報告が無かった、原因不明の事故が無かったことを思えば、魔獣からしても人間の乗る船と遭遇するのは初めての筈だ。
ならば、考えられるのは……好奇心によって近付き、これがなんであるかを確かめている……という可能性か。
触れても良いものか、破壊しても良いものか、食うことの出来るものなのか。
ひとつひとつ確かめて、それから……っ。
どうあっても、魔獣がわざわざ海上に姿を晒すとは思えない。
だって、あちらからはこれが海面に浮かぶ何かに見えている筈なのだ。
であれば、水の中へと引きずり込もうとすることはあれど、わざわざ浮かび上がってこちらを覗き込むなどあり得ない。
では……姿を現さない敵を前に、ユーゴが抗うすべなど……
「……フィリア。なんか投げるもの。石とかじゃなくて、なんか……モリみたいなのとか」
「ユーゴ……? 銛……っ! そうか、投擲なら…………」
何も出来ない、どうしようもない。と、諦めるばかりの私に、当のユーゴは冷静な顔で投擲武器を要求した。しかし……
なるほど。と、納得したのはほんの一瞬のこと。
それからすぐに、頭の中には悪いイメージばかりが浮かび上がった。
きっとユーゴなら――魔女と戦っていた瞬間のユーゴならば、海面を貫き、そのまま魔獣の肉体を貫通するだけの投擲を披露しただろう。
だが……だが、だ。
まずもって、今のユーゴにそれだけの力があるとは思えない。
まだ、模倣は途中なのだ。ミラの模倣の途中、途上。
それに……今までに、ミラが一度でも何かを投げるような攻撃を見せてくれただろうか。
まだ、魔獣を貫くほどの威力を出せるとは思えない。そんな攻撃はまだ彼の中には存在しない。
これが、まずひとつ目の不安。
そしてもうひとつ、もっともっと重大な問題が……
「……待ってください、ユーゴ。もし……もしも、貴方の攻撃が魔獣まで届いたとします。それが有効打になったとも仮定します」
「それでも……きっと、一撃で死に至らすことはないと、まだあちらには動くだけの余力を残してしまうと思うのです」
あの巨体だ。心臓を的確に撃ち抜きでもしない限り、一撃で絶命させるのは不可能だろう。
そして……もしもあちらが、この船に対して強い警戒心を――好奇心を向けるべき対象ではなく、攻撃をして仕留めねばならないものだという認識を持ってしまったなら……
「一撃で仕留められなければ、次はもうありません。船の真下に潜り込まれては、いくら貴方でも攻撃のしようがありませんから」
「そして……貴方やミラがいたとしても、船を破壊されては誰ひとりとして助かりません」
ここは海の真ん中、とても海岸まで泳いで辿り着けるような場所ではない。
こちらがまず優先すべきことは、魔獣がこの船を破壊しようとするのを阻止すること。
つまり……敵意を持たれないようにすることなのだ。
「……船を海岸へと戻しましょう。浅い場所にまで逃げられれば、あの魔獣もこちらへと攻撃し難い筈です」
「少なくとも、真下に潜り込むのは難しくなるでしょうから……」
「……でも、それで逃がしたらどうすんだよ。ここで倒しとかないと、次は俺達の乗ってない船が狙われるだけだぞ」
っ。それは……そうだが。
しかし、今ここでユーゴもアギトもミラもいっぺんに失うわけには……
「大丈夫、一発で仕留めれば良いだけだ。それに……もしダメなら、海に潜って倒せば良い」
「な――だ、大丈夫ではありません!」
「海に潜れば、いくら貴方でも地面の上にいるようには動けないのです! それに、息をすることも出来ません!」
「引き換え、あちらは船よりも大きな身体を持ち、息継ぎの必要もほとんど……」
大丈夫。と、ユーゴはそう言って私の手を握った。
暖かくて、けれど小さな手だった。
「チビが出てこないってことはそういうことだろ。俺が倒す、倒さなくちゃいけないやつだ」
「なら、やる。フィリア以外に指示されるのはムカつくけど、でも……出来ないって思われる方が癪だし」
そ、そんな張り合いだけで……
しかし、ユーゴの目には何か確信めいたものが見えた。
もしや、彼の中にはあるのだろうか。
