第三百八十六話【海の匂い】
カンスタンの港からナリッドへ向かい、そこからチエスコを経由してオクソフォンへと向かう。
以前の訪問とは違うそのルートには、魔獣が潜んでいるかどうかすらも分かっていない。
けれど、そこには人が住んでいる可能性が高い。
私達と同じく、魔術というものをさして知らない人々が。
私達と違って、ミラという特別な存在を知らない人々が。
だから、今度の遠征においては、ミラの魔術は――遠目には天変地異にすら見える魔術は使わないようにしたい。
事情を知らぬままにそれを目撃すれば、きっとパニックが起こってしまうだろうから。
そんな話をして、当の本人が渋々ながらも納得してくれたのは、ひとまず最初の目的地であるカンスタンに到着した頃のことだった。
真面目で聞き分けの良い子だと思っていたのだが、案外……その……特定分野については妥協を許せない性格だったのだな。
と、そんな決めごとをしたからには、当然他の部隊にも伝えておかなくてはならない。
もっとも、思い付きで決めたことでもないから、事前に通達自体は済ませてあった。ただ……
「……ということなので、本人にも了承をいただけました」
「今度の遠征においては、魔獣のせん滅に彼女の魔術は用いません。馬車を止め、武力のみによって突破します」
「はっ、承知致しました」
簡単には納得しないかもしれない。と、ヘインスに言われていたのだ。
その時点では、可能な限り全力で――確実に魔獣をせん滅すべきだ……と、そういう理由で反発されるものだと思っていたのだが……
ヘインスは私からの言葉を聞いて、どこかほっとしたような、けれどまだ強張った表情を浮かべていた。
魔獣と戦うことが恐ろしい……というのが無いわけではないだろうが、しかし本質はそこではあるまい。
やはりミラは、他国の王に対して平然と意見したのだな……と、そんな諦念のようなものがうっすらと見えた。
彼も普段から苦労をしているのだな……
「……すみません。本来ならば、借り受けている力に不要な制限を設けることこそが間違っているのです」
「しかしながら、人々の平穏を取り戻す戦いで、その平穏そのものを壊してしまっては意味がありませんから」
それだけ伝えて、私は逃げるようにヘインスのもとを後にした。
そのままいれば、話を続ければ、きっと彼は困り果ててしまうだろうから。
もういい加減に学習した。私が頭を下げると、皆はそれにへりくだらなければならなくなってしまう。
こんな体たらくでも、王である以上は仕方が無い。
けれど、それはそれとしても私からの謝罪の意思は伝えたい。伝えねば筋が通らない。
となれば……これが最良なのだろう。
謝って逃げる。まるで辻斬りの手口のようにも思えたが、悪いことをしているわけでなし、許して欲しい。
心の中でもう一度ヘインス達に謝罪の意を念じながら、私は乗ってきた馬車へと戻った。
そこには、もう荷物を降ろし終わった皆の姿が……ユーゴと、アギトとミラの姿があった。
「どこ運べばいいんだ、これ。ここあんま来ないから、イマイチ場所が分かってない」
「そう……でしたね。なんだかんだと、ここの港を利用した回数は多くありませんでしたか」
どうやら、私の説明不足で立ち往生させてしまっていたみたいだ。
これはうっかりした。と、急いで私も荷物を手に取って…………アギトとミラにすぐ掻っ攫われてしまった。
女王に荷物を持たせるわけにはいかない。と、その目は語っている。
「……はあ。ランデルから離れれば私の顔を知るものもずっと少なくなりますから、そこまで気にしなくても良いでしょうに……」
「いいエ、そういうわけにも参りませン。陛下に重い荷物を持たせるなど、そんな不敬が許される筈もありませんかラ」
いえ、そのくらいの荷物は自分で持ちますから……と、今それを言い争っても仕方が無いか。
馬車を降りて人前用の表情を作ったミラを案内し、私達は今晩を過ごす宿へと入った。
部屋にさえ入ってしまえば、ミラはまたいつものあどけない笑顔を私に向けてくれるし、そのまま膝の上に転がり込んで来てもくれる。
「んふふ。それにしても、ここは不思議な街ネ。ボーロ・ヌイとは匂いが違うワ。同じ港なのに、ここの匂いはちょっとだけ…………臭いワ」
「く、臭いのですか……? その……ボーロ・ヌイとは、ユーザントリアにある街の名前……ですよね。そこよりも……その、何がどう臭いのでしょうか……?」
