第三百九十話【新たな悪夢】
船に乗り込むとすぐ、ミラは海の水を汲んだ瓶を受け取って部屋にこもってしまった。
長くない航海の間に調べてしまおうということらしい。
それならば、せっかくだから。と、私はその様子をユーゴに見せてくれるようにと頼んだ……のだが……残念ながら渋い顔をされてしまった。
しかし、それは自身の術を秘匿したかったから……ではないようだ。なんでも、アギト曰く……
「アイツはアレで教えたがりなとこあるから、出来ることなら説明しながらやりたいところなんだとは思います」
「でもそれをしなかったってことは……多分ですけど、時間に余裕が無いとか、説明すべきじゃないものだと思ったかのどちらかかと」
「説明すべきではない……ですか? それは……ええっと……」
ユーゴにとって、あるいは誰かにとって不利益があるかもしれないと、ミラはその錬金術を公開しないことを選んだ可能性がある、と?
私が首を傾げて尋ねると、アギトも首を傾げて、多分ですけど……と、自信無さげに答えてくれた。
「たとえばですけど……それを見せると、ユーゴにとって悪影響が出る……間違った知識を覚えさせかねない、とか」
「本来あるべき錬金術や魔術からは外れた道の、異端なやり方を使うから、それを覚えさせるのはもっと後の方が良い……みたいな」
「……なるほど」
自信無さげな割に、アギトはなんだか珍しく的を射た発言を…………違うのです。
珍しくというのは、決してアギトが普段的外れなことばかりを言っているという意味ではなく、その…………とにかく、違うのです。
しかし、そんな彼の言葉には説得力があった。
彼自身に魔術の心得が無いとしても、ずっとミラの隣にいたわけなのだから。
それがどういったものかを理解していなくとも、ミラの行動の理由には想像がついてもおかしくないだろう。
「だから多分、この遠征の間にもどっかで実演講習やってくれますよ。って言うか、やらないと気が済まないと思います、アイツ自身が」
「ユーゴが魔術に興味持ったって言えば、ふんふん鼻鳴らしながら早口で教えてくれる筈です」
「ふふ、その姿は目に浮かびますね」
あの子は自身の好奇心に素直だが、それと同時に他者の好奇心に対しても寛容だ。
それを満たすことがどれだけ幸せか、満たされないことがどれだけじれったいかと思い知っているから、なのかな。
「……とのことなので、そう落ち込まなくても大丈夫ですよ、ユーゴ。ものごとは順を追って説明すべきだと考えてくれているのでしょう」
「……うるさい。別に落ち込んでない」
さて。文字通りその好奇心を持て余して、不貞腐れてしまっているユーゴだったが、この様子では錬金術に対してとても強い関心を持ったのだろうな。
クレッセンに実演して貰ったから――私のように知識を教えるだけではなく、実を伴った学びを教えて貰える相手が出来たから、彼にとって実感の湧かない魔術や錬金術に対しても、現実的な技術であるのだとはっきり認識を変えたのだろう。
そこへミラから、今回は教えられない、見せられないとお預けを食らってしまったものだから、たった今まで甲板の隅で不貞腐れて海を覗き込んでいたのだ。
アギトの話に聞き耳を立てながら、それが納得の行く理由であるかを確かめつつ。
「それより、沖の水も汲むんだろ。なら、そろそろ良いんじゃないのか」
「港からはずいぶん離れたし、時間の掛かる実験なら早めに届けてやらないと、チビだけ船から降りれなくなるぞ」
ユーゴは本当に賢い子だから。順を追って説明されなくてもきちんと理解出来る、そんな配慮は不要だ。と、きっとミラがこの場にいたらそんな文句を言っただろう。だが……
同時に、そう配慮されたからには、そうしなければならないだけの理由が――彼が知ったばかりの術とミラの術との間には、大き過ぎる隔たりがあるのだと推測し、それを受け入れるだろう。
その証拠に、さっきまで拗ねていたとは思えないほどきびきびと……いや。
どこかわくわくした様子で、ロープに瓶を括りつけて船の外へと投げ込んだ。
その過程を理解することは出来なくても、ミラが明かしてくれる結果についてはまだ興味を失っていないようだ。
「それにしても……ミラは何を調べるのでしょうね。水質を調査するとは言っていましたが、ええっと……それはそもそも……」
そんなユーゴのこともあるから、ここまではずっと気にしないように……気にしても疑問を口にしないようにしてきたが、ここへ至って――アギトがこうして話を聞いてくれる状況になれば、それを尋ねない理由も無い。