あの時に振るっていた力に接近する手段――そのきっかけか、あるいはそれ以外でもこの状況を打破する算段が……
「……っ。誰か、槍を。ユーゴに槍を貸してください」
「もしもこれがミラの計算の内なのだとすれば……彼を進化させるひとつの課題なのだとすれば、私達が邪魔をするわけにはいきません」
……どちらにしても、か。と、そんな諦念で決定したくはなかったが、もうこうなってしまっては仕方ない。
ミラならばこの状況を打破出来るだろう。ならば、もしもユーゴが失敗しても大丈夫だろう。
こんなくだらない、あまりに無責任な決断があってたまるかとは思う。
だが、彼女がそれを望み、ユーゴがそれを受けてしまった以上、私達からでは何も口出し出来やしないのだ。
「良いですか。機会はたった一度、二度目は無いと思ってください」
「それで仕留められなければ……あるいは、ミラですら対処出来ないような事態に陥る可能性も……」
「分かってる、いちいちうるさい。そもそもチビに出番とか回さない。俺が倒して――――」
終わりだ――――と、ユーゴはそれを言い終わるよりも前に、槍を受け取って甲板の上を走り始めた。
縁へと向けて――海面へと、そして海中に潜む魔獣へと向けて――
「――――おらぁあ――――っ!」
走った勢いそのまま、ユーゴは少し遠くなった影へ目掛けて槍を投げ込んだ。
弾丸もかくやと言わんばかりの投擲は、私達がそれを目で追うよりも速くに空を駆ける。
そして――
――――ぱしゃぁん――――と、甲高い音が響いて、海面高くに飛沫が舞い上がった。
それが意味するものは、槍が魔獣を貫いて――――
「――――ん? あれ? はあ?」
「――っ⁉ な――――」
――――はおらず、海面を跳ねて、もっともっと遠くへと飛んで――――しまって……
「……あっ。そっか、水切りみたいになるんだな、槍でも。もっと角度付けなくちゃいけないのか」
私達の視界からすっかり消えて……見えなくなって……
けれど、水面を激しく叩いたことには変わりなくて――魔獣を刺激してしまったのは間違いなくて――
「――いけない! ユーゴ! もう一度! すぐにもう一度攻撃を! 今ので魔獣は警戒心を高めた筈です! このままでは、すぐに反撃が――――」
いや、もう間に合わない――――っ。
影が小さくなるのが見えて、海面から遠く――たとえ槍を投げ込んだとしても届かないかもしれないくらい深くまで潜られてしまったのだと分かって、私はユーゴに、すぐに甲板の真ん中へと逃げるように叫んだ。
けれど、彼は――
「――別に、潜る必要は無さそうだな――――」
――縁に足を掛け、そのまま海上へと跳び上がった。
そして、腰に提げていた短剣を抜いて――
「――――チビの出番は無い――――っ!」
甲高い風切り音が聞こえたと思えば、船は大きく大きく――先ほど魔獣に底を叩かれた時よりも大きく揺れて――そして――
「――な――――み――皆、何かに掴まってください――――っ!」
海が両断されるのが見えた。
長細く大きな穴が開いて、そこに海水が流れ込み始めて――そして、それに飲まれるように船も傾き始めて――――
「――――うお――――ぉおおお――――っっ⁈ お前ら! 陛下だけはなんとしてもお守りしろ――――っ!」
水平線が映っていた縁の向こうに、海の底が見えた。
そこに魔獣の死骸が見えて、それをやったのがユーゴなのだと理解した時には――
――――ばしゃぁあん! と、水飛沫が上がった。
ふたつに割られた海がまたひとつに戻って、それがぶつかり合う時に大きな大きな波を生んだのだ。
倒れかけた船はその波に跳ね返されて、今度は反対に倒れそうになって、またもう反対に、また……と、出来の良い振り子のように延々と揺れ続けた。
魔獣は倒された。そして、ミラはその戦いに参加しなかった。
彼はたったひとりで、海中に潜んだ巨大な魔獣を倒して見せたのだ。
それだけの力を、彼はすでに取り戻して――――
そんな彼を海から拾い上げたのは、船の揺れが収まってしばらく経ってからのことだった。
着地のことも考えて飛び出してください……