転がり込んで来て、すりすりと頬を寄せて来て、そして…………なんだか遺憾な発言をしてくれる。
別におべっかを使って欲しいとは思わないが、まったく包み隠さないのもどうかと思うのだ……
「風土の違い……文化、様式の違いでしょうネ。水揚げした魚をどう処理してるかとか、どう保管してるかとか、そういうのの違いだと思うワ」
「ボーロ・ヌイに比べて魚のニオイが濃いのヨ。それが……悪い言い方をするなら、生臭いのよネ」
「生臭い……その……そうですね。港ですから、魚のニオイはなんともならないでしょう。しかし……」
ユーザントリアのボーロ・ヌイという街は、もう少しニオイを抑える工夫がなされている……のだろうか。
それは……その手法はぜひ参考にしたいものだ。
ニオイが抑えられるということは、腐敗を遅く出来ている……という可能性もある。
食料の流通においてそれほど重要なことがらも無いから、再現出来るものならここでも真似したいのだが……
「……それってさ、ここがボーロ・ヌイより大きいから……じゃないのか?」
「その……あの街ってさ、そりゃそれなりには大きかったし、他の街に魚を届けてたりもしてたけど……ほら。ボルツまではちょっと遠いし、それ以外の街には海路で行くし」
「貯蔵する設備はそう多くなかった……水揚げされた魚の量そのものが、ここよりも少なかった可能性がある……と、そういうことでしょうか」
そんなとこだと思います。と、アギトはなんとなく不安げな顔でそう言った。
合っているかは分からないが……なんて、自信の無い態度だが、彼の言葉にはたしかな理があった。
「このカンスタンからは、西にも北にも南にも陸路が続いていますから。輸送する海産物の量はかなりのものになるかと思います」
島国だけに、海からの資源に頼らなければならない面もあるしな。
なら、ミラが感じた違いはそこ……なのだろう。と、私とアギトが納得しかかっていると、そのミラがちょっとだけ首を傾げて私の手を捕まえた。
か、噛まないでくださいね……?
「数の問題、濃さの問題じゃないワ。質が違うのヨ。ここの方が魚が多いから……なんてことならとっくに嗅ぎ分けられてるもノ」
「……そんなことも嗅ぎ分けられるのですか、貴女の鼻は……」
もちろんヨ。と、胸を張るミラだが……すみません、それは人間の所業ではないと思います……
しかし……質……か。となれば、やはり保管方法……腐敗防止処置の差や、荷物の密閉具合の差だろうか。
ニオイが強いということは、それだけ手段が劣悪である証拠なのだろうし。
ならば、やはりユーザントリアのやり方を参考にして……
「……明日、海に出たらちょっとだけ調べ物をしたいわネ。もしかしたら、水質そのものが違うのかモ」
「水質……ですか。たしかに、貴女達が通って来たであろう海路は、この島の西部に到着するものでしょうから。島を挟んで東側のこちらの海とは、いくらか違っても不思議はありません」
それに、ユーザントリアは更に遠い西の大陸にある。
ともなれば、海の水が違うことにも不思議はあるまい。だが……
私はここで、不意に不安を感じてしまった。
たった今私の手を抱き締めてぐりぐりと頬を擦り付けているミラが、ただの環境調査の為にこんな話をするだろうか、と。
疑問を持つことには疑問など無い。好奇心の塊、それが魔術師というものだ。
ただ……今回はその好奇心だけには思えないから……
「明日、ちょっとだけ早起きして港へ行くわヨ。出発前に海岸の水を調査して、沖に出たらそこの水も調査するワ」
「……早起きって言葉をお前が使うのか……はあ。分かったよ、海岸の水汲んどけば良いんだろ」
「でも、昼には起きろよ。俺は船酔いする自信があるから、沖のは任せられても困る」
誰も頼んでないわヨ。と、ミラはつんと口を尖らせてアギトに反発した。
しかし……普段のように飛び掛かって噛み付かない辺り、本人にも自覚はあるのだろう。この子は朝が苦手だからな。
朝になったら港で水を汲む。誰かが、起きた時に。
そんな約束をして、私達は少し早めに休むことにした。
きっと私とユーゴで汲みに行くことになるだろう。
だって、日も昇らないうちから起こされてしまうのだし。
ミラのやること、気にしたことにはきっと意味がある。必ず何かの役に立つ。
そんな思いと、それでも少しの手間を惜しむ気持ちとがせめぎ合う中で、私は眠りに就いた。
ユーゴもちょっとだけ面倒くさがって、明日だけは遅刻してくれないだろうか。と、そんな怠惰な思いを胸に抱きながら。