ミラはこのカンスタンの港を、ユーザントリアにある港よりも魚のニオイが濃い街だと……端的に言えば、生臭いところだと言った。
そしてその理由……原因が、水質にあるのではないかと、半ば確信めいた推論を口にしている。
あの子は魔術師だ。魔術師は学者で、学者は解き明かすことが本分だ。
となれば、きっとこうだろう……などという状態では、ああまで断言するまい。
なら、あの子の中には、この海に何か異変があると――ユーザントリアの海とは違う何かがあると、そう確信出来るだけの裏付けがあるのだ。
これまでの経験か、それともこの場に訪れてから察知した何かか、それは分からないが……
「……ただ生臭いだけならわざわざ調べないと思いますから、きっと何か…………うっ。な、なんだろう、めちゃめちゃ嫌な予感がしてきた」
「こういうの、やたら当たるんですよね、俺。なんだっけ……なんか……海……水中……なんかすっごい嫌なこと忘れてる気がする……」
「え、ええと……? 嫌な予感ですか……もしや、ミラが以前口にしていた、有事の際にだけ、アギトの能力は際立って強まる……というのは、そういった第六感的なものなのでしょうか」
だけ……と、アギトは心底がっかりした顔でうなだれてしまった。
ち、違うのです。その……その…………と、とにかく違うのですっ。
決して悪い意味や含みなどを持たせたつもりでは……
「……まあでも、ほんとにヤバいのだったらとっくにミラが気付いてますから」
「俺が気付くとしたら、ミラが気付いて戦って、苦戦して、それで……もしかしたらヤバいのかな? って、手遅れになる頃になる筈なので……」
「そ、それに意味はあるのでしょうか……? その……手遅れになる前に気付けなければ……」
気付けたら死んでませんよ……などと、とてもではないがシャレにならないことを言われてしまっては、私も閉口せざるを得ない。
しかしながら、本人は軽口の……冗談の一環として口にしたようで、私が黙ってしまったことに慌て始めてしまった。
その……すみません。その経験を冗談で口に出来る人間には初めて会うものですから……
「……ごほん。とにかく、何かあったらミラが真っ先に飛び出します」
「それこそ、水の中に魔獣が棲んでた、なんてことになったら……水の……中に…………水棲の…………それだっ!?」
「っ⁈ ど、どうしたのですか? 水の中に……? え、ええと……魔獣は水中には適応出来ない筈では……」
泥の中に潜む個体もあったが、しかしこんな広い海の中には……少なくとも、今までには一度も目撃例が無い。
それに、沼地に生息する魔獣も、もれなくすべてが肺呼吸をしていた。
つまり、魚類の魔獣というものはまだどこにも存在しなくて…………
「……? フィリア、ちょっとこっち来い。なんかデカいのいるぞ。あれ、クジラか?」
「クジラ……? クジラは……水の中に生息する…………っ!」
バシャ――と、大きな水飛沫が上がった。
それは、ユーゴが私を手招きした直後のことだった。
船からはまだ遠いところだったが、大きな大きな尾ひれが見えて……けれど、それの形が……
「――――まさか――陸上の魔獣が水棲適応したのではなく、すでに海中にまで魔力の影響が――――っ!」
デコボコと波打った鉄板のような尾ひれには、無数の傷が――岩礁や海底にぶつけたのであろう生々しい傷跡が、遠いこの場所からでもはっきりと見て取れた。
その様子から、まだそれが自身の形に――その大きさに、そして自らの凶暴性に慣れていないことを示すようで――
「…………おい……おいおい…………っ! もしかして、アイツがユーゴをここに残したのって…………っ!」
「……っ! まさか……あの“魔獣”に対処させる為に……っ⁉」
ザバァ――と、また大きな――先ほどよりも更に大きな水飛沫が舞った。
そしてそれは、水面から跳び上がったその姿を半分ほど隠してしまっていた。
半分ほど――隠されなかったもう半分は、私の目にも、アギトの目にも、ユーゴの目にもはっきりと映って――
「…………なんか、ここのクジラはキモい形してるんだな……って、そういう話なわけないか」
「――――っ! いけない、こちらに気付いて――っ」
「緊急事態です! ヘインス! 部隊を招集してください! 船を北へ――あの巨影から少しでも遠くへ――っ!」
ザバン。ザバン。と、先ほどまで穏やかだった海面は荒れた波を打ち始めた。
それは、大き過ぎる存在の活動が活発になったことを意味していた。
魔獣は水中には存在しない。それが、これまでの常識だった。
だが――目の前に存在するそれによって、そんな薄っぺらな希望は簡単に破り捨てられた。




